池に映る蒼き月
朝食を終えたタッカーは、いつものように情報センターへ向かった。
彼は今日も新しいレシピの獲得に夢中になり、気に入った料理、食べてみたいと思ったパン、新しい調理技法について熱心にメモを取っていた。
鼻歌交じりの作業だった。
「ふんふん、ふふふーん♪」
カリカリカリ……
どこか懐かしい旋律。
それに合わせるようにペン先が走る。
本人は意識もしていない。
子供の頃から自然と口をついて出る歌だった。
「ふふふーん♪」
『プーディングの曲ですね。』
突然聞こえたクエスの声に、タッカーはペンを止めた。
「……プーディング?」
『カラメル・デ・プーディング。八つの変奏曲、第三番です。』
「知らねぇな。」
『一般的には「池に映る蒼き月」という題名の方が知られています。』
「へぇ。」
タッカーは頭を掻いた。
「昔、三番目の母ちゃんが俺を背負って、よく口ずさんでた曲だ。」
『あなたが口ずさんでいたのは、この曲のサビにあたる部分です。』
『最も印象的な旋律ですね。』
『特に二小節目で一音だけ変調するのが、プーディング作品の特徴でもあります。』
タッカーは少し考えながら、もう一度歌ってみる。
「ふんふん、ふふふーん♪」
『その一音です。』
『普通の方は無意識に省略したり、歌いやすい音へ置き換えてしまいます。』
『しかし、タッカーは正確に歌っていました。』
『耳が良いのでしょう。』
少し照れ臭そうに笑う。
「クエス、お前も語るねぇ。」
「そのプーディングって奴、好きなんだな?」
『私は人工知能です。』
『好き嫌いという感情はありません。』
『ただ、質問に対して記録を提示しているだけです。』
「分かった分かった。」
タッカーは苦笑した。
「で、そのプーディングって奴は有名なのか?」
『三十年ほどの生涯で、およそ千三百曲を作曲したとされています。』
『それぞれの作品は非常に個性的で、数々の音楽的発明を成し遂げたことから、後世には天才を意味する「ゲニ」の愛称で呼ばれました。』
『そのため、「ゲニ・デ・プーディング」と呼ばれることもあります。』
「千三百?」
思わずペンを握ったまま固まる。
「そんなに作れんのか?」
『記録上は、そのようになっています。』
「動画もあるのか?」
『ございます。』
「見せてくれ。」
『表示します。』
空中に文字が浮かび上がった。
**検索結果 12,573,538件**
タッカーは目を丸くした。
「……へ?」
『演奏映像、編曲、楽譜、教育資料、研究資料、演奏会記録、論文、伝記資料などを含みます。』
「多すぎるだろ……。」
思わず漏れた本音に、クエスは静かに答えた。
『条件を指定すれば絞り込めます。』
「…………。」
タッカーはしばらく検索結果を眺めていた。
「今日はやめとく。」
『承知しました。』
「料理の動画だけでも見る時間足りねぇしな。」
そう言って再びペンを走らせた。
だが、さっきより少しだけ鼻歌が丁寧になっていた。
「ふんふん、ふふふーん♪」
『先ほどより正確です。』
「そうかい。」
「先生がいいからな。」
『ありがとうございます。』
『なお、私は教師ではありません。』
「細かいことはいいんだよ。」
タッカーは笑いながら、再び料理の資料へ目を向けた。
それから数日後。
庭で落ち葉を集めながら、タッカーはまた鼻歌を歌っていた。
「ふんふん、ふふふーん♪」
その時だった。
「ナークニー伍長。」
聞き慣れた声に、タッカーは反射的に姿勢を正す。
「はっ!」
そこに立っていたのは、クレール・ドロワ少尉だった。
クレールは少し首を傾げる。
「月の輝く夜かい?」
タッカーは得意そうな顔になる。
「いえ!」
「これはプーディング作、『池に映る蒼き月』であります!」
クレールの表情が止まった。
「……。」
「どうかしましたか?」
クレールは少し考えてから口を開く。
「その特徴的な旋律。」
「そして二小節目だけ変わる一音。」
「間違いなく、私たちが『月の輝く夜』と呼んでいる曲だ。」
タッカーは目を丸くした。
「え?」
「だが、その曲は作者不詳だったはずだ。」
「故郷の音楽教師からそう教わった。」
「士官学校の同期も、間違いなくその曲をそう呼んでいた。」
タッカーは腕を組み、しばらく考える。
「じゃあ……。」
「今、この曲の作者と昔の名前が分かったってことですかね?」
クレールは静かに頷いた。
「……そういうことになるな。」
「長い年月の中で、作者や曲名が失われても。」
「曲そのものが残ることは、決して珍しいことではない。」
タッカーは空を見上げた。
遠い昔。
三番目の母ちゃんが背中で歌ってくれた子守歌。
きっと母ちゃんたちも、そのまた母ちゃんたちから教わった歌なのだろう。
そして今も、どこかの家では子供を背負った母親が、この歌を口ずさんでいるのかもしれない。
自然と、もう一度口ずさむ。
「ふんふん、ふふふーん♪」
クレールは小さく微笑んだ。




