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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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女王の兵

「シーゲル軍曹、ちょっといいかしら?」


声を掛けられ


ユーリイは振り返った


そこにはリュシエンヌ・フォルティエが立っている


「フォルティエ少尉、何か御用でしょうか?」


リュシエンヌが苦笑する


「だから、私にはそんなに畏まらなくていいって。」


「そういう訳にはいきません。で、どのような御用でしょうか?」


「分かった、分かった。」


リュシエンヌは諦めたように笑った


「実は、メローペ殿下があなたに用があるって仰ってるの。ちょっと時間もらえるかしら?」


「もちろんです。」


ユーリイは手にしていた物を置く


「どちらに?」


「お部屋よ。」


「分かりました。」


リュシエンヌの後を追う


ここへ来てから


何度も顔を合わせている


樹海の中では


互いの命を預ける場面すらあった


それでも


少尉と軍曹


その関係が消えた訳ではない


少なくとも


ユーリイにとってはそうだった


メローペの部屋の前で


リュシエンヌが立ち止まる


扉を軽く叩いた


「殿下、おられますか?」


「入りなさい。」


「失礼します。」


リュシエンヌが扉を開ける


「失礼します。」


ユーリイも続く


部屋にはメローペが座っていた


その横には


マルグリット


オーレリア


そしてジゼルがいる


思っていたより人数が多い


ユーリイは僅かに姿勢を正した


リュシエンヌが扉を閉める


メローペがユーリイを見る


「忙しいところごめんなさい。聞きたいことがあって来てもらったの。」


「何でしょうか。」


メローペはすぐには続けなかった


何かを確かめるように


ユーリイを見る


「単刀直入に聞くわ。」


「はい。」


「あなたは、ここに残りたいと思ってる?」


ユーリイは答えなかった


予想していなかった質問だった


「……。」


メローペも急かさない


「先日、あなたはエンロさんに王国へ帰ると答えていたわ。」


「はい。」


「私も帰ると答えた。」


メローペは少しだけ目を伏せる


「当然だと思っていたの。」


「私達は王国へ帰る。」


「そのために、ここまで生きてきたのだから。」


ユーリイは黙って聞いている


「あの日から、ずっと考えていたの。」


メローペは静かに続ける


「エンロさんは」


「ここへ残るという選択肢もあると言った」


「最初は」


「それでも私達は帰るのだから、それでいいと思っていた」


「でも」


一度


言葉を止める


「本当にそれでいいのか」


「特に」


メローペの視線がユーリイへ向く


「あなた達にとって」


「王国へ帰ることが、本当に一番いいことなのか」


「分からなくなってしまったの。」


部屋は静かだった


「あなたが樹海周辺の森へ派遣された事情も理解している。」


「あなた達が、どういう立場で軍へ入ったのかも。」


「本来なら、任務を放棄してここへ残れば軍法上の問題になるでしょう。」


マルグリットも


ジゼルも何も言わない


「帰還出来る状況にありながら、自らの意思で帰還しなかった。」


「そう判断されれば、逃亡と見なされる可能性もある。」


「はい。」


ユーリイは短く答えた


それは分かっていた


軍人である以上


当然のことだった


「でも」


メローペは続ける


「ここは王国の司法が届く場所ではない」


「あなたがここへ残るなら、王国があなたを捕らえることは出来ないでしょう。」


ユーリイの表情は変わらない


「それに、私も約束します。」


メローペはユーリイを真っ直ぐ見る


「もしあなたが残ることを選んでも」


「私は、あなたを罰することを求めません。」


僅かに


ユーリイの眉が動いた


「殿下。」


「最後まで聞いて。」


「はい。」


「私達は、あなた達第893小隊の者達に命を助けられました。」


部屋が静かになる


「あなた達がいなければ、私は今ここにいない。」


「私だけじゃない。」


メローペは


マルグリット


オーレリア


ジゼル


そしてリュシエンヌへ視線を向ける


「ここにいる皆も。」


誰も否定しなかった


「特に」


メローペの視線が


再びユーリイへ戻る


「あなたには、直接命を救われました。」


ユーリイは僅かに目を伏せる


「今の私があるのは」


「あなたが命を賭して動いてくれたからです。」


「殿下。」


「これは事実よ。」


ユーリイは何も言えなかった


「勿論、王国へ帰れば」


「あなた達の功績について、相応の報いがなされるよう私も力を尽くします。」


「第893小隊が何をしたのか。」


「誰が私達を守ったのか。」


「必ず伝えます。」


メローペは少しだけ表情を曇らせる


「ですが」


「ここで身体が治ったあなた達が王国へ戻れば」


「これまでとは違う問題が起きるかもしれない。」


ユーリイが顔を上げる


「以前の家族が、あなた達をどう扱うのか。」


「軍がどう判断するのか。」


「国がどう判断するのか。」


「そして」


「生殖能力を持つ男として」


「あなた達が何を求められるのか。」


メローペは首を横へ振る


「私にも分からない。」


「ですが。」


ユーリイが口を開く


「まだ何も起きておりません。」


「ええ。」


メローペは頷いた


「だから、起きる前に聞いておきたいの。」


「あなた自身が」


「どうしたいのか。」


ユーリイは黙る


「エンロさんの言う通り」


「ここなら、あなたは誰かの財産ではない。」


「男だから」


「不能者だから」


「軍人だから」


「そんなものに縛られる必要もない。」


「ただ」


メローペは静かに言った


「一人のユーリイ・シーゲルとして生きていける。」


その名前を聞き


ユーリイの目が僅かに動いた


「私は」


「それでもあなたに帰れとは」


「簡単には言えなくなった。」


長い沈黙があった


「ユーリイ・シーゲル軍曹。」


メローペが改めて呼ぶ


「あなたの考えを教えて欲しい。」


ユーリイは


すぐには答えなかった


ここに残る


その選択肢は


数日前まで考えたことすらなかった


エンロは


ここにいていいと言った


そして今


メローペも


残っても罰することはしないと言っている


ここには


食べ物がある


安全な寝床がある


学ぶ場所がある


働く場所もある


誰も


自分の腕に残る焼印を気にしない


誰も


番号で呼ばない


男だからといって


何かを求めることもない


ただ


ユーリイ・シーゲルとして生きる


それは


確かに魅力的な話だった


それでも


答えは変わらなかった


ユーリイは姿勢を正す


「メローペ王女殿下。」


「はい。」


「ご配慮、感謝します。」


メローペは黙って聞いている


「殿下のお心遣い、大変光栄であります。」


一度


息を吸う


「しかし、自分は王国に帰ります。」


メローペの表情は変わらなかった


おそらく


その答え自体は予想していたのだろう


「何故ですか?」


ユーリイは少し考える


「先日、エンロにも話した通りです。」


「帰る場所があります。」


「待っている者もいます。」


「それだけ?」


ユーリイがメローペを見る


「シーゲル軍曹。」


「私は、あなた自身の理由を聞きたいの。」


「……。」


メローペは少しだけ間を置いた


「ここへ来るまで」


「あなた達は不能者として、人以下の扱いをされてきた。」


「そして、ここで不能者ではなくなった。」


「それでも王国へ帰れば」


「今度は生殖能力を持つ男として」


「様々な苦難に直面するかもしれない。」


「はい。」


「ここなら」


メローペは言った


「資産としての男ではなく」


「一人のユーリイ・シーゲルとして生きていけるのですよ?」


ユーリイは


しばらく黙っていた


やがて


少しだけ表情を緩める


「自分が王国の民であるということと」


軍人としての硬い声が


ほんの僅かに柔らかくなる


「なにより」


メローペを見る


「自分は、女王陛下の兵だからです。」


誰も言葉を発しなかった


メローペが小さく繰り返す


「女王の兵……。」


「はい。」


「でも」


メローペはユーリイを見る


「その女王の軍が、あなたをここへ送ったのですよ。」


部屋の空気が僅かに変わる


マルグリットがメローペを見る


だが


止めなかった


「生きて帰ることを」


「ほとんど期待されていない任務へ。」


「はい。」


「あなた達を不能者として扱ったのも、王国の制度です。」


「はい。」


「それでも?」


ユーリイは迷わなかった


「はい。」


短い返事だった


ジゼルが僅かに目を伏せる


何かを考えるように


だが


何も言わなかった


メローペは


しばらくユーリイを見つめた


「そう。」


ユーリイは


自分の胸元へ手を置いた


「今後」


「自分が戦えなくなって、軍を追い出されても」


「あるいは」


「自らの意思で軍を出ることがあっても」


少しだけ間を置く


「それだけは変わりません。」


メローペは何も言わない


マルグリットも


オーレリアも


リュシエンヌも


そして


ジゼルも


黙ってユーリイを見ていた


「それが」


ユーリイは静かに続けた


「人以下まで落ちた自分達に」


「人としての価値を与えてくれた」


一人の顔が


ユーリイの脳裏に浮かぶ


冷たい声


厳しい目


何度倒れても


立てと命じた人


「ネメシス教官の教えだからです。」


静寂が落ちた


誰も


すぐには言葉を返さなかった


ジゼルは


ユーリイを見ていた


不能者


捨て石


帰還を期待されない兵


そう呼ばれてきた男が


自分を


女王の兵だと言った


軍が何をしてくれるかではない


国が何を与えてくれるかでもない


自分が


どう在るか


そのことだけを


ユーリイは語っていた


メローペは


すぐには何も言えなかった


やがて


小さく息を吐く


「……分かりました。」


ユーリイを見る


「あなたの意思を尊重します。」


「ありがとうございます。」


メローペは頷いた


そして


ほんの僅かに笑った


「シーゲル軍曹。」


「はい。」


「一緒に帰りましょう。」


ユーリイは姿勢を正した


「はい。」


今度の返事には


一切の迷いがなかった


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