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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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雷の鳴る雨の中

雨の中を走る。


胸元には、


冷たくなった小さな身体。


まだ息はある。


だが、


弱い。


「死ぬなよ」


ユーリイは走った。


大通りへ出る。


行き交う人を避け、


水溜まりを飛び越える。


雨の向こうに、


大きな城壁が見えてきた。


王城。


正門に立つ衛兵が、雨の中を走ってくる男に気づく。


「止まれ!」


ユーリイは足を止めた。


「何者だ!」


「ユーリイ・シーゲル」


「用件は?」


「ミークニーに会いたい」


「ミークニー?」


衛兵が隣を見る。


もう一人の衛兵が僅かに首を傾げる。


「お前、ミークニーというのはザッカー御典医殿のことか?」


「そうだ! さっきからそう言ってるだろうが!」


「御典医殿に何の用だ?」


「猫を!」


ユーリイは胸元を開く。


ずぶ濡れになった三毛猫が抱かれている。


「この子を診てもらいたい」


「猫……だと?」


「死にかけてる。早く通してくれ」


「ふざけているのか?」


「ふざけてない。頼む」


「ならん。帰れ」


「ミークニーに聞けば分かる」


衛兵の眉が吊り上がった。


「先ほどから御典医殿を呼び捨てにしているが、本当に知り合いなのか?」


「ああ」


「それをどう証明する?」


「会わせてくれれば分かる」


「馬鹿を言うな」


衛兵がユーリイの前に立ちはだかる。


「素性も分からん人間を、御典医殿に会わせるため王城へ入れられるわけがないだろう」


「じゃあ、誰に言えばいいんだよ」


「知らん。少なくともここは通さん」


「…………」


「分かったなら帰れ」


ユーリイは動かなかった。


衛兵の言っていることは分かる。


今の自分は軍人でもなければ、


王城に用があるような人間でもない。


だが、


腕の中のエリザベスには時間がない。


「そこを何とか――」


「あれ?」


後ろから声がした。


「君はシーゲル?」


振り返る。


数人の兵を連れた女性が、こちらへ歩いてくる。


「こんなところで何をしているんだ?」


「フォルティエ少佐」


リュシエンヌ・フォルティエ。


メローペの側近の一人。


リュシエンヌはユーリイを見る。


頭から足の先までずぶ濡れ。


そして、


胸元に抱えられた猫。


「……何してるの?」


「ミークニーに会いたいんだ」


「ザッカー御典医に?」


「ああ」


「その猫を抱えて?」


「ああ」


リュシエンヌが猫を覗き込む。


表情が変わった。


「……かなり弱ってるね」


「だからミークニーに診てもらいたい」


「なるほど」


一度頷く。


そして、


少し口元が緩んだ。


「今じゃ陛下を含めて、王城の人間の健康を預かってるザッカー御典医に野良猫を診てもらおうって?」


「他に思いつかなかった」


「君らしいというか、なんというか……」


リュシエンヌは衛兵を見る。


「ごめん、知り合いなんだ。通してやってよ」


「フォルティエ少佐」


それまでとは違い、


衛兵が姿勢を正す。


「申し訳ありませんが、少佐の御命令でも許可なくお通しすることはできません」


「んー、やっぱり駄目?」


「はい」


「じゃあ誰の許可を取ればいい?」


「それは……」


リュシエンヌが少し考える。


「メローペ殿下の許可でも取れば通してもらえる?」


「「!!!!!」」


二人の衛兵が固まった。


「で、殿下ですか?」


「うん」


リュシエンヌはユーリイを指差した。


「知っているかな? 殿下生還の立役者の一人だよ」


二人の衛兵が、


改めてユーリイを見る。


ずぶ濡れの男。


その胸には、


死にかけた猫。


「この男が……?」


「そう。ユーリイ・シーゲル。私たちと一緒に森から帰ってきた一人」


衛兵の表情が変わった。


「……失礼いたしました」


「いや、いいから」


ユーリイはエリザベスを抱き直す。


「通してくれないか?」


「申し訳ありません」


衛兵は頭を下げた。


そして、


再び顔を上げる。


「それでも、許可なくお通しすることはできません」


「…………」


リュシエンヌが笑った。


「真面目だね」


「職務ですので」


「うん。正しい」


リュシエンヌは後ろにいた兵の一人を呼ぶ。


「悪いけど、中に行って許可を取ってきて」


「はっ!」


兵が城内へ走っていく。


「少し待って」


「ああ」


ユーリイは腕の中を見る。


エリザベスは動かない。


「……急いでくれ」


「分かってる」


リュシエンヌから笑みが消えた。


しばらくして、


城内へ走っていった兵が戻ってきた。


「入城許可が下りました!」


衛兵が門を開ける。


「お通りください!」


「ありがとう」


ユーリイは走り出した。


「あ、ちょっと待って!」


リュシエンヌも後を追う。


「場所分からないでしょ!」


「ミークニーのところ!」


「だから、それがどこか分からないでしょ!」


「……知らん!」


「でしょうね!」


城内を進む。


濡れた服から水が落ち、


床に跡を残す。


何人もの侍女や役人が振り返った。


リュシエンヌが先を走る。


廊下を曲がり、


階段を上がる。


「ここ!」


扉を開けた。


「ザッカー先生!」


机に向かっていた男が顔を上げる。


「フォルティエ少佐?」


そして、


その後ろから入ってきた男を見る。


「……ユーリイ?」


「ミークニー!」


ユーリイは机の前まで行く。


「この子を診てくれ」


「この子?」


胸元から三毛猫を見せる。


「…………」


ミークニーは猫を見る。


ユーリイを見る。


もう一度猫を見る。


「私は人間の医者ですよ」


「知ってる」


「では、なぜ猫を連れてくるんです」


「死にそうだからだ」


「…………」


「助けられるか?」


ミークニーは何も言わなかった。


すぐに立ち上がる。


「そこへ寝かせてください」


机の上にあった物を端へ寄せる。


ユーリイはエリザベスをそっと寝かせた。


ミークニーが身体に触れる。


口を開ける。


目を見る。


胸へ耳を当てる。


「かなり衰弱していますね」


「助かるか?」


「分かりません」


「…………」


「いつからこの状態です?」


「分からない。さっき見つけた」


「食事は?」


「三日前から行方不明だった」


ミークニーの表情が僅かに険しくなる。


「まず身体を温めます」


「何かすることは?」


「布を」


リュシエンヌがすぐに動く。


「持ってくる」


部屋を出る。


ミークニーは棚を開けた。


「ユーリイ、水を用意してください。少し温めたものを」


「ああ」


「熱くしないでください」


「分かった」


二人は動いた。


しばらくして、


エリザベスは乾いた布に包まれていた。


ミークニーが少量の水を口元へ運ぶ。


だが、


飲まない。


「…………」


「駄目か?」


「無理に飲ませる方が危険です」


「そうか」


「今できることをします」


ミークニーは淡々と答える。


だが、


その手は止まらない。


ユーリイは傍に座った。


小さな身体を見る。


呼吸は、


まだ弱い。


どれくらい経っただろう。


外ではまだ雨が降っている。


時折、


遠くで雷が鳴る。


ユーリイはエリザベスの横に座ったままだった。


「ユーリイ」


「ん?」


「今日は帰らないつもりですか?」


「駄目か?」


ミークニーは少し考えた。


「ここは私の個人の詰め所です」


「うん」


「しばらくここにいればいい」


「悪いな」


「今更でしょう」


ミークニーはエリザベスを見る。


「ただし」


「なんだ?」


「助かるとは約束できません」


「…………」


「あまりにも弱っています」


「ああ」


ユーリイは猫の頭へ手を置いた。


「分かってる」


窓の外が光る。


少し遅れて、


雷が鳴った。


三年前。


同じように、


雷の鳴る雨の日だった。


「誰か!」


若い女が雨の中を走っていた。


腕の中には、


泥だらけの小さな子猫。


「お願いします!」


治療院の扉を叩く。


中から出てきた女が、困った顔をする。


「うちは人間しか診ないよ」


「でも、まだ生きてるんです!」


「他を当たって」


扉が閉まる。


「…………」


腕の中の子猫を見る。


弱々しく、


僅かに身体が動いている。


「大丈夫」


ソフィアは走り出した。


次の治療院。


「猫?」


「お願いします!」


「無理だよ。動物なんて診たことがない」


「何でもいいんです!」


「そう言われてもね」


「お願いします!」


「悪いけど、他へ行ってくれ」


また、


雨の中へ。


「大丈夫」


子猫を抱きしめる。


「お前は私が絶対助ける」


走る。


雨の中を。


雷が鳴る。


泥を跳ね上げ、


次の治療院へ。


「お願いします!」


「もう駄目なんです!」


「この子を診てください!」


何軒目だったのか。


小さな治療院の老女が、


ソフィアの腕の中を見た。


「……見せてみな」


「え?」


「助かるかどうかは分からないよ」


ソフィアの顔が上がる。


「はい!」


子猫を差し出す。


「お願いします!」


老女は小さな身体を受け取った。


数日後。


敷物の上。


小さな三毛猫が、


皿に入れられた乳を舐めている。


その横で、


ソフィアが笑っていた。


「エリザベス」


子猫が顔を上げる。


「今日から、お前はエリザベスだ」


にゃあ。


小さな声が返った。


窓の外で、


雷が鳴った。


エリザベスの耳が、


僅かに動く。


ユーリイはその小さな頭を撫でた。


「…………」


ミークニーが部屋へ戻ってくる。


「変わりは?」


「ない」


「そうですか」


エリザベスの様子を確認する。


「ミークニー」


「はい」


「俺、ここにいるから」


「ええ」


「何かあったら起こしてくれ」


ミークニーはユーリイを見る。


「あなたも少し休んでください」


「ああ」


そう答えながら、


ユーリイは動かなかった。


布に包まれた小さな身体の横で、


ただ、


その呼吸を見ていた。


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