消された英雄-裏-
アン・ベノワ男爵は、王都の新聞社が発行した新聞に目を落としていた
発行日は、ちょうど一月前
そこには、ある軍人の名誉回復を伝える記事が掲載されていた
ネメシス・ペルサキス
その名前を見た瞬間、アンの手が止まった
記事を最後まで読み終えると、彼女は深く椅子の背もたれに身を預けた
「……大佐」
思わず、その名を口にする
二年前の記憶が、鮮明によみがえってきた
—
ベノワ男爵領は、メンヒ渓谷にほど近い場所にあった
決して豊かな土地ではない
しかし、代々の領主が守り続けてきた土地であり、そこに暮らす領民たちはアンにとって何よりも大切な存在だった
その平穏が破られたのは、隣国ダウランギリによる突然の侵攻だった
王国と結ばれていた不可侵条約の無効を一方的に宣言したダウランギリは、間を置かずに軍を進めた
周辺の村々は次々と陥落し、貴族領も相次いで占領されていった
そして、敵軍の先鋒がベノワ領まで数キロに迫った頃、寄り親である伯爵家から命令が届いた
兵百名を率い、メンヒ渓谷に設けられた山城へ参陣せよ
アンは苦悩した
領地を守るために残るべきか
それとも、伯爵家の命令に従うべきか
本当は、どちらも怖かった
アン・ベノワという女性は、決して勇敢な人間ではなかった
幼い頃から気が弱く、大きな物音にも驚くような性格だった
騎士として剣を学び、領主としての教育を受けても、その性格だけは変わらなかった
戦場で華々しく戦う英雄に憧れたこともない
できることなら、平穏な領地で家族と暮らしていたかった
しかし、彼女は王国の貴族であり、王家に仕える騎士でもあった
成人した姉妹たちも同じだった
アンは姉妹たちと話し合い、決死の覚悟で出陣することを決めた
まだ成人していない末妹のマルゴ
長年ベノワ家に仕えてきた執事のカーラ
そして、前年に生まれたばかりの三人の娘たち
彼女たちを領地に残し、アンは姉妹と領民百名を率いて山城へ向かった
出発の朝、アンは娘を抱きしめながら泣いた
もう二度と、この子たちを抱くことはできないかもしれない
そう思うと、足が震えた
それでも、彼女は馬に乗った
自分たちが戦うことで、領地の者たちが逃げる時間を少しでも稼げればよい
そう考えていた
—
メンヒ渓谷に到着したアンが目にしたのは、予想とは異なる光景だった
山城とその周辺の要地には、およそ五千の兵が配置されていた
一部には装備の整った正規兵もいたが、その大半は各地から集められた農民兵だった
武器も防具も統一されていない
槍を持つ者もいれば、古びた剣を腰に下げた者もいる
中には農具を改造した武器を手にする者までいた
だが、不思議なことに、その軍には規律があった
兵たちは自分の持ち場を理解し、命令に従い、整然と行動していた
そして何より、彼女たちの目には、絶望の色がなかった
この軍を率いていたのが、ネメシス・ペルサキス大佐だった
初めて対面したとき、アンは驚いた
目の前にいる女性は、決して威圧的な軍人ではなかった
物腰は穏やかで、言葉遣いも丁寧だった
しかし、その眼差しには揺るぎない意志が宿っていた
「ベノワ男爵ですね。よく来てくださいました」
大佐はそう言って、アンたちを迎えた
「兵百名、命令に従い参陣いたしました」
アンは緊張を隠そうと、精いっぱい声を張った
「ありがとうございます。あなた方には、渓谷東側の防衛をお願いしたい」
差し出された地図には、周辺の地形と各部隊の配置が細かく記されていた
アンはその地図を見て、思わず息をのんだ
兵の数が足りないことは明白だった
ダウランギリ軍は、二万
しかも、そのほとんどが戦闘を生業とする専従軍人である
こちらは五千
その大半が農民兵
まともに戦えば、結果は火を見るより明らかだった
アンの手が震えた
大佐はその様子に気づいていたのだろう
しかし、何も言わなかった
ただ、地図を指し示しながら、淡々と説明を続けた
「ここは敵が大軍を展開できない地形です。男爵の部隊には、この道を守っていただきます」
「……は、はい」
「無理に敵を倒そうとしなくて結構です。命令があれば退いてください。兵を失わないことが大切です」
アンは顔を上げた
兵を失わないことが大切
その言葉が、不思議と胸に残った
—
戦いが始まった
だが、それはアンが想像していた戦いとは、まるで違っていた
大佐は敵の大軍を正面から迎え撃とうとはしなかった
渓谷の狭隘な地形を利用し、敵を分断する
補給路を断ち、夜間に奇襲を仕掛け、追撃を受ければ迷わず退く
敵が進めば退き、敵が止まれば襲う
時には敵兵を一人も倒さず、補給物資だけを奪って撤収することさえあった
大佐は兵の命を惜しんだ
勝てる戦いを選び、勝てない戦いは避けた
戦果を求めて無理な追撃をすることもなかった
それでも、戦場は恐ろしかった
初めて敵兵が目の前に現れたとき、アンは剣を抜くことさえできなかった
心臓が激しく打ち、喉が渇いた
逃げたい
今すぐ、この場から逃げ出したい
何度そう思ったことだろう
夜になっても、恐怖は消えなかった
目を閉じれば、戦場で倒れた兵の姿が浮かんだ
明日は自分がああなるのかもしれない
娘たちの顔を思い浮かべ、毛布の中で声を殺して泣いた夜もあった
それでも、朝になれば鎧を着た
剣を腰に下げ、兵たちの前に立った
「皆、今日も必ず生きて帰るわよ」
震える声を悟られないように、精いっぱい笑った
領民たちは、そんな彼女に従った
アンは決して強い騎士ではなかった
しかし、誰よりも領民たちの命を大切にしていた
そして、その姿勢はネメシス大佐と同じだった
大佐は正規兵であろうと農民兵であろうと、等しくその命を守ろうとした
アンは次第に気づき始めていた
この人は、ただ戦いに勝とうとしているのではない
できる限り多くの者を、生きて故郷へ帰そうとしているのだ
そして、戦いは誰もが予想しなかった結末を迎える
二万のダウランギリ軍が、敗走を始めたのである
五千の寄せ集めともいえる軍勢が、四倍の敵軍を退けた
不可能と思われた勝利だった
だが、戦いはまだ終わっていなかった
敗走する敵軍の一部が、最後の反撃を試みようとしていた
撤収する王国軍を守るため、誰かが殿を務めなければならなかった
そして、その役目を引き受けたのが、ネメシス大佐だった
—
「大佐! 自分たちも最後まで戦います!」
アンは大佐の前に進み出た
姉妹たちも、その後ろに並んでいた
その声は、わずかに震えていた
本当は怖かった
ようやく戦いが終わると思ったのに、まだ敵が残っている
ここに残れば、今度こそ死ぬかもしれない
それでも、アンは大佐を残して帰ることができなかった
この人がいたからこそ、自分たちは生き残れたのだ
その人を置いて逃げることなど、できるはずがなかった
しかし、大佐は穏やかに首を振った
「ありがたいですね。しかし男爵、あなた方は十分に戦いました」
「ですが、まだ敵は残っています!」
「伯爵にも、あなた方の功績を記した手紙を送ってあります。胸を張って自領へお帰りください」
「しかし!」
アンは食い下がった
大佐は少しだけ微笑んだ
「男爵、あなたは怖かったのでしょう?」
アンは言葉を失った
「……はい」
しばらくの沈黙の後、ようやく声を絞り出した
「恥ずかしながら、毎日怖くて仕方ありませんでした」
大佐は静かに頷いた
「そうでしょうね」
「何度も逃げ出したいと思いました。兵たちの前では平気な顔をしていましたが、本当は……」
言葉が詰まった
大佐は責めなかった
ただ、穏やかな声で言った
「それでも、あなたは最後まで持ち場を守り続けた」
「……」
「怖くても逃げなかった。それは立派な勇気ですよ」
アンの目に涙が浮かんだ
自分は勇敢な人間ではない
誰よりも臆病で、戦場では震えてばかりいた
それなのに、この人は自分を勇敢だと言ってくれる
「自国民を守ることも、王国の貴族の務めですよ」
その言葉に、アンは息をのんだ
脳裏に浮かんだのは、領地に残してきた者たちの顔だった
末妹のマルゴ
執事のカーラ
まだ幼い三人の娘
そして、自分たちの帰りを待つ領民たち
大佐は続けた
「あなた方には、帰るべき場所があります。そして、帰りを待つ人々がいる」
アンは唇を噛んだ
「どうか、その勇気を、今度は領民のために使ってください」
それ以上、言葉が出なかった
やがて彼女は姿勢を正し、深く頭を下げた
「……わかりました」
大佐は微笑んだ
「どうか、ご無事で」
それが、アンが聞いたネメシス・ペルサキス大佐の最後の言葉となった
—
アンたちは生きて領地へ帰還した
領地は傷ついていた
だが、残された家族も領民たちも、生きていた
アンは姉妹と共に復興に力を尽くした
壊された家を建て直し、荒らされた畑を耕し直し、逃げ延びていた領民たちを迎え入れた
復興は決して容易ではなかった
食料は足りず、家を失った者も多かった
何から手をつければよいのか分からず、途方に暮れる日もあった
そんなとき、アンは大佐の言葉を思い出した
怖くても逃げなかった
それは立派な勇気だと、あの人は言ってくれた
ならば、今度も逃げるわけにはいかない
アンは領主として、できることを一つずつ進めていった
その一方で、メンヒ渓谷の戦いの結末も伝わってきた
ネメシス・ペルサキス大佐、戦死
最後まで敵を食い止め、撤収する友軍を守り抜いたという
アンはその知らせを聞き、声を上げて泣いた
姉妹たちも同じだった
あの日、大佐が自分たちを帰してくれなければ、今頃は共に死んでいただろう
自分たちの命は、あの人に救われたのだ
しかし、奇妙なことに、ネメシス大佐が国の英雄として称えられることはなかった
二万の敵軍を退けたという大戦果にもかかわらず、その名が広く語られることはなかった
なぜなのか
アンには分からなかった
ただ、ベノワ領では違った
領民たちは、メンヒ渓谷で自分たちを守ってくれた軍人の名を忘れなかった
ネメシス・ペルサキス
その名は、領地の人々の間で語り継がれていた
—
そして、二年が過ぎた
アンは手元の新聞に、もう一度目を落とした
そこには、ネメシス・ペルサキスの名誉が回復され、死後に少将へ昇進し、子爵位を授けられたことが記されていた
なぜ今になって、その功績が認められたのか
その経緯は分からない
だが、そんなことはどうでもよかった
「……よかった」
小さくつぶやいた
「本当に、よかった……」
あの人が、ようやく国から認められた
自分たちの恩人が、英雄として称えられている
それだけで十分だった
アンは新聞を丁寧に折りたたむと、傍らに控えていた使用人に声をかけた
「マルゴと、娘たちを呼んでちょうだい」
しばらくして、扉が開いた
「姉さま、お呼びですか?」
入ってきたのは、末妹のマルゴだった
あれから二年
幼かった末妹も成人し、今では立派な女性へと成長していた
その後ろには、アンたち姉妹の娘が四人、並んでいる
アンは彼女たちを見渡した
そして、机の上の新聞にそっと手を置いた
「私たちの恩人である方が、国から正式に評価されました」
マルゴは、その言葉だけで誰のことか理解したようだった
「……ペルサキス大佐、ですか?」
「ええ。今は少将閣下、そして子爵です」
アンは優しく微笑んだ
「あなたたちにも、覚えておいてほしいのです」
娘たちは真剣な表情でアンを見つめていた
「私たちがこうして暮らしていられるのは、あの方と、その部下たちのおかげなのですよ」
アンは一人ひとりの顔を見た
「これからも、あの方々への感謝を忘れてはいけません」
そして、少しだけ声を強めた
「何より、あの方のように、最後まで諦めない強い人間になりなさい」
「「「「「はい!」」」」」
元気な返事に、アンは思わず笑みをこぼした
娘の一人が、不思議そうに尋ねた
「母さまは、戦争が怖くなかったの?」
アンは少し驚いた後、微笑んだ
「いいえ、とても怖かったわ」
「母さまも?」
「ええ。毎日泣きたいくらい怖かったの」
娘たちは顔を見合わせた
自分たちの母親が、そんなに怖がっていたとは思わなかったのだろう
アンは静かに続けた
「でもね、怖くても逃げずに頑張ることが、本当の勇気なのだと教えてくださった方がいたの」
アンは新聞に目を落とした
「その方が、ネメシス・ペルサキス大佐だったのよ」
娘たちは、もう一度その名前を口にした
ネメシス・ペルサキス
まだ幼い彼女たちには、その名前が持つ意味のすべては分からないだろう
けれど、いつか分かる日が来る
そして、そのときには自分たちが、次の世代へ語り継いでくれるはずだ
アンは再び新聞へ目を落とした
そこに記された、懐かしい名前を見つめる
「大佐……」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった
「あなたのおかげで、私たちは今も生きています」
窓の外には、穏やかな日差しが広がっていた
かつて戦火に脅かされた領地には、再び人々の暮らしが戻っている
アンは静かに微笑んだ
国がその名を忘れていた二年間も
この地では、ネメシス・ペルサキスは英雄であり続けた
そして、これからも
その名が忘れられることはないだろう




