消された英雄②
王宮、宰相執務室
クラリス・ヴァイスフェルトは、机の上に置かれた一枚の書類を見つめていた
ネメシス・ペルサキス
名誉回復
少将への追叙
子爵位の授与
すでに女王陛下の裁可を受け、正式に発表されたものだった
長い年月をかけても果たせなかったことが、ようやく実現した
だが
クラリスの胸にあるのは、安堵ばかりではなかった
「……遅すぎたな」
その言葉に答える者はいない
机の引き出しを開ける
奥には、一冊の古い本が収められていた
何度も読み返したため、表紙の角は擦り切れている
『忠義の盾』
幼い頃、夢中になって読んだ物語だった
平民の少女が王女に仕え
幾多の苦難を乗り越え
最後には、自らの命を盾として王女を守る
王女はやがて立派な女王となり
少女の忠義は、後世まで語り継がれる
ありふれた英雄譚と言えば、それまでだった
それでも、クラリスはその物語が好きだった
そして
あの少女も、同じ本が大好きだった
――
王立士官学校
まだ士官候補生だったネメシス・ペルサキスは、ある王女と親しくなった
イオネ・アデス
後のアバディーン・アンガス王国第十九代国王である
当時は王太子でもなく、十三人姉妹の一人にすぎなかった
ネメシスがイオネに近づいたのは、特別な野心があったからではない
士官学校で顔を合わせる機会があり、話しかけた
ただ、それだけだった
もっとも、王族に気安く声をかける士官候補生など、普通はいない
しかも、ネメシスは平民出身だった
最初は周囲も警戒した
だが、本人はそんなことを気にする様子もなく、顔を合わせれば挨拶し、機会があれば話しかけた
イオネもまた、その物怖じしない態度を面白がった
やがて二人は、身分の違いを忘れて話せるほど親しくなっていた
ある日のこと
イオネと側近たちが集まっていたところで、ネメシスが一冊の本を手に取った
『忠義の盾』
「子供っぽいと言われるだろうけど、私はこの本が好きでね」
ネメシスは、少し照れくさそうに笑った
「子供の頃から棒を持って騎士の真似事なんてしていた。憧れだったよ」
クラリス・ヴァイスフェルトが、呆れたように肩をすくめた
「君みたいな無礼な子は、騎士になんてなれないんじゃないか?」
「ひどいな」
「学校内とはいえ、いきなり殿下に近づいてきたときは、間者か何かと思ったぞ」
「はは、そうだったのか」
側にいた別の側近も、苦笑しながら口を開いた
「私たちなんて、子供の頃からお仕えして、やっと普通にお話しできるようになったのに。少し悔しかったわ」
「それは悪かったね」
ネメシスは笑った
だが、すぐに真面目な顔になった
「でも、私はそれで仕えるべき主と出会った」
「……何?」
イオネが眉を上げた
「まさか、我のことを言っているのか?」
「ああ。イオネ殿下、私はあなたに仕えたい」
「はっ?!」
イオネは思わず声を上げた
「我を庇って死ぬような部下ならいらんぞ」
ネメシスは少しも動じなかった
「死なないから安心してくれ。私は、イオネ殿下が年老いて死ぬ間際まで側にいる」
その場が静まり返った
やがて、クラリスが口元を緩めた
「なら、私もその道を同行しようか」
「クラリス、お前まで!」
イオネは二人を交互に見た
「我は王太子でも何でもないのだぞ。いずれ降家して、田舎に引きこもるつもりだ」
「知っているよ」
「ならば軍で成り上がるなり、もっとよい主君を探すなりしろ。お前たちなら、それもできるだろう」
ネメシスは首を横に振った
「主君を選ぶのに、将来の地位なんて関係ないさ」
クラリスも頷いた
「私も同感だ。あなたが田舎で暮らすというなら、それも悪くない」
「……まったく」
イオネは呆れたように天を仰いだ
そして、ふっと笑った
「好きにしろ。ただし、後悔しても知らんぞ」
「しないよ」
ネメシスは即答した
クラリスも笑った
「私もだ」
その日、三人は将来の約束を交わした
誰も、イオネが王位に就くとは思っていなかった
誰も、ネメシスが反逆者と呼ばれる日が来るとは思っていなかった
そして誰も
あの約束が、果たされないまま終わるとは考えていなかった
――
年月が過ぎた
王宮では、王位を巡る争いが激しくなっていた
相次ぐ不幸と政争の末
王位継承の可能性などほとんどなかったイオネが、王太子となった
ネメシスは軍人として昇進を重ね
クラリスもまた、王宮で政治の道を歩んでいた
三人が顔を合わせる機会は少なくなった
それでも、絆は変わらない
クラリスは、そう信じていた
だが
イオネが王位に近づくほど
彼女を取り巻く人々の思惑は複雑になっていった
王家の血筋
貴族同士の利害
軍の派閥
そして、王太子の側近を巡る争い
その中で、ネメシスは異質な存在だった
平民出身でありながら、王太子と親しい
貴族の顔色をうかがわず
上官に対しても遠慮なく意見する
軍人としての能力は高い
だが、それだけに敵も多かった
「少しは言葉を選びなさい」
クラリスは、何度そう忠告したか分からない
「間違っていることを、間違っていると言って何が悪い」
「正しいことでも、言い方というものがあるのよ」
「言い方を変えたところで、間違いが正しくなるわけではない」
「そういうところだ!」
ネメシスは笑った
「大丈夫だ。私は軍人だからな」
「軍人だから何だ?」
「戦場で役に立てば、それでいい」
クラリスはため息をついた
戦場では、それでいいのかもしれない
だが、王宮は戦場とは違う
剣を抜かずとも、人を失脚させることができる
そして
その危険を、ネメシスはあまりにも軽く考えていた
――
事件が起きたのは、イオネの即位を巡る混乱が続いていた頃だった
王室に対する陰謀
軍内部の不穏な動き
そして、王族の命を狙った計画
その調査の中で、ネメシスの名が挙がった
クラリスが報告を受けたときには、すでに事態は大きく動いていた
「馬鹿な……」
彼女は思わず声を漏らした
ネメシスが、イオネを裏切るはずがない
そんなことは、誰よりも分かっている
だが
証言があった
関係者との接触記録があった
不自然な命令書も存在した
一つ一つは決定的とは言えない
それでも、すべてを並べれば、ネメシスが陰謀に関与したように見える
「これは……」
クラリスは書類を握りしめた
誰かが仕組んだのだ
そう確信した
だが、確信だけでは人を救えない
王宮では、厳罰を求める声が高まっていた
平民出身の将官が王室に背いた
それは、貴族たちにとって都合のよい説明でもあった
クラリスは奔走した
証言を調べ
記録を集め
処刑を求める者たちと交渉した
だが、真相を明らかにするには至らなかった
できたのは
ネメシスの命を守ることだけだった
准将から大佐への降格
王都の軍務からの排除
新兵練兵所への異動
それが、クラリスの勝ち取った結果だった
「……すまない」
処分を伝えたとき
クラリスは、それしか言えなかった
ネメシスは、しばらく黙っていた
やがて、苦笑した
「何を謝る」
「だって……」
「生きている。それで十分だ」
「十分なわけがないだろう!」
クラリスは声を荒らげた
「君は何もしていないのに!」
ネメシスは答えなかった
ただ、窓の外を眺めていた
「……イオネ殿下は?」
その問いに、クラリスは言葉を失った
即位を控えたイオネは、すでに多くのものを失っていた
信頼していた者たち
家族
そして、王宮への信頼
その中で持ち上がった、ネメシスの反逆疑惑
イオネは、ネメシスを処刑せよとは言わなかった
だが
無実を信じるとも言わなかった
「……今は、会えないそうだ」
クラリスが答えると
ネメシスは、小さく頷いた
「そうか」
それだけだった
恨み言も
弁明も
口にしなかった
「ネメシス……」
「クラリス」
「何だ?」
「イオネ殿下を頼む」
クラリスは顔を上げた
「……君は?」
「私は、私の仕事をする」
ネメシスは笑った
いつもの、少し不敵な笑みだった
「兵士を育てるのも、軍人の仕事だろう?」
――
その後、ネメシスは王都から姿を消した
辺境の練兵所
そこに送られてくるのは、正規軍では持て余された兵士たちだった
十分な装備も与えられず
将来を期待されることもない
捨て石と呼ばれる男たちも、その中にいた
ネメシスは、彼らに戦い方を教えた
生き残る方法を教えた
そして、命を粗末にするなと繰り返した
クラリスのもとには、時折報告書が届いた
訓練内容の改善
衛生教育の拡充
補給計画の見直し
実戦を想定した集団行動の徹底
どれも、ネメシスらしい内容だった
『お前たちの命は女王陛下のものだ』
『だから、簡単に捨てるな』
そんな訓示をしていると聞いたとき
クラリスは、思わず笑ってしまった
「……本当に、変わらないな」
反逆者と呼ばれ
王宮から追われ
それでもなお、女王の兵士を育て続けている
クラリスは何度も、名誉回復の機会を探した
だが、古い事件の記録は容易には開かれなかった
関係者の中には、今も王宮の要職にある者がいる
真相を掘り起こすことは、新たな政争を招く可能性があった
それでも、いつかは
そう思っていた
いつか、すべてを明らかにして
三人で、もう一度笑える日が来る
そう信じていた
――
宰相執務室
クラリスは、古い本をそっと閉じた
ネメシスが死んだという報告が届いたのは、戦いが終わってからしばらく後のことだった
メンヒ渓谷防衛戦
敵軍二万
守備軍五千
王都への侵攻を阻止
指揮官、ネメシス・ペルサキス大佐
戦死
報告書には、そう記されていた
クラリスは何度も読み返した
何度読んでも
最後の二文字は変わらなかった
戦死
あの日の約束は、果たされなかった
『死なないから安心してくれ』
『私は、イオネ殿下が年老いて死ぬ間際まで側にいる』
「……嘘つき」
クラリスは、古い本の表紙を撫でた
ネメシスの名誉は、ようやく回復された
だが
彼女自身が戻ってくることはない
「君のことを、ちゃんと伝えなくてはな」
机の上には、もう一つの書類があった
メンヒ渓谷防衛戦
その詳細な戦闘記録だった
クラリスは、ゆっくりと最初の頁を開いた




