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遺伝子の小さな箱庭  作者: 妙義豊


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月の輝く夜

情報センターの一角で、クレール・ドロワ少尉は古い戦史を眺めていた。


隣にはセリナ・ロスリー曹長がいる。


ただし、セリナの方はあまり集中しているようには見えなかった。


画面には、見知らぬ地名と軍団名、補給線を示す線、いくつもの矢印が浮かんでいる。


その矢印の一つが伸びるたび、クエスの声が静かに解説を加えた。


『第三軍は東部街道を進軍しましたが、補給拠点の確保に失敗しました。結果として前線部隊は三日後に食糧不足へ陥り、騎兵部隊も飼料不足により行動不能となりました。』


クレールは腕を組んだまま、じっと画面を見つめていた。


「兵力では勝っている。」


『はい。総兵力では第三軍が優勢でした。』


「だが、勝てなかった。」


『補給線の伸長、輜重隊の遅延、敵軍による橋梁破壊。複数の要因が重なっています。』


「耳が痛いな。」


クレールは小さく呟いた。


「ロスリー。」


「はいっす。」


セリナは反射的に返事をする。


ただ、声はどこか上滑りしていた。


クレールは視線を画面から外さずに尋ねる。


「何を見ているか分かるか?」


「ええと……戦争っすよね?」


「戦争だ。」


「はぁ。」


「我々が知らない戦争史を、クエスから教えてもらっていた。」


セリナは画面を見上げる。


見慣れない文字。


見慣れない地図。


見慣れない国。


それでも、矢印が前線で止まり、補給線が途切れ、軍が崩れていく様子だけは分かった。


分かりたくないほどに。


クレールが続ける。


「第三区域大陸間戦争。マスタード公戦争。どちらも興味深いが、特にマスタード公戦争は、中世から近代へ移る過程で戦い方が大きく変わった戦争らしい。」


「マスタード公……辛そうな名前っすね。」


「そこに反応するな。」


クレールは少しだけ苦笑した。


「兵站、輜重、導線、情報。勇敢な突撃だけでは戦争には勝てない。」


セリナは黙っていた。


クレールは画面を指差す。


「見ろ。この軍は一度は敵陣を突破している。だが補給が続かず、包囲されて崩壊した。」


「……。」


「そしてこちらは、兵力で劣っていた側だ。前線を押し込まれているように見えるが、退路と物資の流れは最後まで維持している。」


「……。」


「ロスリー?」


セリナは返事をしなかった。


クレールはようやく隣を見る。


セリナは画面を見ていなかった。


目は開いている。


だが、焦点が少し遠い。


「ロスリー。」


「え?」


セリナはびくりと肩を震わせる。


「はっ。失礼しました。」


「疲れているのか?」


「いえ。大丈夫っす。」


そう答える声が、大丈夫ではない。


クレールはしばらくセリナを見つめた。


だが、それ以上は問い詰めなかった。


画面に戻る。


「クエス、ここまででいい。」


『承知しました。』


戦史の画面が静かに消える。


情報センターの白い空間に、少しだけ沈黙が落ちた。


クレールは椅子の背にもたれ、軽く息を吐く。


それから、ふと小さく鼻歌を口ずさんだ。


「ふんふん、ふふふーん♪」


セリナが顔を上げる。


「聞いたことあるっす。」


「そうか。」


「なんて曲っすか?」


クレールは少し考えるように目を細めた。


「作者不詳の童謡、『月の輝く夜』。」


「月の輝く夜……。」


セリナは小さく繰り返した。


その響きに、どこか遠いものを探すような顔になる。


クレールは微かに笑った。


「正確には違うらしい。」


「え?」


「カラメル・デ・プーディング作、『池に映る蒼き月』と言うそうだ。」


「プーディング?」


「二千年以上前の、天才と称された作曲家らしい。」


クレールはそこで一度、言葉を選ぶように間を置いた。


「不能部た……いや、失礼だったな。」


「第893小隊のナークニー伍長が教えてくれた。」


セリナは少しだけ目を丸くした。


「ナークニー伍長が?」


「ああ。」


「彼は情報センターで料理の資料を調べていたらしいが、鼻歌からクエスに曲名を指摘されたそうだ。」


「それで、曲の本来の名と作者が分かった。」


「へぇ……。」


セリナは曖昧に笑った。


しかし、その笑みはすぐに消えた。


「月の輝く夜……。」


もう一度、そう呟く。


クレールは何も言わない。


セリナの指が膝の上で小さく動いた。


何かを掴もうとして、掴めないような動きだった。


「ナターシャも……。」


声がかすれる。


「こういう曲、好きだったかもしれないっすね。」


クレールは静かにセリナを見た。


セリナは慌てて笑おうとした。


「いや、分かんないっすけど。」


「なんか、あいつ、意外とこういうの聞いてそうで。」


「真面目な顔して。」


「でも、自分がからかったら怒るんすよ。」


「そうか。」


「はい。」


「……。」


「……。」


笑顔は続かなかった。


セリナは俯いた。


拳を握る。


震えている。


「自分……。」


それ以上が出ない。


クレールは椅子から立ち上がった。


ゆっくりと、セリナの正面ではなく、隣に立つ。


責めるためではない。


逃げ場を塞ぐためでもない。


ただ、そこにいるために。


「オルロワ上等兵の件は、すまなかった。」


セリナの肩が跳ねた。


「違うっす。」


即座に首を振る。


「少尉殿が謝ることじゃ……。」


「いや。」


クレールは静かに遮った。


「謝るべきだ。」


「すまなかった。」


セリナは唇を噛んだ。


「でも、自分が……。」


「ロスリー。」


クレールの声は厳しくはなかった。


だが、逃げを許さない響きがあった。


「今件の責任は全て私にある。」


セリナが顔を上げる。


「命令を受け、状況を判断し、部隊を動かしたのは私だ。」


「お前に全てを背負わせるべきではなかった。」


「私は指揮官だった。」


「だから、責任は私が負う。」


「でも……。」


セリナの声が崩れる。


「でも、自分、あいつの背中を追って……。」


「追ってたんす。」


「ずっと。」


「ナターシャは、前を走ってて。」


「自分は、追いかけて。」


「いつか並べると思って……。」


言葉が切れる。


喉が詰まる。


「なのに。」


「なのに、自分は……。」


「自分だけ……。」


涙が落ちた。


一度落ちると、止まらなかった。


セリナは慌てて拭おうとする。


だが、手がうまく動かない。


「すみません。」


「すみません、少尉殿。」


「自分……。」


「泣くつもりなんて……。」


クレールは何も言わなかった。


ただ、セリナの背中へ静かに腕を回した。


そっと抱き寄せる。


セリナは最初、身体を硬くした。


だが、すぐに力が抜けた。


クレールはもう片方の手で、震える背中をゆっくりとさする。


強くはない。


慰めの言葉もない。


ただ、何度も。


何度も。


セリナは顔を伏せたまま、嗚咽を漏らした。


「自分……。」


「あいつに……。」


「まだ、言いたいこと……。」


「たくさん……。」


クレールは黙って聞いていた。


セリナの声にならない言葉も、途切れ途切れの息も、全部そのまま受け止めるように。


やがて、セリナの嗚咽が少しずつ小さくなった。


それでもクレールは、背中に置いた手を離さなかった。


「ロスリー。」


「……はい。」


「忘れるなとは言わない。」


「忘れてはいけないとも言わない。」


「ただ。」


「一人で背負うな。」


セリナはクレールの服を掴んだ。


「……はい。」


それは、立ち直った声ではなかった。


だが、さっきまでの空っぽな声でもなかった。


クレールは小さく頷く。


そして、もう一度だけ、あの旋律を口ずさんだ。


「ふんふん、ふふふーん♪」


セリナは泣き腫らした目のまま、少しだけ笑った。


「……少尉殿。」


「音、少し外れてるっす。」


クレールは一瞬だけ固まる。


それから、小さく息を吐いた。


「そうか。」


「ナークニー伍長には、正確に歌える耳があるらしい。」


「自分には、まだ分からないっすね。」


「それでいい。」


クレールは静かに言った。


「今は、それでいい。」


セリナはもう一度、ほんの少しだけ笑った。


その笑みは弱々しかった。


けれど、完全に折れたものではなかった。


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