七人
「私はあなたに選択を強制しているわけではありません」
手島の声の温度が、初めて少しだけ変わった。
「ただ、教えに来た。私のときは誰も教えてくれなかった。何が起きるのか。なぜ起きるのか。どういう選択肢があるのか。1晩で決めろと言われて、何も分からないまま選んだ」
誰も教えてくれなかった。
その一言だけ、手島の声から精確さが消えた。5年前の夜の温度が漏れていた。
「知っていたら違う選択ができたかもしれない。知らないまま選ぶのは——それは選択ではない。だから私はここにいる」
手島は言い終えて、口を閉じた。それ以上語る意思がないことが姿勢に出ていた。
◇
真奈の声が聞こえた。
ねえ、そこに誰かい——
通話の最後。深夜2時過ぎ。真奈のアパートで物音がして、真奈が振り向いて、暗がりに向かって言った言葉。そこで通話が途切れた。あの夜から今日まで、何度再生しただろう。頭の中で。真奈の声を。あの途切れ方を。
そこに誰かい。
怨霊だと思った。消された少女の怨念が真奈のもとに来たのだと思った。超常的な存在が暗がりの中から現れて真奈を連れ去ったのだと。そう考えることで、説明のつかない恐怖に形を与えていた。
「真奈にも」
声が震えた。自分で制御できなかった。喉の筋肉が言うことを聞かなかった。
「真奈にも会ったんですか」
「あなたの親友のことは——」
手島の声が、初めて揺れた。声ではない。声の底にある何かが。
「あの女は参加者じゃなかった。サイトに登録していない。カウントダウンの対象ではなかった」
知っている。真奈はサイトに登録すらしていなかった。
「撮影していた。あなたのマンションの前で。望遠で窓を撮っていたとき——あの女が、こっちを見た」
真奈。マンションの近くで変な人を見たと言っていた。カメラを持っていたと。あの電話で。
「見つけたときは——仕方なかった」
手島の声から精確さが消えた。5年間の消す係の報告とは違う声だった。言い訳の声だった。
「あの女は写真を撮っている人間を見た。見ただけだ。それだけのことだった。でも——見られたら、続けられない」
手島だった。カメラを持って写真を撮っている現場を真奈に見られた。見られたから——排除した。選択を提示する相手ではなかった。消す係のルールの外で、手島が自分の判断で消した。
真奈は電話の途中だった。私と話していた。手島が真奈のアパートに来たとき、真奈はスマートフォンを耳に当てて、私の声を聞いていた。私も真奈の声を聞いていた。通話はつながっていた。真奈が「ねえ、そこに誰かい——」と言ったとき、スピーカーの向こうにいたのは私だった。私は聞いていた。真奈が誰かに呼びかける声を。
あれは手島に向けた言葉だった。暗がりの中に立っている人間に向けた、最後の言葉。
真奈は答えを聞けなかった。
通話タイマーを見ていた。0:47、0:48。数字が進むのを見ていた。声が止まった後も切らなかった。切ったら確定すると思った。バッテリー残量を確認した。73%。充電器がデスクの上にある。朝まで通話を開いておける。開いておけば真奈の声がまた聞こえるかもしれない。そんなことを考えていた。考えている間にも通話タイマーは進んでいた。
切らなくても確定していた。
通話の向こうから音が聞こえた。真奈のアパートの換気扇が回っている。低い振動音。誰もいない部屋で換気扇だけが回り続けている。人間が消えた後も家電は止まらなかった。
視界がゆがんだ。目の焦点がぼやけていた。手島の姿が揺れている。台所との境目に立っている人間の輪郭が、蛍光灯の光の中で像を失いかけている。
「あなたは——後悔していますか」
手島は数秒間、何も言わなかった。
答えるつもりがないのだと分かった。答える権利がないと言っているようだった。
私はデスクの脚に手をついたまま、床の上にうずくまっている。見上げている。手島を。真奈を排除した人間を。
正志の言葉が蘇った。
あの子は今も誰かを使って……。
正志は形を間違えたが構造を正しく見ていた。怨霊ではなくシステムだった。消す係という役割が、人間を使っていた。13日目直前に活動を再開したプレイヤー、制作者失踪後のサイト更新——全部、手島だった。
全部つながった。つながったことが、救いにならなかった。
手島は立ったまま待っていた。私が処理を終えるのを。急かさなかった。
「サイトの運営も引き継いだ。夜だけ。参加者のログを確認して、写真を送って、応答する。午後10時から深夜2時の4時間」
手島の手のひらが目に入った。キーボードを打つ手だった。爪は短く切り揃えてあって、指先にタコはない。昼はコードを書いて、夜はサイトを管理する。同じ手で。
夜10時から深夜2時。あの稼働時間。運営がいると思った。運営ではなかった。手島だった。5年間、夜の4時間だけサイトに入って、参加者を監視していた。
「このサイトは——」
声を出した。掠れていた。
「誰が作ったんですか。このシステムを」
「分かりません」
手島の答えは短かった。
「和彦さんが遺留品をデータ化してサイトを作った。それは分かっている。カウントダウンのシステムがいつ動き始めたのか、なぜ動いているのか——私には分かりません」
分からない。全部を知っている人間の顔ではなかった。自分に見えている範囲だけを精確に語る人間の顔だった。
「美澄の——瀬川美澄の怨念は」
「分かりません」
同じ答えだった。
「写真を撮っているのは私です。カウントダウンを管理しているのも人間です。消す係は人間のシステムです。ただ——」
手島は一瞬だけ言葉を探した。
「サイトが壊れないのは、私には説明できない」
サイトが壊れない。サーバーを落としても復元する。ドメインを停止しても別のURLで蘇る。そういうことなのか。それとも別の意味なのか。手島はそれ以上説明しなかった。
◇
USB-Bの暗号テキストが頭の中で組み上がった。「このゲームには3つのエンドがある」。和彦は3つ目を知っていた。知っていて、暗号テキストに埋め込んだ。そして自分は3つ目を選ばずに消えた。
「和彦さんは——」
「最初の参加者だった。消す係がいない時代の。和彦は完成させる前に消えた。美澄が直接消した」
空だったUSB-C。和彦がそこに入れるはずだったもの。書き切る前に消えた。だから空のまま段ボールの底にあった。
覚えても、記録しても、サイトは壊れない。3つ目だけが残っている。
「私が消す係を選んだら」
声が出た。自分の声ではないような声だった。
「何をするんですか。具体的に」
「写真を撮る。送る。13日目に選択を提示する。手島さんがやってきたことを、私がやるんですか」
「そうです。対象者はサイトが指定する。次が誰かは分からない」
手島は一瞬だけ間を置いた。
「サイトにログインすると、指示が出ている。場所と時間。ターゲットはサイトが教えてくれる。私はそれに従うだけだ」
「あのバスターミナルの写真も」
口が動いていた。深夜バスで逃げた翌朝に届いた9枚目の写真。逃走先の、誰にも教えていない場所の写真。
手島は頷いた。
「あの夜は違った。いつもなら13日目の前にサイトに説明の手順が出る。あの夜は——バスターミナルの写真を撮れ、と出ていた」
手島の声は変わらなかった。事実を述べている声だった。
「なぜあの場所だと分かったんですか」
「分からない。サイトに表示されていた。私はそこに行って撮った」
手島は自分の手を見た。キーボードを打つ手。カメラを持つ手。
「サイトの指示がどこから来るかは知らない。知る必要もなかった」
誰にも言っていなかった。深夜バスのチケットを買ったことも、行き先も。それなのにサイトは——あれは——私がどこにいるか知っていた。
渉の顔が浮かんだ。渉は登録していない。安全だ。ただし——渉の周囲の人間が登録しない保証はない。私が書いた記事を読んで。
消す係を選んだら、次の対象者のドアの前に立つのは私だ。海斗の前に手島が立ったように。
手島が玄関に向かった。靴を履く動作は静かだった。腕時計を見た。無意識の動作だった。曜日を確認するような、月曜の朝が近いことを身体が覚えているような仕草だった。
「選ぶ時間はない。明日の夜明けまでだ」
振り返らずに言った。
「夜が明けるまでに私に連絡をしなければ、13日目のルールが適用される」
連絡先を聞いていなかった。そう思った瞬間、手島がポケットから名刺サイズの紙片を出した。電話番号がひとつだけ印刷されている。台所のカウンターの上に置いた。
「この番号にかけてください。つながらなければ、もう間に合わない」
手島がドアを開けた。廊下の蛍光灯の光が差し込んだ。
「手島さん」
呼び止めていた。
手島が振り返った。ドアの枠の中に立っている。廊下の光を背負って。顔に影が落ちている。
「3つ以外の選択肢は、ないんですか」
手島は少し間を置いた。
「……知らない」
「ひとつだけ。部屋の中から撮られた写真がありました。PCのWebカメラの画角で。あれも手島さんが撮ったんですか」
数秒、何も言わなかった。それまでの精確な応答とは違う間だった。
「……知らない」
手島の声が変わった。
「その写真は知らない。私は外からしか撮っていない。部屋には入っていない」
手島の目が揺れた。真奈のときとは違う揺れだった。あのときは後悔だった。今のは——恐怖だった。
手島がドアの向こうに消えた。
ドアが閉まった。錠の音はしなかった。閉まっただけだった。足音が廊下を遠ざかっていった。革靴の硬い音。等間隔の足音。急がない。振り返らない。
足音が聞こえなくなった。
部屋の中にひとりだった。
エアコンの送風音。窓の外から車の音がかすかに聞こえる。深夜の車。どこかへ向かう車。台所の蛇口から水滴が落ちた。ステンレスに当たる小さな音。手島の声はもうない。革靴の足音もない。部屋の中に手島がいた痕跡は何もなかった。台所のカウンターの上の紙片を除いて。
電話番号がひとつ。白い紙に黒い数字が印刷されている。
スマートフォンを握っていた。画面はまだ10枚目の写真を表示している。自分の部屋の玄関ドア。撮影時刻は16分前ではなくなっていた。もう1時間以上前の写真になっていた。手島がこのドアの外に立って、カメラを構えて、シャッターを押した。それから16分後に写真を送った。それから私がドアを開けた。それから手島が部屋に入った。それから——。
立ち上がろうとして、手のひらが床についた。冷たい。手のひらの温度が床に奪われていく。部屋の温度は変わっていないはずだった。エアコンは動いている。送風口から空気が出ている。
夜明けまでの時間を数えた。
11月。日の出は6時過ぎ。今は午前1時を回っている。5時間もない。
5時間で決める。
消す側に回るか。それとも——。
7人が同じ選択を迫られた。7人全員が消えることを選んだ。選んだのか。それとも選べなかったのか。消す側になることを選べなかったのか。手島は「いません」と言った。消す側を選んだ人間はいないと。
手島だけが選んだ。5年前に。
真奈の声が聞こえた。ごはん行こうよ。後でね、と私は答えた。後には来なかった。
渉の声が聞こえた。終わりましたね。うん、と私は答えた。終わっていなかった。最初から終わっていなかった。
手島の声が聞こえた。誰も教えてくれなかった。
3つの声が部屋の中を漂っている。換気扇の低い唸りと一緒に。蛇口の水滴がステンレスを打つ音と一緒に。
紙片の上の電話番号を、暗い部屋の中から見ていた。
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