黒と三毛
朝。
ユーリイは椅子に座ったまま目を覚ました。
「…………」
身体が痛い。
いつの間にか眠っていたらしい。
机の上を見る。
布に包まれたエリザベスが、
小さく呼吸をしている。
「……生きてるな」
そっと頭を撫でる。
反応はない。
だが、
昨日より身体は温かい。
扉が開いた。
「起きましたか」
「ミークニー」
「随分と器用な格好で寝ていましたね」
「身体中痛えよ」
「でしょうね」
ミークニーはエリザベスの横へ行く。
身体に触れ、
目を確認する。
「どうだ?」
「まだ何とも言えません」
「そうか」
「少なくとも、夜は越しました」
「うん」
ミークニーが水を口元へ運ぶ。
僅かに唇を濡らす。
エリザベスは、
動かなかった。
それから、
ユーリイはミークニーの詰め所に居座った。
時折、
エリザベスの身体を撫でる。
布を替える。
水を口元へ運ぶ。
だが、
飲まない。
食べない。
眠っているのか、
起きているのかすら分からない。
それでも、
呼吸だけは続いていた。
昼を過ぎた頃。
扉の外から、
何かを引っ掻くような音がした。
カリ。
カリカリ。
「ん?」
ユーリイが扉を開ける。
黒いものがいた。
「…………」
大きい。
普通の猫とは比べものにならない。
黒い毛。
巨大な身体。
ユーリイは、
その姿をしばらく見た。
「ああ、お前、久しぶりだな」
ノクスは、
ユーリイを見上げた。
「元気だったか?」
返事はない。
ノクスはユーリイの横を通り、
勝手に部屋へ入った。
「おい」
そのまま机へ近づく。
布に包まれたエリザベスを見る。
鼻先を近づける。
「気になるのか?」
ノクスは答えない。
机の横に身体を伏せた。
「…………」
巨大な黒猫。
その横に、
小さな三毛猫。
「でけえな、お前」
ノクスの尻尾が、
一度だけ床を叩いた。
しばらくして、
廊下から足音が聞こえた。
扉から、
少女が顔を覗かせる。
「…………」
「ん?」
ユーリイが振り返る。
「アステローペ殿下」
少女はユーリイを見る。
次に、
ノクスを見る。
そして、
机の上のエリザベスを見る。
「お久しぶりですね」
「…………」
アステローペは、
小さく頷いた。
部屋へ入る。
ノクスの横へしゃがみ込むと、
その大きな背中へ手を置いた。
「この子、エリザベスっていうんです」
アステローペが三毛猫を見る。
「昨日見つけました。かなり弱っていて」
「…………」
アステローペは、
じっとエリザベスを見ていた。
そっと手を伸ばす。
だが、
触れる直前で止めた。
そのまま手を引く。
廊下から、
声が聞こえた。
「アステ! こんなところにいたの?」
もう一人の少女が、
開いた扉から顔を出した。
「ん?」
ユーリイを見る。
「あなた、シーゲル! 何でザッカー典医の部屋にいるのよ」
「ケラエノ殿下、お久しぶりです」
「何してるの?」
「猫を診てもらっているんです」
「猫?」
ケラエノが、
机の上を見る。
「……ずいぶん弱ってるわね」
「ええ」
アステローペは、
エリザベスの横に座った。
何をするでもない。
ただ、
小さな三毛猫を見ている。
ケラエノも、
その横に立った。
しばらくして、
扉が開いた。
「ユーリイ、様子は――」
ミークニーが止まった。
「…………」
部屋の中を見る。
ユーリイ。
二人の王女。
巨大な黒猫。
そして、
小さな三毛猫。
「随分と増えましたね」
「勝手に来た」
「殿下方まで勝手に来たことにするのは、どうかと思いますが」
「じゃあ、ノクスだけ」
ケラエノが眉を寄せた。
「私たちも勝手に来たわよ」
「そうですか」
ミークニーは、
小さく息を吐いた。
「まあ、いいでしょう」
エリザベスの様子を確認する。
「どう?」
ケラエノが聞いた。
「まだ危険な状態です」
「助かるの?」
「何とも言えません」
アステローペは、
何も言わなかった。
「アステ、そろそろ戻るわよ」
「…………」
アステローペが、
小さく頷く。
立ち上がり、
一度だけエリザベスを振り返る。
ノクスも身体を起こした。
「またな」
ユーリイが言う。
ノクスは、
二人の後をついて部屋を出ていった。
次の日も、
エリザベスは食べなかった。
その次の日も、
食べなかった。
ユーリイは毎日、
ミークニーのところへやってきた。
布を替え、
身体を撫で、
水を口元へ運ぶ。
ミークニーも、
何度も様子を見る。
だが、
大きな変化はなかった。
四日目。
エリザベスが、
初めて自分で顔を上げた。
ほんの僅か。
だが、
すぐに力尽きたように頭を落とした。
五日目。
ユーリイの指が触れると、
耳が動いた。
六日目。
目を開いた。
ほんの少しだけ。
そして、
また閉じた。
「食べねえな」
「ええ」
ミークニーが、
小さな皿を机の上に置く。
乳。
「少しでも自分から口にしてくれればいいのですが」
エリザベスは動かない。
「…………」
ユーリイは、
椅子に座った。
「もう六日だぞ」
「分かっています」
「このままで大丈夫なのか?」
ミークニーは、
答えなかった。
その日の午後。
扉が開いた。
ノクスが入ってきた。
「また来たのか」
その後ろから、
アステローペが入ってくる。
さらに、
ケラエノ。
「また来たのですか?」
「ケラエノ殿下、アステローペ殿下」
「いけない?」
ケラエノは聞いた。
「いえ、そういうわけでは」
アステローペは、
まっすぐエリザベスのところへ向かった。
机の横に立つ。
じっと、
三毛猫を見る。
「…………」
ノクスが、
その横に伏せる。
「今日は少し目を開けたんですよ」
ユーリイが言う。
「でも、まだ何も食べなくて」
「…………」
アステローペは、
エリザベスを見ている。
長い間、
何も言わない。
やがて、
ケラエノがアステローペを見る。
「…………」
アステローペの目が、
僅かに動いた。
ケラエノが言った。
「大丈夫だって言ってる」
ユーリイが顔を上げる。
「大丈夫?」
「ええ」
アステローペを見る。
「…………」
小さく頷いた。
「そうですか」
ユーリイは、
エリザベスを見る。
「なら、大丈夫ですね」
「…………」
アステローペが、
もう一度頷いた。
その日の夕方。
ユーリイは、
机に頬杖をついていた。
ノクスは、
机の横に伏せている。
アステローペとケラエノは、
もう戻っていた。
皿には、
新しい乳が入っている。
今日も、
口をつけていない。
「なあ」
ノクスを見る。
「お前、暇なのか?」
ノクスは、
目を閉じたまま動かない。
「王女様の護衛だろ?」
尻尾が一度、
床を叩いた。
「仕事しろよ」
もう一度、
尻尾が床を叩いた。
「…………」
ユーリイは、
エリザベスを見る。
小さな身体。
細い呼吸。
「そろそろ食わねえと、本当に死ぬぞ」
返事はない。
「…………」
ノクスが、
ゆっくり顔を上げた。
机の上を見る。
エリザベスの耳が動いた。
「ん?」
ユーリイが身体を起こす。
エリザベスが、
僅かに顔を上げた。
震える前足を動かす。
少しだけ、
前へ。
もう一度。
皿の縁に、
鼻先が触れた。
「…………」
舌が出る。
ぺろ。
一度。
止まる。
ぺろ。
もう一度。
「……ミークニー」
隣の部屋から、
すぐに足音がした。
「どうしました?」
「見ろ」
ミークニーが近づく。
エリザベスは、
ほんの少しずつ、
乳を舐めている。
「…………」
「ミークニー」
「ええ」
それだけだった。
ノクスが、
また頭を床へ置いた。
それから、
エリザベスは少しずつ食べるようになった。
立てるようになった。
歩けるようになった。
最初は数歩。
次は、
机の端まで。
さらに数日後には、
ユーリイの後ろをついて歩くようになった。
「お前、もう大丈夫だろ」
「にゃあ」
「元気になったらなったで、うるせえな」
「にゃあ」
「はいはい」
その様子を見ていたミークニーが、
小さく笑った。
「随分と懐かれましたね」
「飯くれる奴だと思ってるだけだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
足元のエリザベスを抱き上げる。
「そろそろ帰るぞ」
「にゃあ」
パン屋の二階。
ユーリイが扉を叩く。
「はい」
ナージャが扉を開ける。
「…………」
その目が、
大きく開いた。
「エリザベス……?」
「見つけましたよ」
ユーリイが、
三毛猫を下ろす。
エリザベスは床に降りた。
ナージャがしゃがみ込む。
「エリザベス」
「…………」
「おいで」
手を伸ばす。
エリザベスは、
ナージャへ近づいた。
その手に、
顔を擦りつける。
「ああ……」
ナージャの目から、
涙が落ちた。
「よかった……」
何度も、
何度も、
小さな身体を撫でる。
「よかったねぇ……」
ユーリイは、
黙って見ていた。
しばらくして、
立ち上がる。
「じゃあ、俺はこれで」
「本当にありがとう、シーゲルさん」
「いえ」
扉へ向かう。
外へ出る。
階段を降りる。
「にゃあ」
「…………」
振り返る。
エリザベスがいた。
「お前、何してんだ」
「にゃあ」
「戻れ」
ユーリイが、
階段を指差す。
エリザベスは動かない。
「エリザベス」
ナージャが、
階段を降りてくる。
「こっちへおいで」
エリザベスは、
ユーリイの足元に座った。
「…………」
「…………」
ナージャが笑った。
「あなた、この子の新しい主人として認められのよ」
「俺?」
「ええ」
ユーリイは、
足元を見る。
エリザベスが、
見上げている。
「……俺、猫なんか飼ったことないんですけど」
「大丈夫よ」
「何がです?」
「この子が決めたんだから」
「…………」
「にゃあ」
ユーリイは、
頭を掻いた。
「お前なぁ……」
しゃがみ込む。
エリザベスの頭を撫でる。
その手に、
小さな頭が押しつけられた。
数日後。
タッカーのパン屋。
「だから、お前から美女と聞いていい思い出がないんだ」
「そうか?」
タッカーが笑う。
「満更じゃない顔をしているぞ」
「うるせえ」
ユーリイの膝の上で、
エリザベスが気持ちよさそうに眠っていた。




