歌姫の籠③ 勝者の戸惑い
「続きまして、エントリーナンバー三十番、ロビン・プランツさんです!」
司会者の声に、客席から拍手が起きた。
舞台袖で出番を待っていたエミリアは、何気なく顔を上げた。
あら。
先ほどの町娘だわ。
華やかな衣装をまとった出場者たちの中で、ひときわ地味に見えた少女。
その少女が、少し緊張した面持ちで舞台の中央へ進んでいく。
歩き方も、立ち姿も、洗練されているとは言い難い。
エミリアは小さく首を傾げた。
本選まで残ったのだから、それなりの実力はあるのだろう。
でも、あの様子では、大きな舞台に立つこと自体に慣れていないらしい。
少女は舞台の中央で立ち止まり、客席へ向かって頭を下げた。
そして、静かに息を吸った。
歌が始まった。
エミリアは、最初の一節で少し驚いた。
(あら、いい声ね)
澄んだ声だった。
無理に張り上げているわけでもないのに、劇場の奥までよく通る。
声量も十分にある。
何より、声そのものに不思議な魅力があった。
(でも、少し野暮ったいわね)
エミリアは歌を聴きながら、少女の発声を観察した。
呼吸の置き方に、洗練されていない部分がある。
音のつなぎ方も、正式な教育を受けた歌い手とは少し違う。
あそこは、もう少し滑らかにつなぐべきだわ。
その音は、もっと丁寧に響かせたほうがいい。
そんなことを考えながら、歌を聴いていた。
ところが、しばらくすると、エミリアはあることに気づいた。
客席が静かだった。
咳払いをする者も、隣の者と小声で話す者もいない。
大勢の観客が、ただ一人の少女を見つめていた。
ロビンは歌い続けていた。
その歌声は、時に優しく、時に力強く、劇場の隅々まで響き渡った。
悲しい言葉を歌うときには、まるで本当に悲しんでいるように。
喜びを歌うときには、その喜びが自分のものでもあるかのように。
少女の声が変わるたび、客席の空気も変わっていく。
エミリアは眉を寄せた。
(……不思議ね)
技術的には、決して完璧ではない。
自分ならもっと正確に歌える。
もっと美しく声を響かせることもできる。
それなのに。
気がつくと、エミリアは少女の歌を聴くことに夢中になっていた。
先ほどまで考えていた発声の欠点も、音のつなぎ方も、いつの間にか忘れていた。
ロビンが最後の一節を歌い終えた。
一瞬、劇場が静まり返った。
そして。
わあああああっ!
割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
客席のあちこちで人々が立ち上がる。
何度も少女の名前を呼ぶ声が響いた。
ロビンは驚いたように客席を見回した。
それから深々と頭を下げた。
拍手は、なかなか鳴りやまなかった。
エミリアも手を叩いていた。
(まあ、悪くはなかったわ)
確かに、いい歌だった。
声も美しい。
観客を引き込む力もある。
でも、技術的にはまだまだ粗いところが目立つ。
(この程度であれだけ観客が熱狂しているんだから、私ならもっと酔わせることができるはずよ)
エミリアは小さく微笑んだ。
むしろ、いい前座になってくれたかもしれない。
あれだけ観客が盛り上がっているのなら、最後に登場する自分も歌いやすいだろう。
ロビンが舞台袖へ戻ってきた。
その顔は、まだ興奮で赤くなっていた。
何人かの出場者が彼女に声をかけている。
「素晴らしかったわ!」
「すごい歓声だったわね!」
ロビンは何度も頭を下げていた。
エミリアはその様子を横目に見ながら、衣装の裾を整えた。
「続きまして、エントリーナンバー三十一番……」
次の出場者が舞台へ進んだ。
彼女もなかなかの歌い手だった。
安定した発声で、難しい曲を丁寧に歌い上げる。
客席も大いに盛り上がった。
歌が終わると、盛大な拍手が起きた。
だが、先ほどのロビンの歌が残した余韻は、まだ劇場全体を包んでいるようだった。
エミリアは舞台袖から客席を眺めた。
観客たちは楽しそうだった。
歌が始まる前とは、明らかに雰囲気が違っている。
(いいわね)
これほど温まった客席なら、申し分ない。
自分の歌を聴かせるには、最高の舞台だ。
「続きまして、本日最後の出場者です!」
司会者の声が高らかに響いた。
「エントリーナンバー三十二番、エミリア・フーバーさん!」
客席から大きな拍手が起きた。
エミリアは背筋を伸ばした。
いよいよ自分の番だ。
侯爵閣下も、伯爵家の者たちも、きっと客席のどこかで見ているだろう。
期待に応えなければ。
いや。
期待以上の歌を聴かせてあげよう。
エミリアは優雅な足取りで舞台へ進んだ。
中央に立ち、客席へ向かって一礼する。
そして、ゆっくりと息を吸った。
歌が始まった。
最初の一節から、エミリアの声は劇場いっぱいに響いた。
長年の訓練によって磨き上げられた発声。
正確な音程。
無理のない呼吸。
声量を自在に操り、難しい旋律を滑らかにつないでいく。
エミリアは、自分の歌がよく響いていることを感じていた。
調子はいい。
これまで何度も歌ってきた曲だったが、今日の出来は、その中でも指折りだった。
客席からも反応が返ってくる。
静かに聴き入る者。
身を乗り出す者。
曲が盛り上がるにつれて、観客たちの表情も明るくなっていった。
エミリアは歌いながら、満足していた。
やはり、自分の歌は観客を魅了できる。
そう思っていた。
しかし。
ふと、奇妙な感覚が胸をよぎった。
客席は確かに盛り上がっている。
自分の歌を楽しんでくれている。
それは間違いない。
でも。
(……あら?)
何かが違う。
観客の熱気は、自分が舞台に上がる前から既に高まっていた。
その熱気を、自分の歌がさらに盛り上げている。
それは分かる。
けれど、この熱の全てを自分が生み出したわけではない。
エミリアは、一瞬だけ先ほどの町娘を思い出した。
ロビン・プランツ。
あの少女の歌が終わったとき、劇場全体が沸き返った。
あの歓声。
あの拍手。
そして、歌が終わってもしばらく続いた、あの不思議な余韻。
(……何を考えているのかしら)
エミリアはすぐに意識を歌へ戻した。
今は自分の舞台だ。
余計なことを考えている場合ではない。
彼女はさらに声を響かせた。
難しい高音も、見事に歌い上げる。
最後の一節では、持てる技術を余すところなく披露した。
そして終曲。
エミリアは静かに息を吐いた。
一瞬の静寂。
次いで、大きな拍手が巻き起こった。
「ブラボー!」
「素晴らしい!」
客席から賞賛の声が上がる。
エミリアは優雅に一礼した。
満足のいく出来だった。
歌唱に失敗はない。
これまでの自分の舞台の中でも、最高の部類に入るだろう。
それなのに。
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
舞台袖へ戻ると、ほかの出場者たちが拍手で迎えてくれた。
「素晴らしかったです!」
「さすがフーバーさんですね!」
エミリアは微笑んだ。
「ありがとうございます」
いつもなら、心から嬉しく思えたはずだった。
だが、今日は何かが違った。
しばらくして、司会者が再び舞台に現れた。
「それでは、本日の出場者の皆さんに、もう一度ご登場いただきましょう!」
舞台袖で待機していた出場者たちが、次々と呼ばれていく。
エミリアもその列に加わった。
全員が舞台に並ぶと、客席から大きな拍手が起きた。
司会者が一人ずつ名前を読み上げる。
そのたびに、観客たちは惜しみない拍手を送った。
誰もが今日の歌を楽しんでいた。
出場者たちも、笑顔で客席に応えている。
「エントリーナンバー二十九番……」
大きな拍手。
「エントリーナンバー三十番、ロビン・プランツさん!」
その瞬間だった。
わあああああああっ!
劇場が揺れるかと思うほどの歓声が巻き起こった。
それまでの拍手とは、明らかに違っていた。
音の大きさだけではない。
客席のあちこちで立ち上がる人々。
ロビンの名前を何度も呼ぶ声。
拍手の音が重なり、劇場全体を震わせているようだった。
エミリアは、思わず隣の少女を見た。
ロビンは目を丸くしていた。
そして、慌てたように何度も頭を下げている。
歓声は、なかなか収まらなかった。
エミリアは、その光景をじっと見つめていた。
(……ああ)
不意に、胸の奥で何かが落ちた。
自分の歌は、確かに観客を満足させた。
素晴らしい歌だったと、褒めてもらえた。
でも。
あの少女は違った。
ただ歌が上手かったのではない。
観客たちの心を、すっかり奪ってしまったのだ。
自分には、あれほどの歓声を引き出すことができなかった。
(……負けたんだわ)
エミリアは静かに息を吐いた。
悔しくないわけではなかった。
むしろ、胸が締めつけられるほど悔しかった。
あれほど練習してきた。
あれほど多くの人々から賞賛されてきた。
今日だって、最高の歌を披露できたはずだった。
それでも。
あの町娘には届かなかった。
「エントリーナンバー三十一番……」
司会者の声が続く。
エミリアは前を向いた。
「そして、エントリーナンバー三十二番、エミリア・フーバーさん!」
客席から盛大な拍手が起きた。
彼女もまた、大きな賞賛を受けていた。
エミリアは微笑み、一礼した。
だが、先ほどのロビンへの歓声が、まだ耳に残っていた。
やがて、審査結果の発表が始まった。
審査委員長が舞台へ上がる。
カリーナ・キャサリン。
王国でも名の知られた歌い手であり、今回の審査委員長を務める女性だった。
カリーナは観客たちに向かって微笑んだ。
「今年も素晴らしい歌い手たちが、素敵な歌を届けてくれました」
客席から拍手が起きる。
「私もうかうかしていられないな、と思いました」
その言葉に、会場から笑い声が上がった。
カリーナもにっこりと笑った。
そして、手にしていた封筒を開き、中から一枚の紙を取り出した。
「では、今年度の『歌姫の籠』、優勝者を発表します!」
劇場が静まり返った。
エミリアは、何気なくロビンの方を見た。
少女は両手を胸の前で握りしめ、緊張した顔でカリーナを見つめている。
(……この子が優勝するんだわ)
不思議と、そう思えた。
自分が負けたことは、もう分かっている。
あれほどの歌を聴かされ、あれほどの歓声を聞いたのだ。
認めたくなくても、認めるしかなかった。
カリーナが紙に目を落とした。
一瞬の沈黙。
そして、顔を上げた。
「今年度の『歌姫の籠』、優勝者は!」
会場中の視線が、カリーナに集まった。
「エミリア・フーバーさんです!」
大きな拍手が起きた。
エミリアは動かなかった。
(……え?)
一瞬、自分の名前を聞き間違えたのかと思った。
だが、カリーナは確かに自分を見ている。
周囲の出場者たちも、こちらへ顔を向けていた。
(私……勝てたの?)
優勝した。
あれほど望んでいた栄冠を、ついに手に入れたのだ。
侯爵閣下の期待に応えることができた。
フーバー家にも、胸を張って報告できる。
本来なら、飛び上がるほど嬉しいはずだった。
なのに。
エミリアは戸惑っていた。
先ほどの歓声が、頭から離れなかった。
ロビンの歌。
あの少女に向けられた、圧倒的な拍手。
自分は、確かに負けたと思ったのに。
「エミリア・フーバーさん!どうぞ前へ!」
カリーナが呼びかけた。
エミリアは、ようやく一歩を踏み出そうとした。
そのときだった。
「異議あり!」
鋭い声が、劇場に響き渡った。
拍手が止まった。
観客たちが一斉に声の方を振り返る。
舞台の照明係が慌てて光を向けた。
スポットライトに照らされたのは、一人の女性だった。
客席の前方に立ち、舞台を真っ直ぐ見つめている。
その姿を認めたカリーナが、驚いたように声を上げた。
「エドナ!」
エドナ・シアーネ。
かつて『歌姫の籠』を制し、今では王国を代表する歌姫の一人となった女性だった。
会場がざわめいた。
エドナは周囲の視線など気にする様子もなく、舞台を見上げていた。
「確かに、今までの審査方法だったら、その子が優勝でしょうけど……」
今度は別の声が響いた。
「ブルーナ!」
カリーナが声を上げた。
エドナの近くで、もう一人の女性が立ち上がっていた。
ブルーナ・サターン。
彼女もまた、この大会から羽ばたいた、王国を代表する歌姫だった。
「何?不正があったって言いたいの?」
カリーナの声に、わずかな苛立ちが混じった。
ブルーナは首を横に振った。
「そうは言ってないわ」
そして、客席をゆっくりと見渡した。
「でも、今年は会場のオーディエンスの評価も、審査に組み込まれるのよね?」
カリーナは黙った。
ブルーナは続けた。
「それぞれの名前が呼ばれたときの観客の盛り上がりを見れば、誰が一番良かったかは分かりそうなものだけど……」
劇場が再びざわめき始めた。
カリーナは唇を噛んだ。
「くっ!」
舞台の中央で、エミリアは立ち尽くしていた。
優勝者として名前を呼ばれたはずだった。
それなのに。
今、誰よりも大きな拍手を浴びた少女が、すぐ隣に立っていた。




