不帰の樹海㊽
背後で、銃声がした。
一発。
それきりだった。
ロスリーは足を止めかけた。
だが、止まれない。
背中には、クレールがいる。
呼吸は浅い。
生きている。
ただ、それだけだった。
「止まるな!」
ユーリイが低く叫ぶ。
誰も返事をしない。
返事をする余裕もない。
ぬかるんだ地面を踏みしめ、木の根を越え、折れた枝をかき分ける。
誰かが転ぶ。
誰かが起こす。
また進む。
「追って……来てるか」
タッカーが息を切らしながら言った。
ユーリイは耳を澄ませる。
雨上がりの森。
葉から落ちる水音。
荒い呼吸。
それ以外は、何もない。
「……来てない」
「追えないんだ」
ミークニーが言った。
その声に、誰も反応しなかった。
意味は分かっていた。
分かっているから、誰も聞き返さなかった。
ロスリーは唇を噛む。
奥歯が鳴るほど強く。
前を見る。
前だけを見る。
振り返れば、歩けなくなる。
クレールの血が、背中越しにじわりと染みてくる。
「少尉は」
「生きてる」
ミークニーが短く答える。
「それだけ確認できれば十分だ。歩け」
「……はい」
返事は掠れていた。
メローペは列の中央にいた。
マルグリットが横につき、オーレリアが後方を警戒している。
アデルハイト、リュシエンヌ、エリス。
ジゼルは泥で汚れた鞄を胸に抱えていた。
その中には、まだノートがある。
マチアドが肩を貸し、イヴェットが周囲へ目を走らせる。
誰もが疲れていた。
誰もが限界だった。
だが、王女だけは倒れさせない。
それだけで、まだ形を保っていた。
「シーゲル」
ミークニーが小さく呼ぶ。
「前方、少し開けている」
ユーリイは頷いた。
木々の密度が変わっている。
風の抜け方が違う。
森が途切れる。
そう感じた。
「警戒しろ」
声は小さい。
だが、全員に届いた。
一歩。
また一歩。
湿った土を踏む音が続く。
そして。
樹海が、途切れた。
そこは、不自然なほど広い空間だった。
木々が円を描くように途切れ、中央に白灰色の巨大な影が立っている。
壁。
いや、建物。
だが、城ではない。
砦でもない。
神殿でもない。
石を積んだものではなかった。
木材でもない。
継ぎ目の少ない滑らかな外壁。
ところどころに蔦が這い、黒ずんだ筋が雨水の跡のように垂れている。
巨大な虫の巣を、そのまま固めたような形。
曲線が重なり、穴のような窓があり、歪んだ塔のようなものが空へ伸びている。
誰も見たことのない建築だった。
「……何だ、あれ」
アンが呟いた。
ジゼルが息を呑む。
疲労で濁っていた目に、ほんの一瞬だけ光が戻った。
「建築様式が……違う」
「今は後だ」
マルグリットが言った。
厳しい声だった。
だが、その声にも震えがある。
ユーリイはゆっくり前へ出た。
短剣を構える。
敵の気配はない。
獣の気配もない。
ただ、静かだった。
静かすぎた。
「入口らしきものがある」
ミューンが指差す。
壁の一部が裂けたように開いていた。
扉はない。
ただ、暗い口を開けている。
「罠か?」
イツォーが斧を握り直す。
「罠でも行くしかない」
タッカーが言った。
誰も否定しない。
森へ戻る力は、もうなかった。
ユーリイは一歩踏み出した。
その瞬間。
耳の奥で、低い音が鳴った。
音というより、圧。
身体の内側を撫でられるような不快感。
「……っ」
膝から力が抜けた。
ユーリイは踏みとどまる。
短剣を地面に突き立てる。
「何だ……?」
メローペがよろめく。
マルグリットが支えようとして、同じように膝をついた。
オーレリアが剣を抜く。
だが、腕が上がらない。
ロスリーの足が止まった。
「少尉……」
背中の重みを支えきれず、膝をつく。
クレールを庇うように倒れ込む。
ミークニーが手を伸ばした。
届かない。
視界が白く滲む。
「毒……では、ない」
それだけ言って、彼も地面に崩れた。
タッカー。
マース。
アン。
イツォー。
一人、また一人と倒れていく。
ユーリイは最後まで立とうとした。
前を見る。
白灰色の建物。
暗い入口。
そこへ辿り着かなければならない。
「……まだ」
指に力を込める。
だが、身体は動かなかった。
遠くで誰かの声がした気がする。
聞いたことのない声。
それが敵なのか、味方なのかも分からない。
ユーリイは短剣を握ったまま、泥の上に倒れた。
視界の端で、メローペの銀の髪が揺れている。
手を伸ばそうとした。
届かない。
世界が暗くなる。
最後に見えたのは。
見たこともない、白灰色の天井ではなく。
まだ、空だった。
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