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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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199/227

夜の賭場

その日、ユーリイとタッカーは盛り場を訪れていた。


今回の客は、色街の華ラローザ・ドゥーニィではない。


ラローザとは別の形で、夜の街を仕切ってきた女親分。


フロレンス・デシェルト。


彼女は所謂博徒。


腕っぷしと度胸で、いくつもの賭場を仕切ってきた女だった。


そんな彼女の若い衆がタッカーのパン屋の扉を叩いたのは、閉店間際の時間だった。


実際に二人がフロレンスと会ったのは、その翌日の夜半だった。


「おいおい、パン屋は朝が早いんだ。こんな時間に呼び出されちゃ起きれないだろがよ」


「俺なんて、お肌が荒れちゃうわよ。最近なんてエリザベスの所為で夜中に叩き起こされちゃうの」


「お肌がって面かよ。レモンスライスでも貼り付けてろよ」


「お前も三徹余裕って言ってたろ。下らねえこと言ってん……来たぞ」


ユーリイが顎で示す。


タッカーがそちらを見た。


比較的長身の二人より、僅かに背が低い女が歩いてくる。


太い腕。


厚い胸板。


袖を肘まで捲り上げ、堂々と肩を揺らして歩く姿は、女親分という言葉がそのまま服を着て歩いているようだった。


その後ろを、数人の若い女たちがついてくる。


女は二人の前で足を止めた。


「待たせたね。私はフロレンス、フロレンス・デシェルト」


「ユーリイ・シーゲル」


「タッカー・ナークニーだ」


「ああ、知ってるよ」


フロレンスが笑う。


「こっちだ。立ち話でするような話じゃない」


案内されたのは、賭場の二階にある一室だった。


分厚い扉。


大きな机。


壁際には酒瓶が並び、その横には何冊もの帳簿。


いかにも賭場の親分の部屋。


――なのだが。


部屋の隅に、大きなぬいぐるみが置かれていた。


何の動物なのかはよく分からない。


丸く、柔らかそうで、やたらと大きい。


ユーリイが見る。


フロレンスも見る。


「……」


「……」


「何だい」


「いや」


「何か言いたそうじゃないか」


「何も言ってない」


「なら見るんじゃないよ」


タッカーが吹き出しそうになり、咳払いで誤魔化した。


「座りな」


三人が机を囲む。


フロレンスは酒瓶に手を伸ばしかけ、止めた。


「まず確認したいんだけどね」


ユーリイを見る。


「ラローザの色街の麻薬蔓延を解決したのって、あんただろ?」


「いや、あれは国の捜査機関がやったことだ」


「あんた、私をなめているのかい?」


「……」


「そんな表向きの話なんか信じている奴なんて、この町じゃいないよ」


フロレンスが椅子に深く腰掛ける。


「この国じゃ、なんもできないって思われている男が夜の街を徘徊し、誰にも尻尾を掴ませなかった麻薬組織を壊滅させた」


口の端を上げる。


「夜の歌い手が諳んじる英雄より、あたし達には通っている話さ」


「買いかぶりだ」


「そうかい?」


フロレンスはユーリイを上から下まで眺めた。


「それより、あんたいい顔してるね」


「?」


「うちの一家全体の男にならないか」


タッカーが横を向いた。


肩が震えている。


ユーリイは小さく息を吐いた。


「光栄だが、俺はこういう奴だからな」


袖を捲る。


右腕。


十桁の数字。


そして、それを横切る一本の線。


フロレンスの笑みが消えた。


「不能者の証の横線かい」


「そうだ」


「噂は本当だったんだね」


少しだけ間を置く。


「気を悪くしたんなら謝るよ」


「いや、いい」


ユーリイが袖を戻す。


「でもね」


フロレンスは頬杖をついた。


「女が男を求めるのは、生殖能力だけじゃない」


「……」


「癒しや潤いって奴が必要なんだよ。特にあたしたちみたいな賭場の女はね」


「そういうもんか」


「そういうもんさ」


そして笑う。


「とは言っても、ラローザのところで飼われているような、なよなよした男には用がないけどね」


「ラローザが聞いたら怒るぞ」


「言わせときな」


フロレンスが鼻で笑った。


「私たちみたいな女はね、荒っぽさは勿論だけど、芯の通った男が好きなんだよ」


指を一本立てる。


「仲間を裏切らない」


もう一本。


「どんなことがあっても見捨てない」


そしてユーリイを指差す。


「色気があれば、なおいい」


「買いかぶりすぎだ」


「私は、そういう勘だけはいいんだ」


フロレンスが笑った。


「だからこの商売で生き残ってる」


タッカーが呟く。


「こいつ、猫一匹のために城へ殴り込むような奴だけどな」


「殴り込んでねえ」


「猫?」


「何でもない」


「面白そうじゃないか」


「本題に入ってくれ」


「はいはい」


フロレンスは机の上へ二冊の帳面を置いた。


「頼みたいことは二つある」


一冊目を開く。


「まずは、歌姫の籠」


王国が後援する音楽コンクール。


数多くの歌い手の中から、最も優れた歌姫を選ぶ。


籠の中にいた鳥が、才能という翼を広げ、大空へ飛び立つ。


そんな願いを込めて始められた大会だった。


「昔はね、本当にいい大会だったらしいよ」


フロレンスが言う。


「歌が上手い奴が評価される。貴族の娘だろうが、酒場の歌い手だろうが関係ない」


「今は違うのか」


「違うね」


いつからか、審査員が固定された。


特定の有力貴族が囲う歌い手ばかりが上位に並ぶようになった。


そして近年では、


優勝者まで、ほぼ順番で決まっている。


「露骨だな」


「嫌な大人の世界さ」


フロレンスは肩を竦めた。


「私も何度か文句を言った。でも悲しいかな、所詮は盛り場の顔役程度さ。聞いてくれる奴なんていやしない」


だが、今年。


事前の打ち合わせに、一人の女が現れた。


国王代理。


国務大臣。


イレーヌ・ブーブ伯爵。


代理人ばかりが並ぶ席へ、本人がやって来た。


そこでフロレンスは、以前から考えていた案を口にした。


審査員だけではなく、


会場にいる観客にも投票させる。


「伯爵は?」


「面白いってさ」


フロレンスが笑う。


「公平性を保つ意味でも、試してみる価値があるって」


「へえ」


「おかげで今回、試験的に導入されることになった」


もっとも、観客投票になれば全てが公正になるわけではない。


票を買う者も出る。


人を集める者もいる。


新しい仕組みには、新しい抜け道が生まれる。


「だから、何人か信用できる奴に声をかけてる。あんた達にも少し目を配ってもらいたい」


「それが一件目か」


「ああ」


フロレンスがもう一冊の帳面へ手を置く。


「でも、こっちが本命だ」


帳面を開いた。


そこには名前と数字が並んでいた。


「剣の乙女トーナメント」


王国各地から剣士が集まる武術大会。


騎士。


傭兵。


道場剣士。


出自を問わず、剣の腕を競う。


そして当然、


賭場では大きな金が動く。


「ここ数年、妙なことが起きてる」


フロレンスが何人かの名前を指で叩いた。


「優勝候補でもない。上位候補ですらない女が、突然勝ち上がって優勝を掻っ攫う」


「番狂わせなんて珍しくないだろ」


「一度ならね」


彼女たちには共通点があった。


所属していた騎士団や傭兵団でも、三本の指に入るほどではない。


五番手。


六番手。


強いことは強い。


だが、それ以上にはなれない。


長年そう評価されてきた剣士たちだった。


それが大会で突然覚醒する。


そして優勝。


「それだけなら、いい話なんだけどね」


フロレンスが次の頁を開く。


「翌年、誰一人として出てこない」


「誰も?」


「一人もだ」


所属していた騎士団や傭兵団も辞めていた。


王国大会の優勝者。


その肩書きがあれば、現役を退いても道場を開ける。


貴族家の指南役として招かれることもある。


だが、


誰一人としてそうしていない。


身体を壊し、実家へ戻った者。


人前へ出なくなった者。


まともな生活すら送れなくなった者。


「……妙だな」


ユーリイが帳面を見る。


「ああ」


フロレンスが別の頁を開いた。


数字。


賭け金。


倍率。


「それだけじゃない」


「?」


「おかしな年にはね、決まって予選の頃から、その女に妙な金が入る」


タッカーが帳面を覗き込む。


「優勝候補じゃないんだろ?」


「だから妙なのさ」


フロレンスの指が数字の列をなぞる。


「一人が馬鹿みたいな額を賭けるわけじゃない。小さく、細かく、あちこちから入ってくる」


「目立たないように?」


「そう見える」


ユーリイが顔を上げた。


「つまり、誰かが――」


「ああ」


フロレンスの顔から笑みが消えた。


「勝つ前から、勝つことを知っている」


部屋が静かになった。


外から聞こえる賭場の喧騒だけが、遠く響いている。


ユーリイが帳面を閉じた。


「今年もいるのか?」


「いる」


フロレンスが答える。


「だから、あんたに頼みたい」

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