使い
夜。
屋根の上。
風が抜ける。
低い音。
街の灯り。
遠くの喧騒。
そのすべてが、下にある。
ユーリイは立っていた。
動かない。
だが、止まっているわけではない。
見ている。
聞いている。
測っている。
昼の王都とは違う。
声は少ない。
代わりに、足音がよく響く。
馬車の車輪。
閉まる戸。
遠くで笑う女の声。
眠った街にも、動きはある。
むしろ、夜の方が隠しきれないものもある。
ユーリイは視線を落とさない。
見下ろしているようで、見下ろしていない。
通りの角。
灯りの切れ目。
屋根から屋根へ渡れる距離。
隠れる場所。
落ちれば音が出る場所。
逃げるならどこか。
追うならどこか。
全部、頭の中に線として残っていく。
その時。
気配。
背後。
「……そこ」
短く言う。
気配は動かない。
「見えてる」
影が揺れる。
音もなく、一人の女が降りる。
軽い。
着地の音がない。
余分な動きもない。
使い。
王宮から来た女。
ユーリイは振り返らない。
「またお前か」
「ええ」
女は短く答える。
声に感情はない。
だが、完全に消しているわけでもない。
「姫の命か」
「半分は」
ユーリイはわずかに目を細める。
「半分?」
「もう半分は、私の判断です」
風が流れる。
沈黙。
ユーリイはようやく振り返る。
「勝手に動くのか」
「許される範囲では」
女は平然と言う。
「それを越えれば、叱られます」
「叱られて済むのか」
「済む範囲で動いています」
答えが早い。
迷いがない。
ユーリイは女を見る。
姿勢。
呼吸。
視線。
戦える。
それなりに。
だが、単なる兵ではない。
立ち方が違う。
戦うためだけではない。
見て、測って、選ぶ者の立ち方だった。
「お前も、森にいたな」
女の目が、ほんのわずかに止まる。
本当にわずかに。
普通なら気づかない。
「ええ」
認める。
「王女殿下の側にいました」
「覚えていない」
「でしょうね」
女は淡々と言う。
「あなたは、運ぶ方でしたから」
それだけで十分だった。
ユーリイは何も言わない。
女も続けない。
森。
王女。
行軍。
背負われる者。
背負う者。
置いてきた者。
戻ってきた者。
言葉にすれば、薄くなる。
だから誰も言わない。
「今回の件」
女が切り替える。
「表向きは、貴族の不正調査です」
「裏は」
「まだ見えません」
「見えてる範囲でいい」
女は頷く。
「金が動いています」
「人も動いています」
「ただし、帳簿にはない」
「よくある話だ」
「ええ」
女は否定しない。
「ですが、動き方が妙です」
「どこが」
「流れが細い」
ユーリイは黙る。
「大きな金ではありません」
「少額を分けて、何度も」
「隠すためか」
「それなら粗すぎます」
「では」
「試しているように見えます」
ユーリイの目がわずかに動く。
「誰を」
「分かりません」
女は即答する。
「ですが、少なくとも姫は見られています」
沈黙。
下の通りを馬車が過ぎる。
車輪の音が遠ざかる。
「姫はどこまで知っている」
ユーリイが問う。
女はすぐには答えない。
「表は、ほぼ」
「裏は」
「一部だけ」
「隠しているのか」
「守っているつもりの者もいます」
「利用している者も?」
「いるでしょう」
ユーリイは小さく息を吐く。
「面倒だな」
「あなた向きです」
「褒めているのか」
「評価しています」
どこかで聞いたような言い方だった。
ユーリイはわずかに眉を動かす。
女は気づいたが、何も言わない。
「なぜ俺だ」
ユーリイが聞く。
「適任だからです」
「それだけか」
女は沈黙する。
ほんの少し。
「それだけではありません」
初めて、声の温度が変わった。
薄く。
だが確かに。
「姫は、あなたを覚えています」
ユーリイは答えない。
「私も覚えています」
風が止まったように感じた。
「森で、誰が何をしたか」
「誰が前にいたか」
「誰が戻ったか」
「誰が戻らなかったか」
女の声は乱れない。
だが、軽くもない。
「だから選びました」
ユーリイは女を見る。
「姫のためか」
「姫のためです」
即答。
それから。
「そして、任務のためです」
「順番は」
女は答えない。
答えないことが、答えだった。
ユーリイも、それ以上は聞かない。
「俺に何をさせたい」
「見てきてください」
「何を」
「姫がまだ見えていないものを」
女は一歩だけ近づく。
距離は詰めすぎない。
屋根の上で、一歩の意味は大きい。
「証拠でなくても構いません」
「気配でも」
「違和感でも」
「あなたが“おかしい”と思ったものを」
「報告すればいいのか」
「はい」
「信じるのか」
女は言う。
「信じます」
迷いがない。
「姫も?」
「信じるでしょう」
「随分だな」
「あなたは、あの森から帰ってきた」
女は静かに言う。
「それだけで、十分です」
ユーリイは目を伏せない。
だが、何も返さない。
その言葉を肯定しない。
否定もしない。
「一つ確認する」
ユーリイが言う。
「この件、公爵が絡んでいるか」
女の表情は変わらない。
「分かりません」
「可能性は」
「あります」
「侯爵は」
「使われている側か、使っているつもりの側か」
「まだ判断できません」
「王女殿下は」
「動くつもりです」
「止めないのか」
「止められません」
即答。
それから少しだけ間を置く。
「止める気もありません」
ユーリイは女を見る。
「危険だぞ」
「承知しています」
「それでも?」
「それでも」
女の声は硬い。
「姫は、選ばされる側ではありません」
「選ぶ方です」
その言葉だけは、感情があった。
忠誠。
怒り。
誇り。
そのどれもが、少しずつ混ざっている。
ユーリイはしばらく黙る。
夜風が、二人の間を抜ける。
下の灯りが揺れる。
「分かった」
ユーリイは短く言う。
「動く」
女は小さく頷く。
「資料はこれです」
小さな筒を差し出す。
ユーリイは受け取る。
指先は触れない。
「明朝までに読んでください」
「急だな」
「相手も動いています」
「いつ」
「明日」
「何が」
「会合です」
「場所は」
「まだ変わる可能性があります」
ユーリイは筒を見る。
「誘いか」
「罠かもしれません」
「どちらでも同じだ」
「でしょうね」
女はほんのわずかに口元を動かす。
「だから、あなたを選びました」
気配が薄くなる。
去るつもりだ。
ユーリイが言う。
「名前は」
女の動きが止まる。
「まだ聞いていない」
女は少しだけ考える。
「名乗る必要はありません」
「不便だ」
「では」
一拍。
「ミラと」
「本名か」
「呼び名です」
「そうか」
「ええ」
ミラは一歩下がる。
影に溶ける。
消える直前、声だけが残る。
「姫を、お願いします」
ユーリイは答えない。
答えないまま、夜を見る。
王宮の方角。
遠い灯り。
手の中の筒。
軽い。
だが、重い。
「……面倒だな」
小さく呟く。
それでも。
捨てはしない。
夜風だけが残った。




