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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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籠から飛び立つ歌姫

「くっ!」


カリーナは唇を噛んだ。


エドナとブルーナの言葉に、客席がざわめき始めていた。


「確かに、三十番の子はすごかったよな」


「でも、エミリアさんだって素晴らしかったわ」


「今年は観客の評価も入るんじゃなかったのか?」


あちこちから声が上がる。


カリーナは手にした紙に目を落とした。


そして、顔を上げると、きっぱりと言い切った。


「審査結果に変更はありません!」


ざわめきが少し収まった。


「今年度の『歌姫の籠』、優勝はエミリア・フーバーさんです!」


カリーナはそう宣言すると、係員から優勝の盾を受け取った。


「エミリアさん、こちらへどうぞ!」


エミリアは一瞬ためらった。


だが、名前を呼ばれた以上、前へ出ないわけにはいかない。


ゆっくりと歩み出る。


カリーナは笑顔を浮かべた。


「おめでとうございます!」


「……ありがとうございます」


差し出された盾を、両手で受け取った。


ずっしりとした重みがあった。


長年、夢見ていた優勝の証だった。


これを手にするために、どれほど練習を重ねてきただろう。


母から厳しく教えられた日々。


伯爵家に戻ってからの、さらに高度な訓練。


侯爵閣下の前で歌った、数え切れないほどの舞台。


その全てが、今日のためだった。


それなのに。


エミリアの顔に、笑みはなかった。


カリーナはそんな彼女の様子に気づいたのか、少し眉を動かした。


だが、すぐに客席へ向き直った。


「それでは、今年度の『歌姫の籠』は、これにて閉幕といたします!出場者の皆さんに、今一度盛大な拍手をお願いいたします!」


拍手が起きた。


カリーナは深々と頭を下げた。


これで終わり。


そのはずだった。


「ロビン!」


客席の一角から、声が上がった。


「ロビン!」


別の場所からも声が続いた。


「ロビン!ロビン!」


カリーナが顔を上げた。


「アンコール!」


今度は別の声だった。


「アンコール!アンコール!」


客席のあちこちで、人々が立ち上がり始めた。


「ロビン!ロビン!」


「アンコール!アンコール!」


最初はまばらだった声が、次第に重なっていく。


手拍子が始まった。


一人、二人。


十人、百人。


やがて、その音は劇場全体へと広がっていった。


「ロビン!ロビン!」


「アンコール!アンコール!」


大きな波が押し寄せるようだった。


観客たちは、もう一度あの少女の歌を聴きたがっていた。


エミリアは、盾を抱えたまま客席を見つめていた。


誰も、自分を責めているわけではない。


優勝に対して、露骨な罵声が飛んでいるわけでもない。


ただ。


皆が、ロビンを呼んでいた。


エミリアは、ゆっくりと視線を落とした。


腕の中には、優勝の盾があった。


カリーナは客席を見渡した。


何かを言おうとして口を開いたが、すぐに閉じた。


歓声はますます大きくなっている。


「ロビン!ロビン!」


「アンコール!」


カリーナは苦虫を噛み潰したような顔になった。


そして、係員に何事かを告げると、足早に舞台袖へ姿を消した。


ほかの出場者たちも、次々と舞台を降り始めた。


エミリアもその列に加わった。


優勝の盾を抱え、ゆっくりと歩いていく。


その横を、ロビンが通りかかった。


少女は困惑した顔で、客席と舞台袖を交互に見ていた。


どうすればいいのか、分からないらしい。


エミリアは足を止めかけた。


何か言おうと思った。


だが、言葉が出てこなかった。


結局、何も言わずに舞台を降りた。


その後ろで、ロビンだけが立ち止まっていた。


「ロビン!ロビン!」


「アンコール!アンコール!」


ロビンは客席を見渡した。


大勢の人々が、自分の名前を呼んでいる。


つい先ほどまで、優勝者の発表が行われていた舞台。


そこに、今は自分一人が残されていた。


舞台袖の係員が、困ったように周囲を見回している。


ロビンもどうしていいか分からず、立ち尽くしていた。


そのとき。


「ほら!みんな、もう一曲聴きたいんですって!」


客席から声が飛んだ。


エドナだった。


彼女は満面の笑みを浮かべ、両手を高く掲げた。


「そうでしょう、皆さん!」


「おおおおっ!」


客席が応えた。


隣にいたブルーナも立ち上がった。


「私も聴きたいわ!もう一曲!」


その言葉に、さらに大きな歓声が起きた。


二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。


ロビンは目を丸くしていた。


王国を代表する二人の歌姫が、自分の歌をもう一度聴きたいと言っている。


信じられなかった。


「ロビン!ロビン!」


「アンコール!」


もはや、劇場全体が一つになっていた。


ロビンは、ゆっくりと客席に向き直った。


そして、深々と頭を下げた。


顔を上げる。


一度、大きく息を吸った。


やがて、歌声が響き始めた。


先ほどとは違う、優しい旋律だった。


客席の手拍子が、少しずつ静まっていく。


ロビンは歌った。


広場で歌っていたときと同じように。


店の仕事の合間に、道行く人々へ歌っていたときと同じように。


ただ、自分の歌を聴いてくれる人々に向かって。


今度は、誰かに評価してもらうためではなかった。


優勝するためでもなかった。


ただ、歌いたかった。


そして、聴いてくれる人たちがいた。


ロビンは笑顔で歌い続けた。


客席の前方で、エドナとブルーナがその姿を眺めていた。


「変わると思った?」


エドナが小さな声で尋ねた。


ブルーナは首を横に振った。


「思わない。でも、連中も露骨なことやらないでしょ?それにほら、あの子に向けられた視線も、上がった歓声も本物よ」


エドナは舞台へ目を向けた。


ロビンは楽しそうに歌っていた。


「久しぶりの籠から出た歌姫ね」


ブルーナが微笑んだ。


二人は再び舞台へ向き直った。


少女の歌声が、劇場いっぱいに響いていた。


***


全てが終わった頃には、ロビンはすっかり疲れ果てていた。


何度も頭を下げた。


何人もの人から声をかけられた。


知らない人たちから握手を求められ、褒められ、また頭を下げた。


優勝はできなかった。


でも、不思議と悔しくはなかった。


あれほど大勢の人々が、自分の歌を聴きたいと言ってくれた。


それだけで、胸がいっぱいだった。


ようやく人の波から抜け出し、劇場の外へ出たときだった。


「おう、姉ちゃん!」


聞き覚えのある声がした。


振り返ると、そこには大きな髭面の男が立っていた。


「あっ!」


舞台に上がる前、声をかけてくれた男だった。


ロビンは思わず笑顔になった。


男は片手を上げた。


「いやあ、すごかったな!びっくりしたぜ!」


「ありがとうございます!」


「まさか、あんなに歌が上手いとはなあ。俺もすっかり聴き入っちまったよ!」


男は豪快に笑った。


そして、ふと思い出したように懐を探った。


「ほれ」


小さな包みを差し出した。


「?」


「ドーナツだ。おやつに持ってきていたのを忘れていた。落ち着いたら後で食べな」


ロビンは包みを受け取った。


中には、ドーナツが入っていた。


「ありがとう」


男は満足そうに頷いた。


「揚げたてはこれより美味しいぞ。約束通り、今度うちの店に来な。おごってやるからよ」


「はい!」


ロビンは元気よく返事をした。


男は、そんな彼女を見てにかっと笑った。


「今回はよく頑張ったな。俺の中じゃお前が今回の優勝だ!」


ロビンは一瞬、目を丸くした。


そして。


「……はい!ありがとうございます!」


満面の笑みを浮かべ、ドーナツの包みを大切そうに抱えた。


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