消された英雄③
メンヒ渓谷
王都から、わずか数キロ
その渓谷を抜ければ、王国の中枢が目前に広がる
王位継承を巡る混乱が続いていた当時、王都には十分な守備兵力が残されていなかった
各地の部隊は政治的な対立によって動きを制限され
指揮系統も混乱していた
そこを狙ったのが、隣国ダウランギリ王国だった
侵攻軍、約二万
正規軍を中心とした部隊である
対する王国軍は、わずか五千
予備役兵、二千
農民兵、三千
そして、その指揮を執るのは
ネメシス・ペルサキス大佐だった
――
「大佐、敵の先遣隊が渓谷の入口に到達しました」
副官のエリカ・ボベク少佐が報告した
ネメシスは地図から顔を上げた
「思ったより早いな」
「本隊も、明日には到着する見込みです」
「そうか」
ネメシスは再び地図に目を落とした
渓谷の両側には険しい斜面が続く
大軍が一度に展開できる場所は限られていた
だが、こちらも兵力が少ない
しかも、その大半は実戦経験の乏しい農民兵だった
「大佐」
「何だ?」
「本当に、ここで迎え撃つのですか?」
「他にどこがある?」
「王都へ後退して、防備を固めるという手も……」
「間に合わんよ」
ネメシスは地図の一点を指した
「敵がここを抜ければ、王都はすぐそこだ。今の王都に、二万の軍勢を迎え撃つ余裕はない」
「……」
「だから、ここで止める」
エリカは唇を噛んだ
「五千で、二万を?」
「正面からぶつかれば負けるな」
「大佐!」
「だから、正面からぶつからん」
ネメシスは、渓谷の地形を指でなぞった
「敵は二万いる。だが、二万が同時に戦えるわけではない」
「……なるほど」
「こちらは五千しかいない。だからこそ、五千を無駄なく使う」
ネメシスは顔を上げた
「まずは、地形を調べ直すぞ。地元の者を集めてくれ」
――
翌日から、渓谷では奇妙な作業が始まった
兵士たちは塹壕を掘り
農民兵は木を切り倒し
石を運び
斜面にはいくつもの障害物が設けられた
街道の一部は狭められ
迂回路には落とし穴が掘られた
さらに、渓谷の奥には複数の防御陣地が設けられた
「大佐、こんなに後ろまで陣地を作るんですか?」
エリカが尋ねた
「当然だろう」
「ですが、最前線で食い止めるのでは?」
「最前線が破られたら、そこで終わりか?」
「……いえ」
「なら、次の陣地が必要だ」
ネメシスは淡々と答えた
「一つの陣地を守り抜くことが目的ではない。敵を王都へ通さないことが目的だ」
そして、兵士たちに繰り返し命じた
「無理に踏みとどまるな」
「敵が迫ったら、決められた経路で後退しろ」
「後退は敗走ではない。次に戦うための行動だ」
その言葉に、農民兵たちは戸惑った
彼らが聞いてきた軍人の言葉は、もっと勇ましいものだった
一歩も退くな
命を懸けて守れ
最後の一兵まで戦え
だが、ネメシスは違った
「死んだ兵士は、次の戦いには参加できん」
彼女はそう言った
「お前たちには、何度でも戦ってもらう。だから、生き残れ」
――
ダウランギリ軍の攻撃が始まった
先鋒部隊が渓谷へ進入する
狭い街道を進む敵軍に対し、王国軍は斜面の陣地から矢と投石を浴びせた
敵が隊列を整えようとすると、倒木が進路を塞ぐ
障害物を取り除こうとした兵士が狙われる
ようやく前進したところで、王国軍は陣地を放棄した
「敵が逃げたぞ!」
ダウランギリ軍の兵士たちが歓声を上げる
だが、追撃した先には新たな防御陣地が待ち構えていた
再び矢が降り注ぐ
石が転がり落ちる
敵軍の進撃が止まった
そして、王国軍はまた後退した
一日目
ダウランギリ軍は、渓谷の半ばまでしか進めなかった
二日目
敵は兵力を増やして攻撃を再開した
だが、狭い渓谷では数の優位を十分に生かせない
先頭の部隊が足止めされれば、後続は待つしかなかった
その間にも、王国軍は陣地を移り
傷ついた兵士を後方へ運び
交代で休息を取っていた
「大佐、敵の損害が増えています」
「こちらは?」
「戦死者、負傷者ともに出ていますが、想定より少なく済んでいます」
「そうか」
ネメシスは頷いた
「負傷者の搬送を優先しろ。動ける者も、無理はさせるな」
「了解しました」
「それから、農民兵の食事は?」
「予定どおり配給しています」
「足りているか?」
「はい」
「よし」
エリカは、少し不思議そうにネメシスを見た
「大佐は、戦況より食事のことを気にされますね」
「腹が減っては戦えんだろう」
「それは、そうですが……」
「疲れた兵士は判断を誤る。判断を誤れば死ぬ」
ネメシスは地図を畳んだ
「戦場で兵士を殺すのは、敵だけじゃない」
――
戦いは数日に及んだ
ダウランギリ軍は何度も攻撃を繰り返した
だが、そのたびに進撃を阻まれた
狭い地形
複数の防御陣地
巧妙に配置された障害物
そして、組織的な後退
王国軍は少しずつ陣地を失いながらも、戦力を維持し続けた
一方、ダウランギリ軍は兵力の優位を生かせないまま損害を重ねた
やがて、敵軍の補給にも問題が生じ始めた
渓谷に入り込んだ部隊へ物資を届けるには、限られた街道を使うしかない
前線が滞れば、補給も滞る
兵士たちの疲労は増していった
それでも、敵軍は攻撃をやめなかった
王都は、すぐそこにある
あと少し進めば、王国の中枢を手中に収められる
そう考えていたのだろう
だが、そのあと少しが遠かった
――
「大佐!」
エリカが駆け込んできた
「敵軍に動きがあります!」
「どうした?」
「後続部隊が撤退を始めました!」
ネメシスは地図を見つめた
「……ようやくか」
「敵の本隊も、渓谷から引き上げる準備をしているようです」
「そうか」
ネメシスは、深く息を吐いた
「王都は守れたな」
エリカの顔が明るくなった
「はい!」
だが、ネメシスはすぐに表情を引き締めた
「まだ終わっていない」
「え?」
「敵は、全軍が撤退するまで後衛を残すだろう。こちらも最後まで警戒が必要だ」
「了解しました」
「それと、撤退する敵を深追いするな。こちらには、その余裕がない」
「はい」
ネメシスは周囲を見渡した
疲れ切った兵士たち
泥にまみれた装備
負傷者を運ぶ担架
それでも、彼らは生きていた
五千の守備軍のうち
約四千が生き残っていた
二万の正規軍を相手にした戦いとしては、信じ難い結果だった
「……よくやった」
ネメシスは、小さく呟いた
――
だが
敵軍が完全に撤退する直前
最後の攻撃が始まった
ダウランギリ軍の一部が、王国軍の防御陣地に突入したのである
撤退を援護するための攻撃なのか
それとも、最後の突破を狙ったものなのか
その意図は分からなかった
ただ一つ、確かなことがあった
ここを抜かれれば、王都へ続く道が開かれる
「大佐、敵が来ます!」
エリカが叫んだ
ネメシスは、剣を抜いた
「残っている兵は?」
「すでに後方へ退かせました。負傷者も、ほとんど搬送を終えています」
「そうか」
ネメシスは頷いた
「なら、よかった」
「……大佐」
エリカは、その横顔を見つめた
もう、二人の後ろには守るべき兵士はいなかった
彼らは王都へ向かう道を塞ぐ最後の位置にいた
遠くから、敵兵の足音が近づいてくる
ネメシスは、ふと笑った
「はは、結局忠義の盾のようになってしまったな。女王に対する反逆者のまま死ぬのだから不忠義の盾か…」
「とは言え、奴らにここを通すことは許さん。エリカ君、最後まで貧乏くじを引かせて悪いなぁ」
「はぁ、全くです。あなたの部下になってこんなのばかりです。」
「すまん」
「大佐、謝るのはなしですよ。」
「じゃあ、行こうか。」




