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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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歌姫の籠①

少女は、王都の最外郭にある、比較的貧しい住民たちが暮らす街の雑貨屋の娘だった。


店は決して大きくない。


日用品や食料品、針や糸、ちょっとした雑貨を扱う、ごくありふれた店だ。


少女は幼い頃から、母親たちの仕事を手伝いながら育ってきた。


彼女の生みの母親は、現在の家長であるハースの五番目の妹だった。


しかし、その母親は既にこの世にはいない。


父親はカーヴの男娼だったと聞かされている。


少女には、父親の顔も、生みの母親の顔も記憶になかった。


幼い頃は、時折母親たちに生みの母親のことを尋ねていた。


だが、その話題になると、決まって皆が気まずそうな顔をする。


誰かが話を逸らし、誰かが曖昧に笑い、誰かが黙り込む。


少女はいつしか、自分が聞いてはいけないことを尋ねているのだと気づいた。


そして十歳の頃、生みの母親について尋ねるのをやめた。


ただ、三番目の母親が一度だけ、少し詳しく話してくれたことがある。


「まあ、あの子はねぇ……ちょっとだらしないところがあったんだよ」


ちょっと、という言葉の前に、随分長い間があった。


「でもね、歌だけは本当に上手だった。あれほど歌の上手い子は、私はほかに知らないよ」


少女を育ててくれた母親たちは、皆、歌が上手だった。


仕事をしながら、料理をしながら、洗濯物を干しながら、誰かがいつも歌っていた。


少女もその歌を聞き、自然と覚えていった。


その母親たちが口を揃えて、生みの母親の歌は飛び抜けていたと言う。


「ただねぇ、あの子は歌の才能を全部もらった代わりに、普通の人が持ってる大事なものを、どこかに置き忘れてきたみたいな子だったよ」


三番目の母親はそう言って、困ったように笑った。


少女が知る生みの母親の姿は、それだけだった。


少しだらしなくて、何かと周囲に迷惑をかけて、それでも誰よりも歌が上手かった女性。


そして少女自身にも、歌の才能があった。


それも、母親たちが驚くほどの。


「まったく……あの子より上手いんじゃないかい?」


少女が歌うたび、三番目の母親はそんなことを言った。


少女は、その言葉が嬉しかった。


いつしか、歌で生計を立てたいと思うようになった。


自分の歌を聞いて、誰かが喜んでくれる。


それだけでお金をもらい、暮らしていけたなら、どんなに素晴らしいだろう。


しかし、その夢を口にした途端、母親たちは揃って反対した。


「歌なんて趣味で十分だよ」


「そんな不安定な仕事で食べていけるものか」


「うちの店を手伝っていれば、食べるものには困らないんだから」


中でも、家長のハースの反対は凄まじかった。


「駄目だ!絶対に駄目だ!」


少女が歌手になりたいと言うたび、ハースは烈火のごとく怒った。


まるで親の仇にでも出会ったかのような剣幕だった。


後になって知ったことだが、ハースは生みの母親が引き起こした数々の騒動の尻拭いを、長年にわたってしてきたらしい。


だからといって、少女には歌を諦めることができなかった。


母親たちの反対を受けながらも、彼女は店の手伝いの合間に、町の広場で歌うようになった。


広場の片隅に立ち、行き交う人々に向かって歌う。


ほとんどの人は、少女の存在に気づくこともなく通り過ぎていった。


それでも時折、足を止める人がいた。


歌い終わると、小さな硬貨を置いていく人もいた。


初めて投げ銭をもらった日、少女は嬉しくて、何度もその硬貨を眺めた。


自分の歌に、お金を払ってくれた人がいる。


その事実が、少女にとって何よりの励みになった。


一枚、また一枚。


小さな硬貨と一緒に、少女の自信も少しずつ積み重なっていった。


そんなある日、少女は『歌姫の籠コンクール』という大会の存在を知った。


毎年、王都で開かれる歌の祭典。


そこで優勝すれば、一流歌手への道が開かれるという。


エドナ・シアーネも、ブルーナ・サターンも、この大会から羽ばたいていった。


少女は二人の名前を知っていた。


母親たちも、彼女たちの歌を何度も口ずさんでいたからだ。


なら、私だって……。


少女は大会への参加を申し込んだ。


当然、ハースには内緒だった。


申し込みの後、間もなく行われた予備予選。


少女はあっさりと通過した。


続く地方予選も通過。


そして本予選も。


少女自身が驚くほど、順調だった。


どうやら自分は、三番目の母親が言っていた、あのろくでなしの生みの母親から、本当に歌の才能を受け継いでいたらしい。


そうして少女は、とうとう王都の本大会に出場することになった。


そして今日。


彼女は、その舞台に立とうとしていた。


会場は王都にある大きな劇場だった。


五百メートルほど先にある闘技場では、同じ日に剣士たちの祭典『剣の乙女トーナメント』が開催されている。


王都中が祭りのような賑わいを見せていた。


劇場の外には大勢の観客が列を作り、華やかな衣装をまとった出場者たちが、次々と建物の中へ入っていく。


少女もその一人だった。


ただし、華やかな衣装とは縁遠かった。


母親たちに内緒で用意した、精一杯のおしゃれをした服。


それが、今日の彼女の舞台衣装だった。


控室へ向かう途中、少女は急に足を止めた。


胸が苦しい。


手が震える。


喉がからからに乾いていた。


正直、少し緊張してきた。


いや、少しどころではない。


かなり緊張している。


町の広場で歌うことには慣れていた。


あそこでは、ほとんどの人が自分に興味など持っていない。


気に入らなければ、そのまま通り過ぎていくだけだ。


でも、今日は違う。


客席にいるのは、歌を聞くために集まった人たちだ。


有名な歌姫たちの歌を聞き慣れた、耳の肥えた観客ばかりだろう。


そんな人たちが、私の歌なんか評価してくれるのだろうか。


下手だと思われたら?


笑われたら?


罵声を浴びせられたら?


ブーイングなんてされたら、きっと泣いてしまう。


そう考えた途端、全身が震え始めた。


自分が今どこにいるのか。


立っているのか、座っているのか。


それすら、よく分からなくなっていた。


帰りたい。


ふと、そんな言葉が頭をよぎった。


母親たちのいる雑貨屋に帰って、いつものように店番をしていたい。


あんなに夢見ていた舞台が、今は恐ろしくて仕方がなかった。


「~~~♪」


そのときだった。


どこからともなく、心地よい鼻歌が聞こえてきた。


少女は顔を上げた。


聞き覚えのある旋律だった。


いや、聞き覚えがあるどころではない。


幼い頃から、何度も何度も聞かされてきた曲。


母親たちが、少女に一番多く歌ってくれた曲だった。


(月に輝く夜!)


少女は思わず、歌の聞こえる方を振り返った。


そこには、髭面の男が立っていた。


がっしりとした体つきの、いかにも気の良さそうな男だった。


男は少女と目が合うと、鼻歌を止めた。


「うん?ああ、姉ちゃん出場者か?」


「え?」


「今日の出場者だったら、そろそろ出番だから集まれって言ってたぞ」


「あ、はい……」


少女は慌てて返事をした。


男は、どこか楽しそうに少女を見ている。


少女は思い切って尋ねてみた。


「あなたは出場者ですか?」


「俺か?違う違う。俺が出たら、三秒でダウンさ~♪」


男は妙な節をつけて歌った。


「ふふ」


思わず、笑いがこぼれた。


「お!笑ったな」


男が嬉しそうに言った。


「さっきまで青い顔してたが、大丈夫そうだな」


「ええ、大丈夫そうです」


少女は自分でも驚いていた。


つい先ほどまで、あれほど震えていたのに。


知らない男と少し話しただけで、胸の苦しさが和らいでいた。


「いいか?客席の客なんざ、みんなドーナツと思ってればいいんだよ」


「ドーナツ?」


少女は首を傾げた。


「知らないのか?揚げパンのことだよ」


男は笑った。


「今度俺の店に来い。おごってやるから」


「はい!」


少女は、今度こそ元気よく返事をした。


そのとき、廊下の向こうから係員の声が響いた。


「出場者の皆さん!間もなく始まります!控室に集まってください!」


「あっ!」


少女は慌てて声の方を振り返った。


「ほら、行ってこい」


男が片手を上げた。


「はい!ありがとうございました!」


少女は深く頭を下げると、控室へ向かって駆け出した。


途中で一度だけ振り返る。


髭面の男は、まだそこに立っていた。


少女が手を振ると、男も笑って手を振り返してくれた。


少女は再び前を向いた。


まだ少し怖かった。


でも、もう帰りたいとは思わなかった。


あの男が歌っていた、懐かしい曲。


母親たちが何度も歌ってくれた『月に輝く夜』。


少女は、その旋律を小さく口ずさんだ。


そして、舞台へと続く扉をくぐった。


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