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あの子の給食袋  作者: お寿司
第三幕 崩壊

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36/44

逃げる場所がない

渉が来たのは午後8時だった。


LINEから23分後にインターホンが鳴った。ドアを開けると、渉はパーカーのフードをかぶっていた。駅から歩いてきたのだろう。11月の夜の冷気がフードの表面に張りついている。


「入ってください」


渉は靴を脱いだ。スニーカーの踵が擦り減っている。左足のほうが減りが深い。人の靴をそんなふうに見ている自分に気がついて、デスクのほうに歩いた。


MacBookの画面を開くと、美澄のテキストが表示されている。テキストエディタのウィンドウをフルスクリーンにして、フォントサイズを一段上げた。渉が後ろからでも読めるように。


「美澄のテキストです。USB-Bのパスワードを復号したら出てきた。本人が書いたものです」


渉がデスクの横に立ち、画面に目を落とした。


読み始めた。


部屋が静かになる。エアコンの送風音だけが回っている。渉のパーカーからかすかに夜の外の匂いがする。排気ガスと、湿った空気と、コンクリートの冷たさが混じった匂い。


渉の目が画面の上を動いている。スクロールが必要な箇所で渉の手が伸びてきた。トラックパッドに指が触れる前に、こちらが先にスクロールした。渉は何も言わなかった。


テキストは長い。ひらがなの多い、短い文の連なり。8歳の子供が書いた言葉。離れの6畳の中で、連絡帳の余白に暗号を使って書いた言葉。


渉が読んでいる間、台所に行ってケトルに水を入れた。スイッチを押す。コップをふたつ出した。ひとつは自分のマグカップで、もうひとつはどこかのイベントでもらったノベルティのマグカップだった。持ち手のプリントが半分はげている。


湯を沸かしながら、渉の背中を見ていた。パーカーの肩が動かない。呼吸の幅が浅くなっている。画面のどのあたりを読んでいるのか、スクロールの速度で分かった。


ケトルのスイッチが切れる。コーヒーを2杯入れて、渉の横にカップを置いた。渉は気がつかなかった。


7分ほどで、渉がトラックパッドから手を離した。


画面の最終行が表示されている。「にいちゃんがこれを読んでくれたら、わたしはここにいたことになります」。


渉が椅子の背に手をかけている。指が白くなるほど力が入っていた。


「——すみません」


渉の声が変だった。手順を外している。昨日の電話で聞いた声から、さらに一段階、何かがはがれている。


「少し」


それだけ言って、渉は顔を伏せた。


デスクの上のコーヒーが湯気を上げている。2杯分の湯気が、エアコンの風に流されて同じ方向に揺れている。


待った。待つことしかできなかった。


渉が顔を上げたとき、目が赤くなっていた。泣いてはいない。泣く手前の、感情が表面に出る直前の充血で、渉の顔にそういう色を見るのは初めてだった。


「8歳ですよ」


渉が言った。正志と同じ数字だった。正志は「8つだった」と言い、渉は「8歳ですよ」と言う。


「弟と同じだ。消えるんです。人が。消えて、誰も止めなくて、理由だけが残る」


渉の声は震えていない。震えないことのほうが異様だった。感情が声帯を通過するときに、渉の中の手順がまだ機能していて、震えを抑えている。


「僕は弟を取り戻したかったんじゃない」


渉がコーヒーのカップに目を落とした。持ち手のプリントがはげたマグカップを見ている。


「理由だけ知りたかった。なぜ消えたのか。それだけ分かれば——分かっても弟は戻らないんですが」


言い切った。言い切ってから、渉は自分の言葉を聞いたような顔をした。正志が「守ろうとしたんだ」と言った後の表情に似ていた。自分が何を言ったのか、自分で確認している顔。


「海斗が消える前、一度だけ電話をくれた。いつもLINEの人間が電話をかけてきた。それだけで変だと気がつくべきだった」


渉の指がカップの持ち手に触れている。持ち上げなかった。


「何て言ってましたか」


「変なサイトに登録しちゃったかもしれない、って。笑ってた。笑いながら言ってた。僕は——ちゃんと聞かなかった。仕事中だったから」


渉の声から分析の色が完全に消えていた。データではない何かがデスクの上に置かれている。数字で囲えない、手順で処理できない何か。


それ以上は聞かなかった。渉もそれ以上は言わない。


コーヒーが冷めていく時間だけが流れた。


「久野木さん」


渉が立ち上がった。


「気をつけてください。今日と明日。特に明日」


「渉さんも」


「僕は対象外です。登録していないから。でも——」


渉が玄関に向かい、靴を履いた。踵の減ったスニーカー。


「弟は13日目の朝に消えた。朝です。夜じゃない。朝起きたらもういなかった。部屋に何も残っていなかった。何もです。服も、スマートフォンも、充電器も、靴も」


渉がドアノブに手をかけた。


「靴がなかった。それが一番おかしかった。どこかに出かけたなら靴がない。でも靴以外の全部もなかった。出かけたんじゃなくて、最初からいなかったみたいに」


渉の手がドアノブの上で止まった。


「もうひとつ。これはデータじゃないです。確信もない。ただ——消える前の日、弟が誰かと会っていたような気がする」


「誰かと?」


「分かりません。弟の部屋に行ったとき、テーブルにコップがふたつ出ていた。弟はひとり暮らしです。洗い物を溜めるタイプでもなかった。でも消えた後のことで頭がいっぱいで、それ以上考えなかった」


渉の声に手順がなかった。データを扱うときの精度とは違う、記憶の底を手で探っているような声だった。


「今になって、あれが気になっている。弟は最後の日に、誰かを部屋に上げていた。それが何を意味するのか——まだ分かりません」


渉がドアを開けると、廊下の蛍光灯の光が差し込んだ。


「明日の朝、連絡します。返事がなかったら——」


渉はその先を言わなかった。ドアが閉まった。


かぎをかけて、チェーンもかけた。金属が冷たかった。指先の温度が抜けている。渉の足音が廊下を遠ざかっていく。階段を降りる音がして、それも消えた。かぎに触れた指が離れない。離せばこの部屋に自分しかいないことが確定する。


 ◇


部屋の中に自分しかいない。エアコンの吹き出し口が低く鳴っていて、換気扇が回り続けている。MacBookはスリープに入っている。デスクの上にコーヒーのカップがふたつ。渉が手をつけなかったカップの中身が、室温まで冷えている。


靴がなかった、と渉は言った。最初からいなかったみたいに。


明日で13日目。


真奈は違う消え方をした。サイトに登録すらしていない。それなのに電話の最中に声が消えて、通話タイマーだけが回り続けていた。海斗は朝起きたら部屋ごと空になっていた。美澄は橋から落ち、和彦は失踪している。消え方は違う。でも消えた後は同じだった。残されたほうには、理由も手段も何もない。


逃げるという言葉が、頭の中に浮かんだ。


初めてだった。ここまでの11日間、逃げることを考えたことがない。分析すること、解くこと、取り戻すこと——真奈を、事実を、記事を。逃げるという選択肢は、分析者の辞書にはなかった。


でも分析は何を解いた。


写真の焦点距離を読んだ。Exifデータを解析し、掲示板のログを追い、暗号を解いた。美澄のテキストを復号して、正志の話を聞いた。11日間、分析し続けて、その結果が何だったのか。真奈は消えた。美澄は14年前に消えた。海斗は消えた。事実は積み上がっただけだった。


明日が13日目で、あと1日で止まる理由がない。


スマートフォンを手に取って、画面のロックを解除した。ブラウザを開く。


検索窓に「深夜バス 東京発」と打った。


指が止まらなかった。「名古屋行き」と追加した。なぜ名古屋なのか分からない。東京から離れる方角で、新幹線ではなくバスで、安く遠くへ。


検索結果が並ぶ。午前4時発、東京駅8重洲口。名古屋着午前9時15分、運賃3800円、空席あり。


3800円で逃げられる。


予約画面に進んで、名前を入力した。メールアドレス。座席は窓側を選ぶ。通路側ではなく窓側を選んだのは、隣に人がいない席がよかったからだった。決済画面でクレジットカードの番号を入力した。


「ご予約完了」


画面に文字が表示されて、確認メールがすぐに届いた。予約番号と、乗車場所と、出発時刻——午前4時、東京駅8重洲口3番のりば。


スマートフォンをデスクに置く。


チケットを買った。逃げる手段を手に入れた。名古屋に行って、そこからどうする。分からない。名古屋に知り合いはいない。ホテルを取って、それから何をする。13日目が名古屋で来るのか東京で来るのか、場所が変われば何かが変わるのか。


分からない。でもチケットは買った。


クローゼットの中から1泊用のボストンバッグを引っ張り出す。着替えを入れる。下着と、Tシャツと、ジーンズ。充電器と歯ブラシ。


荷物を詰めながら、真奈のことを考えていた。真奈はどこにも逃げられなかった。電話の最中に消えて、バスのチケットを買う時間もなかった。海斗もそうだ。朝起きたらもういなかった。美澄は離れの中にいた。6畳の部屋から出られず、出た先は橋だった。


自分だけ逃げるのか。


バッグのファスナーを閉めて、ベッドの脇に置いた。あとはアラームをセットして、午前3時に起きて、駅に向かえばいい。


アラームをセットしなかった。


ベッドの脇にバッグがある。ファスナーを閉めた1泊分の荷物。デスクの上には取材ノートが開いたまま残っていて、正志の言葉と美澄の言葉が同じページに並んでいる。MacBookの画面には美澄のテキストがまだ表示されていた。


逃げる荷物と、書く道具が、同じ部屋の中にある。どちらにも手を伸ばせる距離にあった。


スマートフォンの画面を見た。渉の最後の言葉が耳に残っている。「理由だけ知りたかった」。正志の言葉。「俺が止めなかった」。美澄の言葉。「だれもとめませんでした」。


記事を書いていなかった。


その事実が、アラームの画面を閉じた指の先に残っている。11日間、取材をし続けた。データを集めて、人に会って、記録した。でも一行も書いていない。テックライターが、記事を1本も書いていない。


ベッドに横になった。天井の暗がりを見ている。エアコンが一定のリズムで回っていて、壁時計の秒針が、その隙間で刻みを落としている。


眠れなかった。眠るつもりもなかった。アラームをセットしていないのだから、眠ったらバスに乗れない。乗れなくていいのか。乗りたいのか。


天井を見ていた。


 ◇


午前5時の光が窓の端から入ってきた。


バスは午前4時発だった。もう出ている。乗っていない。寝過ごしたのではない。眠れなかったのだから、寝過ごすことはできない。アラームをセットしなかった。起きていたのに、支度をしなかった。バッグはベッドの脇にある。ファスナーは閉まったまま。靴は玄関にある。


乗らなかった。


身体を起こすと、シーツが体温で温まっていた。部屋の空気は冷えている。エアコンのタイマーが切れていて、部屋が静まり返っている。いつ止まったのか分からない。蛍光灯のスイッチに手を伸ばしたが、入れなかった。給湯器がボッと音を立てる。隣の部屋の朝の支度が壁越しに聞こえたのかもしれない。


台所に行って、水を1杯飲んだ。冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸っている。11月の水道水が喉を通っていく冷たさを感じながら窓の外を見ると、空が白んでいる。向かいのマンションの壁が薄い灰色に見えていた。


スマートフォンが鳴った。


通知音。短い電子音。LINEでもメールでもない。カメラロールの同期通知。


手が止まる。コップを持ったまま止まった。換気扇の低い振動が台所の空気を震わせている。


通知を開いた。


カメラロールが更新されている。新しい写真が1枚。撮影した覚えのない写真。これまでと同じだった。知らない写真がカメラロールに現れる。9枚目。


写真を開いた。


サムネイルが展開された。


バスターミナルだった。


深夜のバスターミナル。照明が白く灯っている。停留所の番号が見える。3番のりば。バスが1台停まっている。行先表示板の文字が読める。「名古屋」。


コップを置いた。置いたつもりだった。コップの底がシンクの縁に当たり、陶器の音が鳴る。


写真を拡大した。指でピンチアウトする。指が震えて画面が揺れた。3番のりば。名古屋行き。午前4時発。視界の端が白くにじんでいる。予約したバスの停留所だった。予約した行き先だった。予約した時刻のバスが停まっている停留所だった。


詳細情報を開く。Exifデータ。撮影時刻。


午前3時42分。


チケットを買ったのは午前零時過ぎだった。バスの出発は午前4時。撮影時刻は午前3時42分。チケットを買った後に、バスが出る前に、バスターミナルで撮影されている。


チケットを買ったことを知っている。


行き先を知っている。


乗り場の番号を知っている。


逃げようとしたことを、知っている。


Webカメラ。室内写真はWebカメラ経由だった。画面を見ていた。ブラウザの予約画面を。


逃げた先に、先回りしていた。


正志の声が聞こえる。「関わったら、分かる」。あれはこういうことだった。逃げられないということ。どこに行っても追いつかれるということ。バスに乗っていたら、名古屋に着いたら、そこにも写真が届いていた。


シンクの縁に手をついた。給湯器がボッと音を立てた。隣の部屋が湯を使い始めたのかもしれない。壁越しの着火音が消えると、台所は換気扇の唸りだけに戻った。


逃げる場所がなかった。


 ◇


台所から動けないまま、どれくらい経ったのか分からなかった。


窓の外の光が強くなっている。朝が進んでいた。時計を見ると午前5時半を過ぎていた。


シンクに手をついたまま、顔を上げた。窓の外。向かいのビルが見えている。古いオフィスビルで、夜は暗いはずの窓が並んでいる。


その窓のひとつが光った。


小さな光だった。一瞬だけ。フラッシュのような——シャッターの閃光のような光。窓ガラスの向こうで、何かが一度だけ光って、消えた。


体が窓から離れた。一歩後退して、背中がキッチンの棚に当たった。自分の呼吸音が聞こえている。吸って、止まって、吐く。その音だけが台所を満たしていた。


見間違いかもしれなかった。朝の光が窓ガラスに反射しただけかもしれない。向かいのビルに人がいて、照明をつけただけかもしれない。早朝出勤の人間が電気をつけた、それだけのことかもしれない。


カーテンに手をかけて閉めた。布地が窓を覆い、向かいのビルが見えなくなる。カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。


両手が冷えていた。水を触ったからだ。


 ◇


デスクに座った。


MacBookのスリープを解除すると、画面が点いた。美澄のテキストがまだ表示されている。ひらがなの多い短い文が並んでいる。「にいちゃんがこれを読んでくれたら、わたしはここにいたことになります」。


今日が13日目だった。


11月24日。登録日から数えて13日目。真奈が消えてから9日。正志の取材から1日。


取り戻す方法はなかった。真奈は戻らない。渉の弟も戻らない。美澄は14年前に橋の上で消えている。取り戻す方法は、11日間の分析のどこにもなかった。


逃げる方法もない。バスターミナルの写真がそれを証明していた。チケットを買った瞬間を知っていた。行き先を知っていた。先回りしていた。


取り戻せない。逃げられない。


消えたくなかった。


その言葉が頭の中に浮かんだ。分析の言葉ではない。データでもない。ただの、自分の言葉だった。消えたくない。真奈のように。海斗のように。美澄のように。消えたくない。ここにいたい。


美澄は書いていた。「わたしはここにいたことになります」。書くこと、言葉を残すこと——それだけが、美澄が「ここにいた」証拠になった。


MacBookの画面の光が顔に当たっている。キーボードの上に手を置いた。何を打つのか分からない。記事を書く手が、今は何を書くべきなのか見当がつかない。


でもキーボードの上に手は置いたままだった。


窓の外で、カラスが1羽鳴いた。朝の音だった。隣室のテレビが点いたのか、壁越しにニュースのチャイムがかすかに聞こえた。エアコンは止まったまま。部屋の温度が下がっている。吐く息が白くなるほどではなかったが、指先が冷えていた。


今日が13日目。今日のどこかで、何かが終わる。


終わらせたくなかった。


スマートフォンの画面にバスターミナルの写真がまだ表示されている。3番のりば。名古屋行き。午前3時42分。9枚目の写真。


9枚目の写真を閉じて、ロック画面に戻した。渉からの連絡はまだない。「明日の朝、連絡します」と言っていた。まだ朝の早い時間だった。


デスクの上に取材ノートがある。昨日書いた正志の言葉。「俺が止めなかった」。美澄の言葉。「だれもとめませんでした」。


ノートのページをめくると、白いページが出てきた。何も書いていないページ。ペンを手に取る。


何を書くのか、まだ思いつかなかった。

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