手術助手①
情報センターで医学書を閉じたミークニーは、小さく息を吐いた。
人体の構造。
薬の作用。
感染症。
どれも王国では学ぶことのできない知識ばかりだった。
「ああ、ここにいましたか。」
聞き慣れた声に顔を上げる。
「エンロ。」
「ミークニー。あなたは衛生兵でしたね。」
「はい。」
「実際に手術の経験はありますか?」
ミークニーは首を横に振った。
「ありません。私が経験したことがあるのは、少し大きな傷の縫合や骨接ぎ程度です。」
「なるほど。」
エンロは少し考え、静かに口を開く。
「これから子牛の開腹手術を行います。」
「助手をしてみませんか。」
思いもよらない申し出だった。
「私が、ですか?」
「ええ。」
「執刀は私が行います。あなたが無理だと感じたら、途中でオルヴィに代わってもらいます。」
「いい経験になると思いますよ。」
ミークニーは少しだけ考えた。
王国では見ることすら出来ない手術。
迷う理由はなかった。
「なら、やってみたいです。」
「では、こちらへ。」
二人は情報センターを出て、家畜医療区画へ向かった。
手術室の前でエンロは立ち止まる。
壁際の棚を開け、一式の衣服を取り出した。
「まずはこちらに着替えてください。」
ミークニーは服を受け取る。
「これは?」
「手術衣です。」
上下とも白を基調とした簡素な服だった。
帽子と口元を覆う布まで用意されている。
「普段着では手術室へ入れません。」
「手術室は清潔区域です。」
「外から汚れや病原体を持ち込まないためですね。」
「なるほど。」
更衣室で着替えを済ませる。
鏡に映る自分の姿は、まるで別人だった。
手術室へ入ると、一頭の子牛が静かに横たわっていた。
周囲には見慣れない器具が整然と並べられている。
「では始めましょう。」
エンロは流し台へ向かった。
「まずは手指および腕の洗浄・消毒をやってもらいます。」
「清潔な水、石鹸やアルコールでしっかり綺麗にしてください。」
「理由は知っていますよね?」
ミークニーは少し考えて答える。
「黴菌による感染を予防するためでしょうか?」
「その通りです。」
エンロは頷いた。
「黴菌、すなわち細菌、そしてウイルス感染を予防するためですね。」
「細菌とウイルスの違いは、後で調べるといいでしょう。」
「はい。」
「なので、手指だけではありません。」
「これから切る術野周辺、そして使用する器具もしっかり消毒します。」
エンロは子牛の腹部を丁寧に洗浄し、消毒液を塗布していく。
続いて器具を一つひとつ確認しながら並べ始めた。
その無駄のない動きを、ミークニーは食い入るように見つめる。
「ミークニー。」
「はい。」
「手術とは、切る技術ではありません。」
「感染を起こさせない技術です。」
「感染が起これば、どれほど手術が成功しても患者は命を落とします。」
「だからこそ、手術は始まる前の準備が最も重要なのです。」
その言葉は、医学書のどこにも書かれていなかった。
「わかりました。」
「消毒と細菌・ウイルスの違いについてもしっかり勉強します。」
「その意気です。」
ミークニーは前から気になっていたことを尋ねた。
「エンロ、二ついいですか?」
「はい。なんでしょう?」
「あなたは動物の医者でもあるのですか?」
「あと、私たちのように、この子も医療設備で治すことは出来ないのですか?」
エンロは少しだけ寂しそうに笑った。
「ああ、私は基本、人間の医者です。」
「ですが、このように動物の治療も行います。」
「医学の基本は、人も動物も大きく変わりませんから。」
少し間を置き、もう一つの問いに答える。
「ここの施設は、もうほとんど機能しません。」
「あなた方が命を拾えたのは、運が良かったと思っていてください。」
「……わかりました。」
ミークニーは短く頷いた。
ナストロンドは奇跡を起こす場所ではない。
残された技術を、細々と受け継いでいる場所なのだ。
エンロは子牛の腹部へ手を添える。
「では、これから手術を行います。」
「この子牛は腸捻転。」
「つまり腸が捻じれて便の通過ができなくなった状態です。」
「これから開腹して、腸の捻じれを治します。」
ミークニーは静かに息を呑んだ。
王国では見ることのできない本格的な開腹手術。
自分に出来ることは少ない。
だからこそ、一つでも多く学ぼうと、エンロの手元へ視線を向けた。




