夜空に上がる合図
あの怪しい女を追って、ユーリイは人混みを進む。
肩をぶつけ、怒鳴られ、それでも構わず人の間を縫って走る。
女の姿が見えた。
すぐに消える。
また見えた。
距離は少しずつ縮まっている。
やがて人混みを抜け、女は地下へと続く通路へ飛び込んだ。
ユーリイも後を追う。
石造りの地下道。
奥へ進むにつれ、人の姿が減っていく。
地上からは、決勝戦に沸く大歓声が微かに響いている。
だが、それも次第に遠くなった。
静かだ。
自分の足音だけが、石壁に反響する。
その先に、一人の女が立っていた。
質素な服を着た、若い女。
どこにでもいる町娘といった風情だ。
「!」
女が驚いたようにユーリイを見る。
「ここに、黒い外套を着た女が来なかったか?」
「あっ、あぁ……その人なら、あっちの方に走っていきました」
女が通路の先を指差す。
「ああ、ありがとう!」
その横を通り過ぎる。
数歩。
ユーリイの足が止まった。
「あんた……」
振り返る。
「どこかで会ったことが……」
女も振り返った。
薄暗い地下道。
それでも、その髪の色は分かった。
灰色とも銀色ともつかない、不思議な色。
「あ!」
女の口元が、僅かに持ち上がった。
その瞬間。
どこにでもいる町娘。
そう見えていた女から、素朴な雰囲気が消えた。
顔も、髪も、何も変わっていない。
それなのに、そこに立っているのは、かつて見た妖艶さを湛えた女だった。
「ふふ、こういう格好もなかなか悪くないね」
「お前が、この件に関わっているのか」
「あら?そう見える?」
「こんな人のいない所に怪しい奴が駆け込んできて、その場所にお前がいた。関係ないと思う方が難しいだろ」
「そうよね。普通に考えればそうだけど」
女は小さく笑った。
「今回は私は大会の不正には関わっていないわ」
「なかなか信じられないね」
「それはあなたの勝手だけどね」
女の視線が、ユーリイの横を通り過ぎる。
逃げた女が消えた通路の奥へ。
「いいの?あいつは逃げてしまうわよ」
「くっ!」
ユーリイは灰銀の女を見る。
そして、踵を返した。
再び走る。
背後から、小さな笑い声が聞こえた。
—
ユーリイの足が加速する。
前を走る女の背中が見えた。
もう見失わない。
十メートル。
八メートル。
六メートル。
そして、五メートル。
地下道を抜け、下水の流れる場所へ出た。
女が足を止める。
荒い息を吐きながら、振り返った。
その頭上。
僅かに開いた天井の隙間から、夜空が覗いている。
既に日は落ちていた。
切り取られたような細い夜空に、星が煌めいている。
「本当にしつこいね」
「俺はお前をどこまでも追いかける」
「ちっ!もう仕方がないね」
女が懐へ手を入れた。
ユーリイが身構える。
取り出したのは、筒のようなものだった。
こちらへ向けるのかと思った。
だが、女は筒の先を天へ向ける。
ヒューン!
閃光とともに、一本の光が真っ直ぐ夜空へ伸びた。
ダーン!
二秒ほどして、光が弾ける。
「……?」
何だ。
ユーリイが一瞬、夜空を見上げる。
何も起こらない。
一秒。
二秒。
三秒。
そして——
ドーン!
遠くで何かが爆発した。
「なっ!」
続いて、
ドカーン!
バーン!
一つではない。
地上のあちこちから、立て続けに爆発音が響く。
ユーリイが女を見る。
女は既に懐から何かを取り出していた。
地面へ叩きつける。
バーン!
黒煙が一気に立ち上った。
「くそっ!」
視界が塞がれる。
煙の向こうから、女が駆けていく足音が聞こえた。
まだ近い。
追える。
その時だった。
「きゃああああ!」
天井の隙間から声が降ってきた。
「おかあさーん!」
「痛い!痛いよう!」
「こっちに人が埋まっている!誰か手を貸してくれ!」
悲鳴。
泣き声。
助けを求める声。
その間にも、女の足音は遠ざかっていく。
ユーリイは黒煙の先を見る。
あと少し。
まだ間に合う。
一瞬、逡巡する。
「ちっ!」
踵を返した。
ユーリイは、今来た道を地上へ向かって駆け戻った。




