医務室の日常風景
「ザッカー典医、いいかい?」
王城の医務室に、聞き慣れた声が響いた
扉から顔をのぞかせたのは、国務大臣イレーヌ・ブープ伯爵だった
王国の政務を取り仕切る重臣の一人であり、本来ならば、こんな時間に医務室を訪ねている暇などない人物である
「ええ、どうぞ。伯爵閣下」
ミークニーが笑顔で迎えると、イレーヌは少し困ったような顔をした
「ザッカー典医、閣下はやめてくれと何度も言っているだろう」
「でしたら、私のこともザッカーで結構ですよ」
「いや、それは……」
「何か問題でも?」
「「……」」
二人の間に、妙な沈黙が流れた
やがてイレーヌが折れた
「分かった、ザッカー殿。私のこともブープで構わない」
「承知しました、ブープ様。ただし、公的な場では閣下とお呼びしますよ」
「……結局、様は付くのだな」
「もちろんです」
ミークニーは何食わぬ顔で答えた
イレーヌは小さくため息をつき、勧められた椅子に腰を下ろした
「それで、ブープ様。本日はどのようなご用件でしょう?」
「うん? 用がなければ来てはいけないのか?」
「いえ、そんなことはありませんが」
「お茶を飲みに来たのではいけないのかな?」
「そんなにお暇ではないでしょうに」
「私が会議の一回や二回サボったところで、国は揺るがんよ。そういうふうに部下を鍛えている」
随分と気楽なことを言う
だが、ミークニーは知っていた
この女性が、王城でも指折りの働き者であることを
朝早くから政務に追われ、夜遅くまで執務室の明かりが消えないことも珍しくない
そして今日も、目の下にはうっすらと隈ができていた
「でしたら、会議をサボった時間は睡眠に充ててください」
「……何?」
「目の下に隈ができていますよ。最近、きちんと眠っていないでしょう?」
「君は、女性に対してそういうことをだな……」
「女性だから申し上げるんですよ」
ミークニーは真顔で続けた
「せっかく綺麗なお肌をしていらっしゃるのに、睡眠不足はお肌の大敵ですからね」
「……!」
イレーヌは一瞬、言葉に詰まった
「わ、分かった、分かった! ここに来ると小言ばかりだな!」
「典医ですから。健康に関することは見過ごせません」
「まったく、君にはかなわんよ」
口では文句を言いながらも、イレーヌはどこか楽しそうだった
ミークニーは棚から茶器を取り出した
「それで、本当のご用件は?」
「だから、お茶を飲みに来ただけだと……」
「全く用事がないというわけでもないのでしょう?」
イレーヌは苦笑した
「やはり君は食えない男だな」
「よく言われます」
「誰にだ?」
「さて、誰でしょう?」
「……もういい」
イレーヌは降参したように片手を上げた
「聞いてもらいたいことが二つある」
「それは楽しみですね」
ミークニーはにこにこしながら、二人分の紅茶を用意した
茶器を載せた盆には、小さな焼き菓子も添えられている
イレーヌはその菓子に目を留めた
「ほう、これは?」
「タッカーの店から取り寄せたものです。どうやら新作らしいですよ」
「また新しい菓子を作ったのか。あの男は本当に飽きないな」
「本人は楽しそうですけどね」
焼き菓子の表面には、薄い琥珀色の飴がかかっていた
光を受けて、つやつやと輝いている
「表面の砂糖を熱して、香ばしく仕上げているそうです。キャラメリゼという手法らしいですよ」
「キャラメリゼ……」
イレーヌは興味深そうに菓子を持ち上げた
小さくかじると、表面の飴が軽い音を立てて割れた
「……!」
一瞬、目を見開く
続いて、口元がほころんだ
「これは……美味いな」
「でしょう?」
「表面は香ばしく、中はしっとりしている。砂糖の使い方一つで、こうも変わるものなのか」
「タッカーに伝えておきます。きっと喜びますよ」
「いや、待て。もう一つ食べてからにしてくれ」
「どうぞ、ご遠慮なく」
ミークニーは笑いながら菓子皿を差し出した
イレーヌは二つ目に手を伸ばし、紅茶を一口飲んだ
先ほどまで眉間に刻まれていた皺が、少しだけ薄くなっていた
—
「さて、一つ目の話だが」
イレーヌは菓子を食べ終えると、改めてミークニーに向き直った
「ザッカー殿に鍛えていただいた二人の医師だが、我が伯爵領で随分と活躍しているらしい」
「それは何よりです」
ミークニーの表情が明るくなった
「彼女たちは優秀でしたからね。何より、学ぶ意欲がありました」
「それでも、指導者に恵まれたからこそだと、手紙には書かれていたぞ」
「それは光栄ですね」
「領内で治療を受けられる者が増えたそうだ。以前なら手の施しようがなかった患者も、助けられるようになったと」
「彼女たちが努力した成果ですよ」
「君は自分の功績を認めようとしないな」
「私は知っていることを教えただけです。実際に患者を診ているのは彼女たちですから」
ミークニーは紅茶を一口飲んだ
「それに、医療は一人では広まりません。教えた知識を彼女たちがさらに次の医師へ伝えてくれれば、助かる人はもっと増えるでしょう」
「なるほどな」
イレーヌは静かに頷いた
「そうなってくれるとありがたい」
「私もそう願っています」
「いずれは、王都まで来なくとも医師を育てられるようにしたいものだ」
「ええ。そのためにも、まずは彼女たちに経験を積んでもらわないと」
イレーヌは満足そうに微笑んだ
自領へ送り出した二人の医師が、確かに成果を上げている
それは伯爵として、何より嬉しい報告だった
「それで、もう一つの話なのだが」
「はい」
「君たちが不帰の樹海から持ち帰った、アーダポルという芋のことだ」
「ああ、栽培はどうなりました?」
「順調だそうだ。我が領でも、試験的に植え付けたものがよく育っていると報告があった」
「それは朗報ですね!」
ミークニーは思わず身を乗り出した
「栽培が広がれば、冬の食料事情も随分と改善するはずです」
「ああ。麦だけに頼らずに済むというのは大きい」
「保存方法や調理法も広まれば、さらに役立つでしょうね」
「それについても、君の同僚が持ち帰ったレシピが役に立っている」
「タッカーですか?」
「そうだ。我が領の料理人たちも随分と助けられているらしい」
ミークニーは苦笑した
「彼は本当に膨大な数のレシピを覚えて帰ってきましたからね」
「大した記憶力だな」
「ええ。ただ、残念なのは、そのほとんどが彼の頭の中にしかないことです」
「それでも、君が書き留めてくれたものは大いに役立っているぞ」
「……あれですか」
ミークニーは少し遠い目をした
「レシピ五十品分のメモなんて、もう二度と書きたくありません」
イレーヌが声を上げて笑った
「ははは! そんなに大変だったのか!」
「大変なんてものでありませんよ。材料の分量から下ごしらえ、加熱の仕方まで、タッカーが次々に喋るものですから」
「君なら簡単に書けそうなものだが」
「医療の記録とは勝手が違います。しかも、途中で本人が『あ、こっちの方が美味いな』なんて言い出すんですよ」
「はははは!」
「書き直す身にもなってほしいものです」
ミークニーは肩をすくめた
「まあ、あれは特別サービスです。次からは本人に書かせますよ」
「それがよかろう」
イレーヌは笑いながら、三つ目の焼き菓子に手を伸ばした
「しかし、彼の料理が領民の食生活を豊かにしてくれるなら、ありがたいことだ」
「ええ。アーダポルも、食べ方が分からなければ広まりませんからね」
「まったくだ」
二人はしばらく、各地で試されている新しい作物や料理について話した
不帰の樹海から持ち帰られた知識が、少しずつ王国の各地へ広がり始めていた
医師が育ち、新しい作物が植えられ、それまで知られていなかった料理が食卓に並ぶ
どれも小さな変化だった
しかし、その一つ一つが、人々の暮らしを確かに変えつつあった
—
「ただな……」
イレーヌは紅茶のカップを置いた
先ほどまでの明るい表情が、少し曇った
「今年は、あまり楽観できそうにない」
「何かありましたか?」
「やや冷夏気味でな。麦の生育が思わしくない地域がある」
「……そうですか」
「それに、複数の地域で蝗害が発生している」
ミークニーの表情も引き締まった
「被害は大きいのですか?」
「まだ全容は分からん。だが、報告が上がってきている以上、無視はできんよ」
イレーヌは小さく息を吐いた
「麦の価格も上がるだろう」
「そうなると、食料を買う余裕のない人たちが困りますね」
「ああ」
「いつも、最初に苦しむのは弱い立場の人たちです」
ミークニーは静かに言った
医師として、彼は知っていた
食べるものが足りなければ、人は弱る
身体が弱れば、病にもかかりやすくなる
十分な食事を取れない子供や老人にとって、食料不足はそれだけで命に関わる問題だった
「アーダポルの栽培が間に合えばよいのですが……」
「今年はまだ、そこまでの量は期待できんだろうな」
「そうですね」
イレーヌは腕を組んだ
「だからこそ、今のうちにできることを考えておかねばならん」
「国務大臣のお仕事ですね」
「ああ。そうならないように、私が頑張るだけだ」
そう言うイレーヌの目の下には、やはり隈が浮かんでいた
ミークニーはじっとその顔を見つめた
「……何だ?」
「ですから、ブープ様」
「うん?」
「あなたも休んでくださいね」
「……またそれか」
「倒れてしまっては、できる仕事もできませんよ」
「分かっている」
「本当ですか?」
「分かっていると言っているだろう」
「でしたら、今日は早めにお休みください」
「君は本当に容赦がないな」
「患者さんには、いつも同じことを申し上げています」
「私は患者ではないぞ」
「今のところは、ですね」
「……まったく」
イレーヌは呆れたように首を振った
しかし、その口元には笑みが浮かんでいた
「分かった、分かった。今日は少し早く切り上げるとしよう」
「ぜひ、そうしてください」
「その代わり、また菓子を食べに来てもよいか?」
「もちろんです。お茶くらいなら、いつでもお出ししますよ」
「それはありがたい」
イレーヌは椅子から立ち上がった
「では、そろそろ戻るとするか」
「お仕事もほどほどに」
「君もな、ザッカー殿」
「私はきちんと休んでいますから」
「どうだかな」
イレーヌは楽しそうに笑った
扉の前で振り返る
「今日はありがとう。よい息抜きになったよ」
「それは何よりです」
「それと、あの菓子だが……」
「はい?」
「次に来るときも、用意しておいてくれると嬉しい」
ミークニーは思わず笑った
「タッカーに伝えておきますよ」
「頼んだぞ」
そう言って、イレーヌは医務室を後にした
来たときよりも、幾分軽い足取りだった
—
扉が閉まると、ミークニーは空になった茶器を片づけ始めた
皿の上には、焼き菓子が一つだけ残っていた
「……随分とお気に召したようですね」
小さく笑い、自分もその一つを口に運ぶ
表面の飴が、軽い音を立てて砕けた
「うん、確かに美味しい」
タッカーは、また面白いものを作ったものだ
そう思いながら、ミークニーは窓の外に目を向けた
王城の庭には、穏やかな日差しが降り注いでいた
遠くからは、衛兵たちの訓練する声が聞こえてくる
いつもと変わらない、王城の昼下がりだった
ミークニーは残った紅茶を飲み干すと、次の患者の診療記録を手に取った
今日もまた、医務室の一日が続いていく




