祭りの後
薄暗い脱出通路を、一人の女が走っていた。
何度も背後を振り返りながら、足をもつれさせ、それでも必死に走り続ける。
やがて、隠された出口を抜けたところで、女は壁に手をついた。
「はぁ、はぁ……逃げ切れたか……」
追ってくる足音はない。
あの男も、爆発に巻き込まれた人々を助けに戻ったはずだ。
女は大きく息を吐いた。
そのときだった。
「こんばんは」
不意に、背後から声がした。
「!」
女が振り向くと、そこに一人の女性が立っていた。
灰銀の髪。
薄暗がりの中でも、その髪は不思議な光沢を帯びている。
女性は穏やかに微笑んでいた。
「あんた……いや、あなたは!?」
灰銀の女は答えなかった。
代わりに、指先で小さなアンプルをつまみ上げた。
中には、わずかに液体が残っている。
「凄い薬よね?二流剣士が、まるで一流剣士……」
女は引き攣った笑いを浮かべた。
「そ、それは……」
「嵌め手や搦め手などの汚い手は、我らの専売だけど……」
灰銀の女は、アンプルを光にかざした。
「あなたたちのやり方は、美しさがないわ」
「ひっ!」
「薬を飲んだ剣士は、全て再起不能な廃人。生まれだけ青い血という身分に胡座をかき、汗と血を流す者たちを使い捨て……」
灰銀の女の微笑みが消えた。
「美しくない」
一歩、近づく。
「美しくない」
女が後ずさった。
「うつくしくなーい!」
「ああああぁ……!」
ひゅんっ!
風を切るような音がした。
次の瞬間、黒幕の女の首が地面に転がった。
一拍遅れて、首を失った身体から血が噴き出す。
灰銀の女は、倒れゆく身体を静かに眺めていた。
そして、小さく息を吐いた。
***
エルネ・マクロー子爵の書斎。
「ふう……」
子爵は座椅子に深く背を預けた。
長い一日だった。
ようやく一息つける。
侍女に茶でも持ってこさせようと、机の上の呼び鈴に手を伸ばした。
そのとき。
「……誰?」
部屋の中に、人の気配があった。
顔を上げる。
「ごきげんよう」
そこには、灰銀の髪をした女が立っていた。
「あなたは!?」
子爵は椅子から腰を浮かせた。
女は優雅に一礼した。
「お久しぶりですね、マクロー子爵」
そう言うと、手にしていた布包みを床へ放り投げた。
どさり。
重い音がした。
包みは床を転がり、カーペットの上で止まった。
布の隙間から、赤黒い染みが広がっていく。
やがて、部屋に生臭い血の臭いが漂い始めた。
子爵の顔から血の気が引いた。
「ま、まさか……」
灰銀の女はにっこりと微笑んだ。
「お土産です」
「ひぃ!」
子爵は椅子にへたり込んだ。
女はその様子を楽しむでもなく、ただ静かに見つめていた。
そして。
「今後について、お話をしましょうか?」
***
フロレンスの事務所。
テーブルを挟んで、ユーリイとフロレンスが向かい合っていた。
「被害を最小限に抑えることができてよかったよ」
フロレンスはそう言って、椅子に深く腰を下ろした。
ユーリイは首を横に振った。
「それでも、結局黒幕を逃がしてしまった。申し訳なかった」
そう言うと、懐から布袋を取り出した。
硬貨の触れ合う音がする。
事前に受け取っていた依頼料だった。
ユーリイはそれをテーブルの上に置き、フロレンスへ差し出した。
「何だい、これは?」
「今回は、あんたから受けた依頼を達成できなかった。事前に受け取った依頼料は返す」
フロレンスは呆れたように目を丸くした。
「馬鹿言いなよ。あれ以上の結果を出せる奴がいたら会いたいね」
「だが……」
「あんたは立派な働きをした。だから、これを……」
フロレンスは懐から革袋を取り出した。
ユーリイが差し出した布袋より、一回り大きい。
それを布袋と一緒に、ユーリイの方へ押し戻した。
「受け取っておくれ」
「いや、受け取れない」
「何言ってんだい。しっかり観客やうちの子たちを助けてもらったんだ。受け取っておくれよ」
ユーリイは困った顔をした。
フロレンスは腕を組んだ。
「じゃないと、次に仕事があっても頼めないよ」
「……分かった」
ユーリイは二つの袋を手に取った。
そして、懐へしまった。
フロレンスは満足そうに頷いた。
「そうそう、あんたの相棒に任せた『歌姫の籠』の方だけど、良い感じで終わったみたいだ」
「ほう?」
「優勝者は例年の習い通りだったのが少し悔しいけど、久しぶりに本物と言えるような天性の歌姫が生まれたらしい。ひと悶着はあったらしいけどね……」
「そうか……」
ユーリイは小さく息を吐いた。
剣の大会では爆発騒ぎが起き、黒幕を追い詰めながらも取り逃がした。
それでも、救える命は救えた。
もう一方の大会も、無事に終わったらしい。
ユーリイの表情が、ようやく緩んだ。
「結局、俺はこっちもあっちも、一番いい所は見られなかったってことか」
そう言って笑った。
今日一番の笑顔だった。
フロレンスも笑った。
「悪いね。私は決勝戦は見られたからさ」
「主催者特権って奴さ」
ユーリイはそう言って立ち上がった。
「それにしても、やっぱりあんたは仲間を大切にする男だった」
フロレンスは、後ろに控えていた若い者たちを振り返った。
「な?だから、私の言ったことは間違ってなかったろ?」
若い者たちは顔を見合わせた。
だが、異を唱える者はいなかった。
ユーリイはそんな様子を眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「俺は逆に、あんたのことを見誤ってたよ」
フロレンスが眉を寄せた。
「嫌な物言いだね」
「あんたは、見かけは豪快だけど……」
ユーリイは少し笑った。
「中身はラローザよりも乙女だったな」
「ぶっ!」
フロレンスが吹き出した。
「やめとくれよ!」
ユーリイも声を上げて笑った。
フロレンスも、つられるように笑い始めた。
その様子を、後ろに控えていた若い衆たちが、微笑ましく眺めていた。




