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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊


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森から帰った男

石畳の通りに、乾いた靴音が響く。


昼下がり。


王都の外れに近い商業区は、人通りが多い。


声。


荷車。


金属音。


香辛料を売る露店の呼び込み。


洗濯物を抱えた女たちの笑い声。


遠くで馬が鼻を鳴らす音。


その中で。


一つだけ、浮く音。


歩幅は一定。


急がない。


迷わない。


周囲の流れに合わせているようで、どこにも混じっていない。


ユーリイが歩く。


速度は変わらない。


視線も動かさない。


男が一人で歩いている。


本来なら、それだけで目立つ。


この世界に男は少ない。


珍しい。


大切にされる。


囲われる。


誰かの家のものとして扱われる。


だから、通りを一人で歩く男など、そうそういるものではない。


だが、この通りの人間は慣れていた。


ユーリイが一人で歩いていることに。


そして、その男に安易に触れてはいけないことに。


「ユーリイ、今日も良い男だねぇ」


通りの端。


野菜の籠を脇に置いた女が声をかける。


歳は三十を過ぎた頃か。


日に焼けた顔に、悪びれない笑みを浮かべている。


ユーリイは目だけ向ける。


「ふだん男を見てないから皆良く見えるんだろう」


女は笑う。


「ああ違いない!」


「私の知ってる男って、親父とあんたとパン屋のタッカー位だからね」


近くにいた女たちもつられて笑う。


冗談として通じる。


通じる程度には、彼はこの通りに馴染んでいた。


ユーリイは小さく苦笑する。


「それをぬいてもあんたはいい男だよ」


女は一歩近づく。


距離を詰めすぎない。


その距離感にも、慣れがあった。


「どうだい、私と一晩どうだい」


周囲から、ひゅう、と冷やかす声が上がる。


ユーリイは何も言わない。


代わりに、袖を少しだけ上げる。


焼き印。


腕に刻まれた番号。


そして、それを打ち消すように横切る線。


それは、この国で男が持つべきものを、一つ失った印だった。


「萎えた……やめとく」


「知ってんだろ?」


女は一瞬だけ目を細める。


だが、すぐに笑う。


「生殖だけが男女の仲ってわけじゃないよ」


「そうか」


「そうさ」


女は肩をすくめる。


「まあ、あんたがその気になったら声をかけな」


「順番待ちになりそうだな」


「そこまで暇じゃないよ」


女が笑う。


冗談はそこで終わる。


それ以上は踏み込まない。


踏み込めば何かが壊れることを、女たちは知っていた。


誰かが教えたわけではない。


この通りで暮らしていれば分かる。


ユーリイは肩をすくめる。


慣れている。


こういうやり取りは、珍しくもない。


悪意がないことも。


同時に、どうしても越えられない線があることも。


それ以上は続けない。


歩く。


空気が戻る。


雑踏が戻る。


店先で値段を巡って言い争う声。


子供を叱る女の声。


通りに積まれた樽をどかす音。


日常が、何事もなかったように続いていく。


その先で。


団子っ鼻の中年軍曹が足を止める。


王都駐屯の古参兵だ。


肩幅が広く、腹も出ている。


若い兵からは、口うるさいが面倒見は悪くないと見られている。


その軍曹が、ほんの一瞬、迷ったように見えた。


だが、すぐに背筋を伸ばす。


「……っ」


鋭く敬礼する。


通り過ぎていく男に向けて。


周囲の視線が遅れて集まる。


理由が分からないまま。


腕。


焼き印。


近くにいた若い兵が小さく声を漏らす。


「あれ……」


目を細める。


「男……?」


違和感。


「一般人の男が……一人で?」


視線が腕に落ちる。


焼き印。


一瞬、息を呑む。


「あの印……」


言いかけて、止まる。


軍曹は眉をわずかに動かす。


それだけ。


「声を落とせ」


短く言い切る。


若い兵は口を閉じた。


軍曹の視線は外れない。


男の背中から。


「英雄だ、我が軍の」


若い兵が目を見開く。


「……は?」


繋がらない。


理解できない。


焼き印のある男。


一人で歩く男。


通りの女たちに軽口を叩かれ、当たり前のように流していく男。


そして、古参の軍曹が敬礼する相手。


その全てが、若い兵の頭の中で噛み合わない。


軍曹は続ける。


声をさらに落として。


「……捨て石隊って聞いた事あるか」


若い兵の表情が固まる。


聞いたことはある。


配属前の噂話で。


酒場で。


兵舎の寝台で。


誰かが笑い話にしていた。


あるいは、怖い話にしていた。


使い潰される部隊。


帰ってこない部隊。


男なのに、戦場へ放り込まれる者たち。


「……不能者の」


若い兵がかすかに言いかける。


軍曹の目が細くなる。


若い兵はそこで止めた。


「そう呼ぶやつもいる」


軍曹は低く言う。


「だが、今ここでその言い方はするな」


「……はい」


ユーリイは振り返らない。


周囲の人間は、無意識に道を空けている。


誰も命じていない。


それでも、空く。


それは敬意というより、もっと曖昧なものだった。


恐れ。


遠慮。


知っている者の沈黙。


知らない者の困惑。


全てが混じって、通りに細い道を作る。


軍曹は小さく付け加える。


「……あの森に入って、帰ってきた」


「森……?」


「国境の森だ」


一拍。


「帰らずの樹海」


若い兵は言葉を失う。


想像できない。


したくもない。


だが。


通りの人間は、誰一人としてそれを否定しなかった。


笑う者もいない。


驚く者もいない。


ただ、知っている顔で、視線を外す。


それが、この通りの答えだった。

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