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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊
2/14

パン屋と英雄たち

「おいユーリイ、遅ぇぞ」


店の奥から声が飛ぶ。


小さなパン屋。


扉を開けた瞬間、熱気がまとわりつく。


焼き上がったばかりの匂い。


粉の匂い。


甘さと焦げの混ざった空気。


外の雑踏とは違う、閉じた世界。


ユーリイは扉を押して入る。


肩をすくめる。


「悪い、遅れた」


「悪いじゃねぇ、もう焼き上がってんだ」


タッカー・ナークニーは腕を組んでいる。


腕に粉がついたまま。


顔にも少しついている。


「ちょっと寄り道してた」


「便利屋かお前は」


「だいたいそんなもんだ」


タッカーは鼻を鳴らす。


「いいから手ぇ動かせ」


「並べろ」


ユーリイは無言で動く。


パンを並べる。


籠から棚へ。


種類ごとに分ける。


高さを揃える。


無駄がない。


手際がいい。


見慣れている動きだが、どこか違う。


一つ一つの動きに迷いがない。


必要な動作だけを選び取っている。


タッカーはそれを横目で見る。


何も言わない。


言う必要がない。


タッカーが一つ、パンを投げる。


「食え」


ユーリイは受け取る。


一度見る。


揚げた生地に、何かが挟まれている。


「何だ?これ」


「新作だ」


ユーリイは少し顔をしかめる。


「……食えるのか?」


タッカーは少しだけ胸を張る。


「今回も自信作だ」


ユーリイは一瞬だけ止まる。


「前回もそう言って——」


一口食う。


止まる。


噛む。


飲み込む。


「……旨い」


タッカーが鼻で笑う。


「リンゴのシナモン揚げとチーズのタルト!」


「旨いだろ?」


ユーリイはもう一口食う。


何も言わない。


だが、残さない。


それで十分だった。


タッカーは満足そうに頷く。


「売れるな、これ」


「値段次第だろ」


「お前に言われたくねぇよ」


軽口。


いつものやり取り。


そのまま続くはずだった。


しばらくして。


店の前がざわつく。


扉が開く。


兵士たちが入ってくる。


三人。


装備は軽い。


巡回帰りか、休憩か。


笑い声。


軽口。


いつもの光景。


だが。


一歩踏み込んだ瞬間。


止まる。


視線が揃う。


ユーリイに。


一瞬だけ。


音が消える。


笑い声が途切れる。


「……」


誰も何も言わない。


ただ。


距離を取る。


ほんの半歩。


それだけで十分だった。


空気が変わる。


ユーリイは気にしない。


視線も返さない。


パンを並べ続ける。


タッカーがそれを見て、小さく笑う。


「相変わらずだな」


ユーリイは肩をすくめる。


兵士の一人が、ようやく動く。


棚に手を伸ばす。


パンを取る。


もう一人も続く。


三人目は少し遅れる。


視線を外せない。


ユーリイから。


焼き印。


腕。


一瞬だけ見て、すぐに逸らす。


何も言わない。


言えない。


パンを取る。


金を置く。


妙に丁寧に。


多めに置く者もいる。


釣りはいらない、という顔で。


タッカーは何も言わない。


そのまま受け取る。


会話はない。


三人はすぐに出ていく。


扉が閉まる。


音が戻る。


だが。


さっきまでとは違う。


少しだけ重い。


タッカーがぼそりと言う。


「頼りにはなるが、近くにゃ置きたくねぇ」


ユーリイはパンをもう一口かじる。


「そういうもんだろ」


「そういうもんだ」


タッカーは頷く。


粉を払う。


一拍。


「三件目だな」


ユーリイは答えない。


代わりに、机の上の紙を見る。


いつの間にか置かれている。


折られている。


誰が置いたかは聞かない。


聞く必要もない。


タッカーも見ない。


見えていないわけではない。


見ないことにしている。


「全部同じとこだろ」


ユーリイは紙を開く。


目を通す。


短い。


場所。


時間。


対象。


それだけ。


余計な説明は一切ない。


紙を閉じる。


「やるのか」


「やる」


迷いはない。


タッカーは少しだけ眉を寄せる。


「簡単すぎねぇか」


ユーリイはパンを飲み込む。


「普通、こんな出し方はしねぇ」


タッカーが続ける。


「試してるか、値踏みしてるか」


ユーリイは短く答える。


「どっちもだろ」


タッカーは頷く。


「だろうな」


一瞬だけ、考える。


「で、どうする」


「やる」


同じ答え。


タッカーは視線を外す。


「気ぃつけろよ」


軽い言い方ではない。


「いつも通りだ」


ユーリイは振り返らない。


店を出る。


外の光が差し込む。


熱気が背中に残る。


扉が閉まる。


人の流れ。


雑踏。


さっきと同じ。


何も変わらない。


だが。


ユーリイの中では、別の流れが動いている。


依頼は簡単だった。


簡単すぎた。


対象を見つける。


追う。


回収する。


終わり。


問題はない。


危険もない。


だからこそ、残る。


違和感。


「三つ目」


ユーリイは小さく呟く。


歩く速度は変わらない。


視線も動かない。


周囲の流れに溶け込みながら。


どこにも混じらないまま。


「……まだ見る気か」


誰に向けた言葉でもない。


だが。


確かに、そこにあった。


答えを待つ気配だけが。

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