距離
朝の宮中は、いつもより静かだった。
騒ぎは収まっている。
だが、空気はまだ張っている。
昨日の出来事が、完全に消えたわけではない。
ーー
回廊。
足音は一定。乱れはない。
だが思考は別のところにある。
黒い影。血。
短い指示。迷いのない手。
そして。
「姫様方、もう大丈夫ですよ」
あの一言。
軽い。だが嘘ではなかった。
ーー
足が止まる。
視線の先。
相変わらずの軽い立ち姿。
「これは伯爵閣下」
軽く頭を下げる。
「今日はお叱りですか?」
「そのつもりはない」
少しだけ間を置く。
「礼を言うべきかもしれんな」
わずかに目を丸くする。
「珍しいことをおっしゃる」
「では、ありがたく受け取っておきます」
軽い口調。
だが受け取り方は正確だ。
ーー
「その後、殿下の大猫はどうだ」
「安定しています。食事も取るでしょう」
「問題はありません」
「……そうか」
短い安堵。
ーー
「気に入っているんですか?」
「当然だ」
「殿下の側にいるものだ」
「守るべき対象だ」
わずかに笑う。
「それだけですか?」
答えない。
否定もしない。
ーー
沈黙が落ちる。
不自然ではない。
以前ならここで終わっていた。
だが今回は違う。
ーー
「貴殿」
「はい」
「どこであの動きを覚えた」
少し考える。
「必要に迫られて、でしょうか」
「答えになっていないな」
「でしょうね」
軽く肩をすくめる。
「ですが、それが事実です」
「……そうか」
それ以上は踏み込まない。
聞いても意味がないと理解している。
ーー
「ところで」
「何だ」
「これから殿下の大猫の往診に行きます」
「ご一緒されますか?」
一瞬だけ考える。
予定はある。
だが。
「ああ、ちょうど殿下のお顔を拝見するつもりだった」
「それは都合がいい」
軽く言う。
ーー
並んで歩き出す。
距離は半歩。
近すぎず、遠すぎず。
ーー
王女の居室前。
控えの者たちが道を開ける。
「イレーヌ・ブーブ伯爵だ」
「御機嫌伺いに参った」
中から小さな声。
「……どうぞ」
ーー
室内。
アステローペがノクスのそばにいる。
ケラエノも離れない。
ノクスは横たわっているが、呼吸は安定している。
「失礼します」
いつもの軽さ。
だが動きは無駄がない。
そっと触れる。
傷口を確認する。
包帯を外す。
問題ない。
腫れも引いている。
「順調ですね」
「今日のところはこれで」
顔が上がる。
「……ほんとうに?」
小さく笑う。
「ええ」
「この子は丈夫ですよ」
息が漏れる。
張り詰めていたものが、ようやく緩む。
ーー
その様子を見ている。
言葉は挟まない。
ただ、見ている。
ーー
「では、失礼します」
軽く一礼する。
無言で続く影。
ーー
廊下に出る。
静けさが戻る。
ーー
「……貴殿は」
言葉を選ぶ。
少しだけ間。
「余計なことはしないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「事実だ」
「必要なことだけをする」
わずかに笑う。
「無駄が嫌いなだけですよ」
「違う」
短く言う。
「それを選べる人間は少ない」
答えない。
だが、否定もしない。
ーー
再び歩き出す。
ーー
今度は、足並みが揃っている。
どちらも合わせようとはしていない。
それでも、ずれない。
ーー
行き先は同じだ。
やるべきことも、同じだ。
ーー
言葉は交わさない。
だが、それで足りている。
ーー
距離は、測るものではなくなっていた。




