盤上の戦い
「チェック。」
メローペが静かに駒を動かした。
向かいに座っていたアデルハイドの表情が固まる。
「!」
盤上を見つめる。
右を見る。
左を見る。
もう一度、自分の駒を見る。
「……。」
メローペは頬杖をついたまま、その様子を眺めていた。
「アデルハイド。」
「はい。」
「チェックよ。」
「分かっております。」
「そう。」
「…………。」
しばらくして。
アデルハイドは恐る恐る駒を動かした。
メローペも一つ駒を動かす。
「チェックメイト。」
「…………。」
「ここのルークとナイトの攻防が肝だったわね。」
「ぐむむむむ……。」
アデルハイドは盤面を睨みつけた。
穴が開きそうなほど睨んだところで、盤上の結果は変わらない。
対するメローペは満足そうに椅子から立ち上がった。
「面白かったわ。」
「殿下!」
「何?」
「もう一局!」
「今度ね。」
「もう一局だけお願いします!」
「今度。」
「一局だけ!」
「アデルハイド。」
「はい!」
「今度ね。」
メローペは笑顔でその場を離れた。
アデルハイドは伸ばした手を震わせる。
「殿くわぁ……。」
少し離れた場所で、その様子を見ていたオーレリアが苦笑した。
「あの子が、あんなにハマるとは思わなかったわ。」
「弱いけど。」
「弱いな。」
「ものすごく弱いわよね。」
「本人の前で言ってやるな。」
マルグリットは小さく息を吐いた。
「先日も殿下に代わって一局だけのつもりだったのだが。」
「五局打つことになった。」
「五局?」
「ああ。」
「戦績は?」
「私の五勝だ。」
オーレリアは呆れた顔をする。
「一回くらい負けてあげればいいのに。」
「それは出来ん。」
マルグリットは真顔だった。
「アデルハイドに失礼だ。」
「……そう。」
オーレリアは苦笑した。
◇
彼女たちが夢中になっている遊びは、チェスと呼ばれていた。
王国にも似たような対戦型の盤上遊戯は存在する。
しかし、駒の種類や動かし方、王手を巡る決まりなどが少しずつ異なっていた。
始まりは、ナストロンドの住民たちが対局している姿を見かけたことだった。
何をしているのかと尋ね。
ルールを教えてもらい。
やがてチェス盤を借りて、自分たちでも遊ぶようになった。
いつの間にか、それは生き残った者たちの間でちょっとした流行になっていた。
王女も。
近衛も。
不能部隊も。
暇な時間になると、それぞれの仲間内で盤を挟んでいる。
その中でも、誰より熱中したのがアデルハイドだった。
ただし。
熱意と実力は、必ずしも比例しない。
「カナ!」
農作業から戻ってきたカナ・マイテンを見つけたアデルハイドが立ち上がる。
「はい?」
「一局、付き合ってくれ!」
「いいですよ。」
アデルハイドは嬉々として盤の前に座った。
「今日は調子がいい。」
「そうですか。」
「さっき殿下には負けたが、あれはルークへの警戒が足りなかった。」
「なるほど。」
「同じ失敗は二度としない。」
「はい。」
駒が並べられる。
アデルハイドは盤面を見渡した。
「では。」
「お願いします。」
対局が始まった。
アデルハイドが駒を動かす。
カナも動かす。
再びアデルハイド。
カナが駒へ手を伸ばした。
「チェックメイトです。」
「…………。」
アデルハイドは盤面を見た。
カナを見る。
もう一度、盤面を見る。
「……え?」
「チェックメイトです。」
「いや。」
アデルハイドは盤面を指差した。
「まだ二回しか動かしてないぞ?」
「はい。」
「始まったばかりだぞ?」
「はい。」
「そんなことある!?」
「ありましたね。」
「…………。」
少し離れた場所で見ていたオーレリアが目を瞬かせる。
「……今の、カナが何か凄いことをしたの?」
マルグリットは盤面を見つめた。
「いや。」
「アデルハイドが凄いことをした。」
「そっちなの?」
「自ら最短で負けに行った。」
アデルハイドが勢いよく顔を上げる。
「もう一局!」
「いいですよ。」
「今のは油断した!」
「はい。」
「次は本気だ!」
カナは少し首を傾げた。
「先ほども本気だったのでは?」
「今度はもっと本気だ!」
「分かりました。」
再び駒が並べられた。
◇
一方。
不能部隊の男たちも、すっかりチェスを覚えていた。
マースとアン・ピノーが盤を挟んで向かい合っている。
「面白いゲームだけどさ。」
マースが駒を動かす。
「俺は、あそこまで熱くなれないな。」
アンも頷いた。
「ああ。」
「俺たちは気ままに打つくらいが合ってるわ。」
「そうだね。」
マースは盤へ視線を戻す。
駒を一つ動かした。
「チェック。」
「あ!」
アンが身を乗り出す。
「待った!」
「待ったはなし。」
「今の無し!」
「なし。」
「一回だけ!」
「駄目。」
「ちっ!」
アンは頭を掻いた。
「分かったよ。」
気ままに打つ。
少なくとも本人たちは、そう思っていた。
◇
チェスが広まるにつれ、それぞれの中で誰が強いのかも分かってきた。
女性陣では、ジゼル、マルグリット、オーレリア。
男性陣ではマース。
そして意外なことに、タッカーがかなり強かった。
「なあ。」
ある日、タッカーが男たちへ言った。
「そろそろ決めようぜ。」
マースが嫌そうな顔をする。
「何を?」
「俺たちの中で、誰が一番強いか。」
「別に誰が強くてもいいじゃないか。」
「馬鹿野郎。」
タッカーは真顔で言った。
「誰が一番か決めるのは、男のロマンだ。」
「知らないよ、そんなロマン。」
「お前も男だろ。」
「男だけど、別に一番じゃなくていい。」
「俺は決めたい。」
「じゃあ一人で決めなよ。」
「一人じゃ決められねぇだろ!」
マースは深いため息を吐いた。
「……分かったよ。」
「やればいいんだろ。」
「よし!」
そうして男たちの間では、ちょっとした勝負が始まった。
勝った。
負けた。
もう一局。
今のは悔しい。
次は負けない。
最初は誰が一番でもいいと言っていたマースも、負ければ普通に悔しがった。
そして。
何度か対局を重ねた結果。
強かったのは、やはりマースとタッカーだった。
「ほら見ろ。」
タッカーが胸を張る。
「やっぱり決めると面白ぇだろ。」
「まだ決まってないよ。」
「じゃあ決めようぜ。」
「またやるの?」
「当然だ。」
「はぁ……。」
◇
一方、女性陣でも似たようなことは起きていた。
こちらではジゼル、マルグリット、オーレリアが頭一つ抜けている。
ただし。
その中にアデルハイドは含まれていなかった。
「チェックメイト。」
「ぐぬぬぬ……。」
ジゼルの前で、アデルハイドが盤を睨みつける。
「もう一局!」
「嫌よ。」
「何故だ!」
「これで三局目でしょう。」
「次は勝つ!」
「その台詞、三回聞いたわ。」
「なら四回目も聞いてくれ!」
「嫌。」
その頃には。
誰が強い。
誰が弱い。
そんな話も、それぞれの仲間内で飛び交うようになっていた。
そして、もう一つ。
共通して知られるようになったことがある。
ナストロンドの住民は、強い。
中でも。
カナ・マイテンは、滅茶苦茶に強かった。
◇
「チェックメイトです。」
「…………。」
タッカーは盤面を見つめた。
カナが静かに告げる。
「終わりですね。」
「……もう一局。」
「いいですよ。」
再戦。
しばらくして。
「チェックメイトです。」
「…………もう一局。」
「いいですよ。」
さらに再戦。
「チェックメイトです。」
「…………。」
隣で見ていたマースがタッカーの肩に手を置いた。
「もうやめよう。」
「まだだ。」
「帰ろう。」
「まだ一回も勝ってねぇ。」
「だから帰ろう。」
「次はいける。」
「さっきも聞いたよ。」
「次は本当にいける。」
「アデルハイドみたいになってるよ。」
「一緒にすんな!」
カナが首を傾げる。
「アデルハイドさんも、同じようなことをおっしゃっていましたよ。」
「ほら。」
「ほらじゃねぇ!」
◇
そして。
別の日。
「チェックメイトです。」
マルグリットは盤面を見つめた。
「……参った。」
「ありがとうございました。」
カナが頭を下げる。
オーレリアが横から盤面を覗き込んだ。
「マルグリットが負けた。」
「負けることくらいある。」
「カナ、強いわね。」
「昔からよく打っていましたから。」
「私もいい?」
「もちろんです。」
しばらくして。
「チェックメイトです。」
「…………。」
オーレリアは頬杖をついた。
「もう一局。」
「いいですよ。」
さらに。
「チェックメイトです。」
「…………もう一局。」
マルグリットが横から口を挟む。
「アデルハイドのことを言えなくなってきたぞ。」
「うるさいわね。」
◇
結局。
女性陣で強いジゼルも。
マルグリットも。
オーレリアも。
男性陣で強いマースも。
タッカーも。
それぞれカナに挑み。
ことごとく返り討ちにされた。
近衛で誰が強いのか。
不能部隊で誰が強いのか。
そんな話はあっても。
ナストロンドまで含めれば。
誰が一番強いのか。
その答えだけは、あっさりと決まっていた。
カナ・マイテン。
今のところ、誰も彼女に勝てていない。
そして今日も。
「カナ!」
「はい?」
アデルハイドがチェス盤を抱えて立っている。
「もう一局!」
カナは少し考えた。
「いいですよ。」
「よし!」
二人が盤を挟む。
駒を並べる。
アデルハイドは真剣な顔で盤面を睨んだ。
「今度こそ勝つ。」
「頑張ってください。」
「さっきの私とは違うぞ。」
「そうですか。」
「さっきは二手だった。」
「はい。」
アデルハイドは胸を張った。
「今度は四手はもたせる。」
カナは少し黙った。
「……目標が低くないですか?」
「まずは倍だ!」
「なるほど。」
納得していいのか分からない目標を掲げ。
アデルハイドは今日も、盤上の戦いへ挑んでいった。




