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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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歌姫の籠② 約束された栄冠

エミリア・フーバーは貴族家の娘として生まれた。


もっとも、彼女が生まれたとき、その母親は既に実家から放逐されていた。


エミリアの生みの母親は、ある伯爵家の娘だった。


幼い頃から歌や踊りの才能に恵まれ、その才能に見合った教育を受けて育った。


一流の教師をつけられ、歌唱だけでなく、楽器の演奏や舞踏、貴族社会にふさわしい礼儀作法まで叩き込まれた。


彼女はその期待によく応えた。


十二歳になる頃には、ある侯爵家のサロンで歌を披露するのが習いとなっていた。


美しい声と優れた歌唱技術。


若くして、貴族たちの間ではちょっとした有名人となっていた。


だが、その順風満帆な人生は、十六歳のときに一変した。


サロンで知り合った貴族の娘に誘われ、彼女はカーヴを訪れた。


ほんの好奇心からだった。


一度くらいなら、という軽い気持ちもあった。


しかし、その一度の過ちで、彼女は妊娠してしまった。


それが実家に知られたとき、伯爵家は大騒ぎになった。


既に侯爵家の息子を婿として買い取る契約を結んでいたのだ。


多額の金銭が動き、両家の間で婚姻の準備が進められていた。


その最中に、娘がどこの誰とも知れぬ男の子を身籠った。


伯爵家にとっては、到底看過できない事態だった。


結局、彼女は実家から放逐された。


伯爵家は派閥に属する子爵家へ、少し多めの金銭とともに彼女を押し付けたのである。


こうして、彼女は子爵家に身を寄せることになった。


そして生まれたのが、エミリアだった。


母親は奔放な女性だった。


若い頃の失敗を反省しているのかどうか、周囲には今ひとつ分からなかった。


だが、歌に関してだけは別だった。


彼女は優れた歌い手であると同時に、優秀な教師でもあった。


そして娘のエミリアにも、自分と同じ才能があることに、早くから気づいていた。


幼いエミリアが母親の歌を真似ると、驚くほど正確に旋律をなぞった。


少し教えれば、すぐに覚える。


難しい節回しも、何度か繰り返すうちに自分のものにしてしまう。


母親は喜んだ。


自分が受けてきた教育を、今度は娘に施した。


発声、呼吸、音程、声の強弱。


歌詞の意味を理解し、聴衆にどう伝えるか。


単に美しい声を出すだけでは、優れた歌い手にはなれない。


母親はそれを知っていた。


エミリアもまた、母親の教えによく応えた。


十歳になる頃には、地元でもちょっとした有名人になっていた。


子爵家の催しでエミリアが歌うと、客たちは手を止めて聴き入った。


あの娘は誰だ。


どこで歌を習ったのだ。


そんな話が広まるようになった。


やがて、その噂は母親の生家である伯爵家にも届いた。


伯爵家は、かつて放逐した娘と、その娘が産んだ子供に目を向けた。


十歳にして、既に並の歌い手を凌ぐ実力があるという。


しかも、その才能はかつてサロンで評判を取った自分たちの娘から受け継がれたものだった。


ならば、利用しない手はない。


かつて母親がそうであったように、エミリアを貴族社会のサロンの歌姫に育て上げる。


それは伯爵家にとっても、悪い話ではなかった。


こうして、エミリアと母親は伯爵家へ戻ることを許された。


エミリアには、フーバー家の家名を名乗ることも認められた。


十歳の少女には、大人たちの思惑など分からなかった。


ただ、暮らしが一変したことだけは確かだった。


広い屋敷。


美しい衣装。


自分のために用意された練習室。


母親だけでなく、名のある教師たちからも教えを受けられるようになった。


そして何より、歌えば誰もが褒めてくれた。


エミリアは歌うことが好きだった。


褒められることも好きだった。


母親が教えてくれた歌を、今度は大勢の人々の前で披露する。


それは彼女にとって、何より楽しい時間だった。


やがてエミリアは、母親と同じように貴族たちのサロンで歌うようになった。


その歌声は好評を博した。


幼い頃から磨き上げた技術に、母親譲りの才能。


加えて、フーバー伯爵家の娘という身分もある。


彼女の歌を聞くために、わざわざサロンを訪れる貴族も現れた。


エミリアの人生は、まさに順風満帆だった。


そして五年が過ぎた。


十五歳となったエミリアに、寄り親である侯爵から声がかかった。


「エミリア。あなたもそろそろ、サロンだけで歌っている年頃ではありませんね」


「はい、侯爵閣下」


「今度の『歌姫の籠』コンクールに出場しなさい。そして優勝するのです」


エミリアは顔を上げた。


『歌姫の籠』。


王国中から優れた歌い手が集まる、歌の祭典だった。


過去には、エドナ・シアーネやブルーナ・サターンといった著名な歌姫たちも、この大会から羽ばたいている。


優勝すれば、その名は王国中に知れ渡るだろう。


「あなたの生家であるフーバー家と、我が侯爵家が後ろ盾になります。何も心配する必要はありません」


侯爵は穏やかに微笑んだ。


侯爵にとって、エミリアは既に自分のサロンを代表する歌い手だった。


その娘に全国規模の大会で優勝させれば、サロンの名声も一段と高まる。


自分が庇護する歌姫が王国一と認められる。


それは、侯爵自身の権威を示すことにもつながった。


エミリアも、その意味を理解していた。


フーバー伯爵家と侯爵家。


二つの有力貴族が後ろ盾になる。


それだけでも、優勝への道は大きく開けるだろう。


だが、エミリアはそれ以上に、自分の歌に自信があった。


幼い頃から歌い続けてきた。


優れた教師に学び、誰よりも練習を重ねてきた。


サロンでは数え切れないほどの賞賛を浴びている。


自分が優勝することに、何の不思議があるだろう。


「分かりました。侯爵閣下のご期待に沿えるよう、尽力しますわ」


エミリアは優雅に頭を下げた。


こうして、彼女の『歌姫の籠』コンクール出場が決まった。


予選は、エミリアにとって子供だましのようなものだった。


予備予選。


地方予選。


そして本予選。


彼女はその全てを、満場一致の評価で通過した。


後ろ盾の威光など、必要もなかった。


実際、彼女の歌は群を抜いていた。


正確な音程、安定した発声、豊かな声量。


幼い頃から叩き込まれた技術は、並の歌い手が容易に追いつけるものではない。


審査員たちが高く評価するのも当然だった。


エミリアは他の出場者たちの歌も聞いた。


上手い者はいた。


中には、少しばかり感心させられる歌い手もいた。


だが、自分の相手になるほどではない。


少なくとも、彼女はそう判断していた。


優勝は、もはや決まったようなものだ。


今日は歌うことだけを楽しもう。


いつものサロンと同じように、聴衆の前で自分の歌を披露すればいい。


そうすれば、寄り親である侯爵閣下にも、良い報告ができる。


そして今日。


王都の劇場には、大勢の観客が詰めかけていた。


五百メートルほど離れた闘技場では、『剣の乙女トーナメント』が開催されている。


王都中が祭りのような賑わいだった。


エミリアは控室で衣装を整えた。


今日のために仕立てられた、上等な生地のドレス。


髪も丁寧に結い上げられている。


鏡に映る自分の姿に、満足した。


舞台に立つ準備は整った。


「エントリーナンバー二十五番から三十二番までの方、お集まりください!」


係員の声が響いた。


エミリアは立ち上がった。


自分の番号は三十二番。


大トリだった。


最後に登場し、大歓声の中で歌い、圧倒的な差で優勝する。


これで私は、王国を代表する歌姫への第一歩を踏み出せる。


そう考えると、自然に笑みが浮かんだ。


エミリアは舞台袖へと進んだ。


既に何人かの出場者が集まっていた。


皆、それぞれに衣装を整え、出番を待っている。


緊張した面持ちの者もいれば、落ち着かない様子で周囲を見回す者もいた。


エミリアには、その緊張が少し不思議だった。


これから大勢の人々の前で歌う。


それは、とても楽しいことではないか。


「二十五番、ザーラ・リーツさん」


「はい」


「二十六番、エルマ・フリーゲさん」


係員が一人ずつ、番号と名前を確認していく。


エミリアは何気なく、ほかの出場者たちへ視線を向けた。


華やかな衣装をまとった娘。


宝石を身につけた娘。


中には、顔を知っている歌い手もいた。


その中で、一人だけ目につく少女がいた。


着ている服は、決して粗末というほどではない。


だが、ほかの出場者たちと比べれば、明らかに見劣りする。


仕立ても生地も、ごくありふれたものだった。


あらあら。


えらく場違いな町娘がいたもんだわ。


エミリアは、その少女を眺めた。


本選まで残っているくらいだから、下手ではないのだろう。


それなりに歌えるのかもしれない。


でも、こんな場所に来るのなら、もう少し身なりを整えればいいのに。


どんな歌を聞かせてくれるのかしら。


「三十番、ロビン・プランツさん」


「はい」


「三十一番……」


係員の声が続いていた。


エミリアはまだ、その町娘を眺めていた。


少女はどこか落ち着かない様子だったが、小さく何かを口ずさんでいる。


あら、歌っているのかしら。


随分と余裕があるのね。


「……さん?」


係員の声が聞こえた。


「三十二番、エミリア・フーバーさん?」


「!」


エミリアは我に返った。


「ああ、ごめんなさい」


慌てて係員に向き直る。


「三十二番、エミリア・フーバーです」


係員は名簿に印をつけた。


エミリアは改めて舞台の方を向いた。


間もなく、自分の出番がやってくる。


今日も、いつものように歌えばいい。


それだけで十分だった。


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