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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊
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パン屋の騎士

朝は早い。


まだ空気が冷たい時間から、火は入っている。


炉の奥で薪がはぜる。

乾いた音に混じって、じわりと熱が広がっていく。


粉を量る。

水を足す。

手のひらで押し、返し、折りたたむ。


単純な作業だが、乱れはない。

余計な動きもない。


タッカーは黙って手を動かしていた。


騎士爵。

戦場を生き残った証。


そして今は、パン屋。


そのどちらにも、違和感はない。


外から足音が近づく。


扉が開く前に分かる。


「……もう来てたんすね」


声だけが先に入ってくる。


タッカーは振り返らない。


「来るだろうと思ってた」


「どういう意味っすか、それ」


セリナが中に入る。

戸口で一瞬だけ立ち止まり、視線が流れる。


棚、窓、裏口。


無意識の確認。


癖は抜けていない。


「顔に出てる」


タッカーが短く言う。


セリナが肩をすくめた。


「便利っすね、それ」


「長く生きてるだけだ」


軽く言ったが、否定はしない。


セリナは壁にもたれた。

視線は外に向けたまま、口だけが動く。


「で、来たんすか」


「来た」


即答。


「昨日の夕方だ」


手は止まらない。

生地の表面を整えながら続ける。


「丁寧だったな」


「最初はそう来るっす」


セリナは笑ったが、声は乾いている。


「何て?」


「保護する、だと」


「ほら来た」


今度は少しだけ本気で笑う。


「断ったっすか」


「断った」


一拍。


「今のところはな」


セリナの視線がタッカーに向く。


「“今のところ”ってのは」


「様子を見る」


「余裕あるじゃないっすか」


「ない」


短い否定。


それ以上の説明はない。


沈黙が落ちる。


火の音だけが残る。


しばらくして、セリナが小さく息を吐いた。


「連れてくる気っすね、あれ」


「だろうな」


「どうするっすか」


「逃げるか?」


タッカーが逆に聞く。


セリナは首を横に振った。


「逃げる理由はないっす」


「そうだな」


それで話は終わる。


選択肢は最初から決まっている。


外から声がする。

人の気配が増える。


「開けるぞ」


「どうぞ」


扉を開けると、朝の光が差し込む。

同時に、日常の音が流れ込んでくる。


「おはようございます!」


若い女が一人、元気よく入ってくる。

距離が近い。迷いもない。


「もう焼けてる?」


「もう少しだ」


タッカーが答える。


女はそのまま店の中を見回す。

視線がタッカーで止まる。


「ねえ」


「なんだ」


「ほんとに騎士様なの?」


セリナが横目で見る。

止めない。


「そうだ」


タッカーは変わらず答える。


女は一瞬だけ黙ったあと、笑った。


「変なの」


一拍。


「でも、似合ってる」


セリナがわずかに口元を緩める。


タッカーは特に反応しない。


「そうか」


それだけ。


パンが焼ける匂いが広がる。

人が少しずつ増えていく。


いつもの朝だ。


だが、完全に同じではない。


セリナの視線が外へ向く。


通りの向こう。

建物の影に、一人。


動かない。


こちらを見ている。


「……いるっすね」


声は小さい。


タッカーは見ない。


「分かってる」


「どうするっすか」


「何もしない」


生地を炉に入れる。


「いつも通りだ」


セリナは少しだけ考え、うなずいた。


「それが一番面倒っすね」


「そうだな」


外では客が笑っている。

中では火が静かに燃えている。


その間に、わずかな緊張がある。


だが崩れない。


「ねえ」


セリナが言う。


「なんだ」


「騎士様」


タッカーが顔を上げる。


「その呼び方はやめろ」


「似合ってるのに」


タッカーがわずかに目を細める。


「なんだ?英雄曹長」


一拍。


セリナの動きが止まる。


「……やめません?」


タッカーの口元が、ほんのわずかに緩む。


「パン屋でいい」


セリナが小さく息を吐く。


「じゃあ、パン屋」


「それでいい」


一拍。


「……タッカー」


呼び方が変わる。


自然に。


タッカーは何も言わない。


ただ、ほんの少しだけ動きが緩む。


すぐに元に戻る。


「焼けたぞ」


「了解っす」


それだけで十分だった。


外はいつも通りだ。

中も、ほとんど変わらない。


だからこそ分かる。


何かが近づいている。


まだ、崩れていないだけだ。

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