手術助手②
「ミークニー、腹部の筋肉構造については、後でしっかり勉強すればいいでしょう。」
エンロはメスを手に取りながら話し始めた。
「牛の場合、腹横筋、腹直筋、そして斜腹筋があります。」
「斜腹筋は内腹斜筋と外腹斜筋に分かれます。」
「子牛は親牛と比べ筋肉が薄いため、切る時は特に注意してください。」
ミークニーは真剣な表情で頷く。
「はい。」
「あと、筋肉構造は牛ごと、いや、人間を含めたすべての動物で少しずつ違います。」
「教科書と同じ身体は存在しないと思ってください。」
「わかりました。」
「では、切りますよ。」
エンロは静かに皮膚へメスを入れた。
切開部から鮮血が滲み出す。
「ガーゼをお願いします。」
「はい。」
ミークニーは慌てることなくガーゼを渡し、滲み出る血液を静かに拭き取る。
エンロは小さく笑った。
「流石に衛生兵ですね。」
「落ち着いています。」
その一言だけで、ミークニーの肩から少し力が抜けた。
皮膚の下にある筋肉が姿を現す。
「ここが外腹斜筋です。」
エンロは筋肉を指先で示した。
「思ったより薄いでしょう?」
「はい。」
「時間がある時に屠畜場へ行って、親牛と比較してみるといいでしょう。」
「筋肉の厚みだけでも、ずいぶん印象が変わります。」
筋肉を慎重に切り分けていく。
やがて、薄く半透明の膜が現れた。
「これが腹膜です。」
「腹腔と外界を隔てている膜ですね。」
エンロは腹膜を鉗子でつまみ上げる。
「ここをいきなり大きく切ってはいけません。」
「腹膜のすぐ下には腸があります。」
「勢いよく切れば、腸まで傷付けてしまいます。」
そう言うと、腹膜へ小さく鋏を入れた。
わずかな切れ目ができる。
そこへ指先を差し込み、慎重に腹膜を持ち上げながら隙間を広げていく。
「この状態なら安心です。」
「ここから鋏で切り開きます。」
静かに腹膜が開かれる。
その奥から、淡い桃色をした腸が姿を現した。
「ほら、これが腸です。」
「簡単に言えば、小腸と大腸があります。」
エンロは一か所を指差した。
「そして、ここが牛など反芻獣に特徴的な円盤結腸です。」
「人間にはありません。」
ミークニーは食い入るように見つめる。
「綺麗な色ですね……。」
「ええ。」
「この淡いピンク色。」
「これが健康な腸の色です。」
「しっかり覚えておいてください。」
「はい。」
エンロはゆっくりと腸を腹腔の外へ引き出していく。
思っていた以上に長い。
目の前へ次々と広げられていく腸に、ミークニーは思わず息を呑んだ。
「すごい……。」
エンロは一本一本、指先で状態を確認していく。
「どこでしょうね……。」
穏やかな口調のまま探っていた手が、不意に止まった。
「ああ。」
「ありましたね。」
ミークニーも身を乗り出す。
そこだけ明らかに色が違っていた。
健康な腸の淡いピンク色ではない。
赤紫色に変色し、血が滞っていることが一目で分かる。
「わかりますね。」
「明らかに色が変わっています。」
「ここが捻じれている部分です。」
「血流が止まり、鬱血しています。」
ミークニーは無言で頷いた。
教科書の挿絵ではない。
目の前にある現実だった。
エンロは慎重に腸を持ち替える。
「では、整復します。」
ゆっくりと捻じれを戻していく。
「……よっと。」
その瞬間だった。
赤紫色だった腸が、ゆっくりと色を変え始める。
暗い色が薄れ、少しずつ健康な淡いピンク色へ戻っていく。
「おお……!」
思わずミークニーの口から声が漏れた。
「凄い……。」
エンロは静かに頷く。
「この子は運が良かった。」
「発見が遅れていれば、もっとどす黒い色になっていたでしょう。」
「そして、捻じれを戻しても色は戻りません。」
「その場合は、壊死した腸を切除しなければなりません。」
ミークニーは真剣な表情で聞き入る。
「ですが、家畜は人間のような術後管理が難しい動物です。」
「人間なら安静にしてくださいと言えば、その意味を理解し、可能な限り従ってくれます。」
「もちろん、痛みで動いてしまうことはあります。」
「ですが、家畜はその意味を理解できません。」
「縫合した傷口を気にして動き回れば、それだけ傷口に負担が掛かります。」
「そのため、そこまで進行した症例では、救命は非常に難しくなります。」
ミークニーは改めて子牛を見つめた。
あと数時間。
それだけで、この子は助からなかったかもしれない。
「ですが、この子は大丈夫です。」
「血流も戻っています。」
「では、閉腹して縫合しましょう。」
腹膜を丁寧に縫い合わせる。
続いて筋肉。
さらに皮下組織。
最後に皮膚。
一層ずつ確実に縫合していく。
ミークニーは器具を渡しながら、その一つひとつの手技を目に焼き付けていた。
やがて最後の結紮を終え、エンロは静かに息を吐く。
手袋を外し、ミークニーへ目を向けた。
「終了です。」
手術室に張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「どうでしたか。」
「初めての助手は。」
ミークニーは深く頭を下げた。
「とても勉強になりました。」
「ありがとうございます。」
エンロは穏やかに笑う。
「どういたしまして。」
「手術は無事に終わりました。」
「ですが、治療はまだ終わっていません。」
「術後管理も治療の一部です。」
「この子が元気に歩けるようになるまでが、私たちの仕事ですよ。」
ミークニーはその言葉を胸に刻むように頷いた。
「はい!」
その返事には、衛生兵としてではなく、一人の医師として歩み始めた者の決意が込められていた。




