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あの子の給食袋  作者: お寿司
第四幕 真実

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消す係

ドアの向こうに、誰かがいた。


ベッドの上から動けなかった。スマートフォンの画面がまだ光っている。10枚目の写真。自分の部屋の玄関ドア。16分前に撮影されたドア。


エアコンの送風音。壁時計の秒針。それ以外の音がない。


気配だけがある。


音ではない。呼吸ではない。廊下の蛍光灯の下に、誰かが立っている。ドア1枚をはさんで、5メートル先に。


スマートフォンを握ったままベッドから降りた。シーツがずれて肌にまとわりつく。腕の産毛が立っていた。暖房の風は出ているのに、空気が肌に貼りついている。


ドアに向かった。


理由は分からない。記者として7年間、知らないことから逃げなかった。知らないことのほうが怖かった。ドアの向こうに何がいるか分からないことのほうが、知ることよりも怖かった。


たぶん、そういう人間なのだろうと思った。


チェーンはかかっている。錠も閉めたままだった。ドアスコープの前で指がこわばった。覗いたら見える。ドアの向こうにいるものの姿が。


覗いた。


廊下の蛍光灯が白い。安っぽい光が通路を照らしている。


男が立っていた。


ドアの正面ではなく、少しだけ横にずれた位置に。壁に寄りかかることもなく、ただ立っている。両手は体の横に下ろしている。


年齢は分からなかった。30代後半か40代の初めか。ドアスコープの魚眼レンズでゆがんだ顔が見えた。眼の下に濃いくまがある。感情のない顔だった。怒っているのでも、笑っているのでもない。ただそこにいる。


男が口を開いた。ドアスコープ越しに唇が動くのが見えた。


「久野木さん」


声が聞こえた。低い声だった。丁寧語だった。急がない声。ドア越しに、はっきりと。


「入ってもいいですか。本当の解法を教えに来ました」


解法。その言葉が耳に引っかかった。13日間探し続けた言葉。止める方法。終わらせる方法。記事を書いた。3000人に読ませた。それでも止まらなかった。


ドアノブに手をかけた。チェーンは外していない。


かぎを開けた。ドアを引いた。チェーンが張った。5センチほどの隙間から廊下の光が差し込んだ。蛍光灯の光と、消毒液のような廊下の匂い。


隙間から男の顔が見えた。ドアスコープの魚眼より正確に。


老けていた。30代後半に見えたが、もっと若いのかもしれない。顔の造りより目の下のくまが年齢を押し上げている。寝ていない顔。長い間寝ていない人間の顔。ただ、シャツの襟はアイロンがかかっていて、靴は革靴だった。昼間は別の場所で、別の顔で働いている人間の身なりだった。


「どなたですか」


「手島といいます」


名前を聞いても何も引っかからなかった。取材メモにも、参加者ログにも、渉から聞いた名前の中にも、その名前はなかった。


「何の用ですか」


「さっき写真を送りました」


手が止まった。


「あなたのカメラロールに追加した写真。ドアの写真です。あれを撮ったのは私です」


チェーンの隙間から男の目を見た。嘘をついている目には見えなかった。嘘をつく理由がある人間の目にも見えなかった。事実を述べている。それだけの目だった。


記者の判断だった。7年間の取材経験が、この人間は話す、と告げていた。話す人間の前でチェーンをかけていたら何も聞けない。


チェーンを外した。


ドアを開けた。


手島が部屋に入った。玄関で靴を脱ぐとき、動きに迷いがなかった。慣れている。誰かの部屋に入ることに慣れている。


リビングに招き入れようとした。手島は廊下の先、台所との境目あたりで立ち止まった。


「ここでいい」


座らなかった。壁にも寄りかからなかった。立ったまま、部屋の中を見ていた。何かを確認するように。


 ◇


「単刀直入に言います」


手島の声は低く、抑揚がなかった。事実を述べるために設計された声だった。


「あなたのカメラロールに入っている写真。最初の1枚から、今夜のドアの写真まで。すべて私が撮影しました」


言葉の意味を理解するのに時間がかかった。


すべて。最初の1枚から。13日間。あの写真の全部を。


頭の中で処理しようとした。写真を撮っていたのは——今まで私が追ってきた存在は——怨霊ではなく。


「人間が撮ったんですか」


「はい」


「あなたが」


「はい」


手島は頷いた。一度だけ。


「カメラは何を」


自分の口から出た言葉に驚いた。恐怖よりも確認が先に出る。職業病だった。


「ソニーのα7C II。レンズは70-200mmのF4と、50mmの単焦点です」


焦点距離。


画角が狭まっていたのは望遠レンズだった。Exifから消されていた焦点距離の正体が、今、目の前の人間の口から出た。


あの写真を撮ったのは機械ではなかった。超常の存在でもなかった。ソニーのα7C IIを持った人間だった。


誰かが撮った感じがする。


最初の写真がカメラロールに現れたとき、直感的に思ったこと。深追いしなかった。直感は最初から正しかった。


あのブログが蘇った。「バックドアの存在を確認しました」「13日目に何が起きるか、ログから推測できます」。あの人はサーバーのアクセスログから、運営者以外の誰かが夜間にログインしていることに気づいていた。手島のアクセス痕跡を見つけて、このゲームの正体に辿り着いた。そして逃げた。逃げても消えた。


真奈の声が蘇った。


最近誰かに見られてる気がする。


冗談ではなかった。真奈は本当に見られていた。手島に。


10枚の写真の向こうに、ファインダーを覗く目があった。シャッターを押す指があった。


手島は何も言わずに待っていた。私が処理を終えるのを。


「あの記事を読みました」


手島が言った。


「分析は正確です。ひとつだけ間違えている。これは超常現象ではない」


超常現象ではない。


13日間、取り憑かれてきたものの正体が人間だった。消された少女の怨念ではなかった。カメラを持った人間が、毎日少しずつ近づいて、写真を撮って、カメラロールに送っていた。


デスクの角に手をついた。いつの間にか後退していた。ベッドとデスクの間の狭い空間で、体の重心が定まらない。


 ◇


「なぜ」


声が出た。掠れていた。


「なぜ私の写真を撮っていたんですか」


手島は答えなかった。正確には、答え方を選んでいた。数秒の沈黙があった。言葉を削っている沈黙だった。


「私は5年前にあなたと同じ場所にいました」


同じ場所。


「5年前にあのサイトを見つけた。掲示板に登録した。13日間のカウントダウンが始まった。私はあなたと同じことをした。パズルを解いた。ログを追った。写真が来た」


手島の声は変わらなかった。5年前の恐怖を語っているはずなのに、声の温度が一定だった。何度も語ったことがある言葉のように。


「13日目の前の夜に、ある人が来た。今の私のように。ドアの前に立って、本当のルールを教えた」


瀬川のアパートの管理人が言っていた。夜中にインターホンが鳴ることがあった、と。モニターに誰も映らなかった、と。手島だ。手島か、手島の前の誰かが、深夜にあのアパートのドアの前に立っていた。


手島は一瞬だけ言葉を切った。


「その人は、自分の前にも誰かがいたと言っていた。何人かは知らない。和彦——サイトを作った人間が最初だったことだけは分かっている」


系譜。手島ひとりではなかった。和彦から始まって、何人かを経て、手島に至った。


「本当のルール」


「このサイトには3つのエンドがある」


USB-Bの暗号テキスト。sakuraで復号したテキストファイルの冒頭に記されていた1文。「このゲームには3つのエンドがある」。和彦が暗号化して隠したファイルの中に、答えが最初から書かれていた。


答えが目の前にいる人間の口から出ている。


「archive/deep/という階層がありますよね」


手島が頷いた。


「あれは消す係の管理領域です。ターゲットの情報、写真の記録、引き継ぎの手順。表のサイトからはリンクされていない。12日目以降にしかアクセスできない」


海斗もDay 12に深層URLへアクセスしていた。渉のスプレッドシートに残っていたログ。あの日、海斗はサイトの裏側を見て——翌日、消えた。


「ひとつは解くこと。パズルを解いてサイトをクリアする。あなたが最初に試みた方法です」


「止まらなかった」


「止まりません。パズルはサイトの表層です。解いても構造は変わらない」


「ふたつめは」


「覚えること。消された人間を記憶する。記録する。あなたが記事でやったことです」


記事。3000を超えるリアクション。光を当てた。読まれた。共有された。それでも写真が来た。


「それも止まらない」


「サイトが壊れない限り、ルールは消えない。記事で注目を集めても、サイトは残る。サイトが残る限り、参加者は生まれる。参加者が生まれる限り、カウントダウンは続く」


「なぜ13日なんですか」


手島は数秒黙った。


「私にも分からない。そういうルールだと教えられた。13日間」


13日間。美澄のテキストに書いてあった数字と同じだ。美澄は13日間閉じ込められていた。このゲームの13日は——あの13日の再現だ。


「3つ目は」


手島は答えなかった。2秒。3秒。


「消すこと」


短い言葉だった。


「消す側に回ること。写真を撮る。撮れば自動的に送られる。13日目に、対象者の前に立つ。選ばせる。私があなたにしているように。消す側を選ばなければ——あなたが消えます」


瀬川和彦のノートが浮かんだ。制作者のアパートの段ボールの中にあった走り書き。「このゲームを終わらせる方法はふたつある。でも3つ目がある」。3つ目。和彦も知っていた。


「あなたは最初のふたつを試した」


手島が言った。


「パズルを解いた。記事を書いて記録した。あなたの分析は正確で、記事の影響力も大きかった。それでも写真が来た。理由はそこにあります」


「理由」


「解くことと覚えることは、このサイトの中で閉じています。パズルの解法も、記事による記録も、サイト自体には触れていない。サイトを止めるのは3つ目だけです」


手島は言葉を切った。


「消す係が途絶えたら——選択を伝える人間がいなくなる。それでもカウントダウンは止まらない。13日目を迎えた参加者は、ただ消えます」


前にもいた。手島の前にも。和彦の後にも。何人もの人間が消す係を引き継いで、選択を提示し続けてきた。途絶えたら、消えるだけ。


「13日目の夜に来て、夜が明けるまでに答えを聞く。そう教えられた」


手島は初めて言葉を選ぶように間を置いた。


「本来なら、もう消えているはずだ」


 ◇


渉の声が頭の中で鳴った。


消える前の日、弟が誰かと会っていたような気がする。


渉はそう言った。弟の部屋にコップがふたつ出ていた。ひとり暮らしの人間のテーブルに。証拠はなかった。「気のせいでは」と流された言葉。気のせいではなかった。


「海斗にも会ったんですか」


口が勝手に動いていた。


手島は沈黙した。答えなかった。顔の表情は変わらなかった。ただ、目の下のくまが一段深くなったように見えた。蛍光灯の角度が変わっただけかもしれない。


沈黙が答えだった。


「海斗さんは何を選んだんですか」


手島は答えなかった。


膝が折れた。膝小僧がフローリングに当たる硬い感触。見上げると手島が立っている。玄関の近くに。台所との境目に。立ったまま。


「何人」


「7人です。5年間で」


7人。5年間。年にひとりか二人。サイトに登録する人間がいるたびに、手島がカメラを持って近づいて、写真を撮って、13日目の夜に選択を提示する。


「全員に会いに行ったんですか」


「全員です」


「全員に同じことを言ったんですか。3つのエンドがあると」


「はい」


「それで——選んだ人はいたんですか。消す側を」


「いません」


その答えに、呼吸が止まった。


7人。全員が消す側を選ばなかった。全員が消えた。手島は7回、同じ言葉を言って、7回、同じ結果を見た。


手島の目を見た。感情のない目。感情を消した目ではなくて、感情を使い切った目だった。

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