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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義 豊


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持っていくもの

医療施設の廊下を、リナが歩いていた


ゆっくりではない


誰かに身体を支えてもらっている訳でもない


ごく普通の足取りだった


少し先まで歩き


振り返る


そこにはクレールが立っている


「どうですか?」


「問題ありません。」


リナはそう答えた


クレールは何も言わない


その視線が自分の足へ向いていることに気付き


リナは苦笑する


「本当です。」


「何が?」


「まだ心配しているでしょう。」


「してない。」


「してます。」


即答だった


クレールが僅かに眉を寄せる


リナはその場で軽く屈伸した


立ち上がる


もう一度


今度は少し深く


「痛みは?」


「ありません。」


「違和感は?」


「それもありません。」


「本当に?」


リナが笑った


「少尉。」


「何?」


「それ、昨日も聞きました。」


「昨日と今日は違うでしょう。」


「一昨日も聞かれました。」


「一昨日と今日も違う。」


「……そうですね。」


リナは諦めたように答える


それから右腕を上げた


肩より高く


頭の上まで


そのまま大きく回す


一度


二度


動きに不自然なところはない


「腕も大丈夫です。」


「そう。」


「走れます。」


「走ったの?」


「昨日少し。」


クレールの眉が動く


「誰の許可で?」


「……。」


今度はリナが目を逸らした


「リナ。」


「少しだけです。」


「少しでも走ったんでしょう。」


「身体の具合を確かめたかったので。」


「それでまた悪くしたらどうするの。」


「もう治っていると言われています。」


「だからといって。」


「少尉。」


リナが遮った


クレールを見る


「大丈夫です。」


先ほどまでとは少し違う声だった


クレールは黙る


リナは自分の脚を見る


そして


もう一度歩いた


数歩


十歩


廊下の端まで行き


また戻ってくる


歩幅も


姿勢も


ここへ来る前と変わらない


「ほら。」


リナが少し笑う


「大丈夫でしょう?」


クレールは答えなかった


ここへ辿り着いた時の姿を覚えている


リナだけではない


誰もが傷ついていた


自分の脚で歩けない者


意識すらない者


血と泥にまみれ


生きているのかどうかさえ分からなかった者


二十五人


よく全員がここまで辿り着いたと思う


そして


よく全員がここまで戻ったと思う


目の前にいるリナは


もう誰かの手を借りなくても歩ける


走ることさえ出来る


「少尉?」


「何?」


「どうしました?」


「別に。」


クレールは短く答えた


それから


ほんの僅かに息を吐く


「よかった。」


リナは何も言わなかった


ただ


少しだけ笑った


「はい。」


二人は並んで廊下を歩き始めた


村の工房には


金属を打つ音が響いていた


マース・ハナーキは作業台の前に立ち


ジクロの手元を見ている


しばらくして


ジクロが手を止めた


「こんなもんだな。」


布で刃を拭う


そして


マースへ差し出した


「ほら。」


「ありがとうございます。」


受け取ったのは


マースが以前から使っていたナイフだった


鞘から抜く


目の高さまで持ち上げ


刃をゆっくりと傾ける


樹海を歩く間に生じていた僅かな歪みが消えている


刃先も綺麗に整えられていた


「……直ったんですね。」


「この程度ならな。」


ジクロは何でもないように答える


マースはもう一度刃を見る


「随分綺麗になりました。」


「ついでに研いどいた。」


「ありがとうございます。」


「だから礼は一回でいい。」


「すみません。」


「謝れとも言ってない。」


「……はい。」


ジクロが呆れたようにマースを見る


マースは気まずそうにナイフへ視線を戻した


「お前。」


「はい。」


「これ、自分で手入れしてたのか?」


「はい。」


「誰かに教わったか?」


「軍で基本的なことだけ教わりました。」


「そうか。」


ジクロが手を出す


マースはナイフを渡した


刃を眺め


柄を確認し


指先で何か所か触れる


「悪くない。」


「そうですか?」


「ああ。」


ナイフを返す


「結構使ってるだろ。」


「はい。」


「その割には錆も少ない。」


「使った後は、出来るだけ汚れを落とすようにしていました。」


「それでいい。」


ジクロは頷く


「道具なんてのはな。」


「使った後にちゃんと手入れする。」


「まずはそれだ。」


近くにあった砥石を取る


「研ぐ時は?」


「教わった通りに。」


「見せてみろ。」


「はい。」


マースは砥石を受け取った


水を付け


刃を当てる


数度動かしたところで


「止めろ。」


ジクロが言った


マースの手が止まる


「何か間違っていますか?」


「間違ってるってほどじゃない。」


ジクロがナイフを取る


「基本は出来てる。」


刃を傾ける


「ただ、ここ。」


指先で示す


「少し削り過ぎてる。」


マースが覗き込む


「……分かりません。」


「だろうな。」


「すみません。」


「だから謝るな。」


ジクロは小さく息を吐いた


「ほら。」


刃を横から見せる


「刃先だけ見るな。」


「はい。」


「全体を見る。」


「はい。」


「砥石へ当てる角度も毎回変えるな。」


ジクロが刃を砥石へ当てる


数度


ゆっくり動かす


「力も入れすぎるな。」


「はい。」


「やってみろ。」


再びマースへ渡す


言われた通り


刃を当てる


「寝かせすぎ。」


少し起こす


「そこ。」


ゆっくり動かす


「力入れすぎ。」


「はい。」


少し抜く


「そう。」


何度か繰り返す


やがて


ジクロが頷いた


「まあ、そんなもんだ。」


マースは砥石から刃を離した


「難しいですね。」


「当たり前だ。」


ジクロは鼻を鳴らす


「一度聞いただけで出来るなら苦労せん。」


「そうですね。」


マースは素直に頷く


ジクロはそんなマースを見て


少しだけ笑った


「でも。」


マースが顔を上げる


「お前は元々、手入れがいい。」


「そうですか?」


「ああ。」


「無茶な使い方をした跡はあるが。」


「……樹海でしたから。」


「それは仕方ない。」


ジクロはナイフを指差す


「それでも使った後に手を掛けてるのは分かる。」


「今まで通りやってりゃいい。」


「分からんことを無理にやるな。」


「下手に削るくらいなら、そのままの方がましなこともある。」


マースは頷いた


「覚えておきます。」


「そうしろ。」


ナイフを鞘へ戻す


マースは腰へ収めた


「では。」


「ああ。」


一礼して


工房を出ようとする


「おい。」


ジクロに呼び止められた


マースが振り返る


「はい?」


ジクロは何も言わず


工房の奥へ入っていった


何かを探しているらしい


金属の触れ合う音がする


しばらくして戻ってきた


手には


一本のナイフがあった


鞘に収められている


ジクロはそれを差し出した


「持っていけ。」


マースは目を瞬いた


「……自分にですか?」


「他に誰がいる。」


「いや、でも。」


受け取らない


「何故、自分に?」


「別に。」


「別にと言われましても。」


「一本くらい増えても困らんだろ。」


「それはそうですが。」


マースは差し出されたナイフを見る


「いただく理由がありません。」


「俺がやるって言ってる。」


ジクロは面倒そうに答えた


「それで十分だ。」


「ですが。」


「いらんのか?」


マースが黙る


もう一度


ナイフを見る


少し迷った


「……欲しいです。」


「なら持っていけ。」


ジクロが押し付ける


マースは両手で受け取った


「ありがとうございます。」


「おう。」


鞘から抜く


飾り気のないナイフだった


刃に派手な模様はない


柄にも目立った装飾はない


一本の鋼を鍛え


道具として仕上げた


ただそれだけ


マースは柄を握る


一度


握り直す


妙に手へ馴染んだ


重すぎない


軽すぎない


刃先を前へ向けても


手首に妙な負担が掛からない


今まで使っていたナイフとは


明らかに違う


だが


何が違うのかと聞かれても


今のマースには上手く説明出来なかった


「どうだ。」


ジクロが尋ねる


「……いいですね。」


「そうか。」


「とても使いやすそうです。」


「使ってみなきゃ分からん。」


「それもそうですね。」


刃を傾ける


そこで


マースは小さなものに気付いた


刃元


そこに刻印がある


「これは?」


指先で示す


ジクロが見る


「ああ。」


小さな生き物が刻まれていた


胴


頭


そして何本もの脚


「……烏賊ですか?」


「そうだ。」


マースは刻印を見る


そしてジクロを見る


「何か意味があるんですか?」


「ない。」


即答だった


「……ないんですか?」


「烏賊が好きなんだ。」


「そうですか……。」


マースはもう一度刻印を見る


どう見ても烏賊だった


それ以上の意味は


本当に無いらしい


「俺が打った物には、それを入れてる。」


ジクロが言う


「そうなんですね。」


「嫌なら削ってもいいぞ。」


「いえ。」


マースは首を横へ振った


「このままがいいです。」


「そうか。」


鞘へ戻す


古い一本と


新しい一本


二本になった


「大切に使います。」


マースが言う


ジクロは眉を寄せた


「大切にするのはいい。」


「はい。」


「でも使え。」


「え?」


「道具なんだからな。」


ジクロはマースの腰にある古いナイフを指差す


「そいつと同じだ。」


「使って。」


「汚れたら拭いて。」


「切れなくなったら研ぐ。」


「それでいい。」


マースは手の中の鞘を見る


「……はい。」


「しまい込んどく方が勿体ない。」


「分かりました。」


今度はしっかりと頷いた


「使わせてもらいます。」


「おう。」


マースはナイフを腰へ収める


まだ


彼には分からなかった


鋼の選び方も


火の見方も


槌の振り方も


刃物の形を決める理由も


何一つ知らない


ただ


手にした時


使いやすいと思った


よく出来た道具だと思った


それだけだった


いつか自分が


一本の鋼を前にして


同じものを作ろうとする日が来ることなど


この時のマースは


まだ考えてもいなかった


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