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あの子の給食袋  作者: お寿司
第四幕 真実

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書き残す

渉からの電話が鳴ったのは、午前7時23分だった。


デスクの前に座ったまま夜を越していた。MacBookは開いたまま。白いページに何も打てないまま、画面の光を浴びて朝を迎えた。キーボードの上に置いた手は、いつの間にか膝に下りていた。


スマートフォンの画面に渉の名前が表示されている。


「まだいますか」


渉の声だった。昨夜のパーカーの声ではなかった。手順の声に戻っている。1晩で組み直したのだろう。渉もそうやって自分を保っている。


「います」


「よかった」


その1語に感情が混じっていた。渉は感情をすぐに引っ込めた。


「今日で13日目です。何か、変化はありますか」


「写真は来ていない。バスターミナルの写真が最後」


「分かりました」


沈黙が流れた。渉の呼吸がスマートフォンのスピーカーから聞こえている。規則的で、意図的に整えられた呼吸。


「久野木さん。僕にできることがあれば、何でも言ってください」


渉の声から、分析の色が抜けていた。削ぎ落とされた声だった。昨夜の「理由だけ知りたかった」と同じ場所から出ている声。


「記事を書く」


言葉が出た。喉の奥から、キーボードの上で止まっていた手から、そのまま出てきた。


「記事を」


「起きたことの全部を書く。サイトのこと。参加者のこと。写真のこと。消えた人たちのこと」


渉が黙った。3秒ほどの間。スピーカーの向こうで、渉の呼吸が一度乱れて、整え直す音が聞こえた。


「それは——誰に向けて」


「分からない。でも書かないと、何も残らない」


真奈は消えた。海斗は消えた。美澄は消えた。和彦は失踪した。消えた人間は何も遺していない。遺留品はある。給食袋、連絡帳、レシート、アンケート。物は残った。何が起きたのかを、起きたことの全体を、言葉で書き残した人間はひとりもいない。


私はテックライターだった。テック系のニュースサイトに記事を書いていた。取材をして、調べて、構成を組んで、1次情報を文章にする。それが仕事だった。AIに仕事を奪われかけて、スプレッドシートの数字が減り続けて、それでもキーボードの上に手を置いている。


消えたくなかった——昨夜はそう思った。消えたくない。ここにいたい。朝になって、その言葉が変わっていた。消えたとしても、真奈がここにいたことを消させない。美澄のように文字で残す。テックライターの手で、ここにあった全部を書き残す。


「書きます。今日中に」


「分かりました」


渉の声が少し変わった。何かを確認したような声。


「僕も手伝えることがあれば」


「渉さんのぶんも書く。海斗のことも。渉さんが調べたことも全部。いいですか」


「——はい」


電話を切った。画面が消えた。デスクの上にスマートフォンを置いた。


MacBookの画面を見た。白いページ。テキストエディタのカーソルが点滅している。


真奈のために書くのだと思った。自分が消えるかもしれない。消えるとしても、このキーボードから手を離す前に、あの子たちがいた証拠を組み上げる。テックライターとしての最後の仕事になるかもしれなかった。


 ◇


構成から始めた。


テックライターの習慣で、書く前に骨組みを作る。取材ノートを開いた。11日間の記録が時系列で並んでいる。取材メモ、スクリーンショット、URLのリスト、メールの下書き。


構成メモをテキストエディタの別ファイルに打ち始めた。


見出しを切った。テック系の分析記事の構成で組む。読者がいるかどうか分からない。構成がなければ書けない。構成は書き手の骨格で、骨格のない文章は読めない。


ひとつ目の見出し。「失踪した制作者と、消えた参加者たち」。


経緯から書く。サイトの概要。制作者の失踪。参加者が登録後13日で消えているパターン。データを並べる。数字と事実だけで組む。


ふたつ目の見出し。「遺留品のデジタルアーカイブ——実在した家族の痕跡」。


給食袋、連絡帳、レシート、写真台紙、アンケート。サイトにアップロードされたデータと、制作者のアパートで発見した実物との照合。Exifデータの分析。撮影日時と制作者の行動記録の突合。


3つ目。「写真の接近——風景が語る距離」。


1枚目の見知らぬ住宅街。2枚目の幹線道路沿い。3枚目の商店街の看板。4枚目の隣駅のロータリー。5枚目の最寄り駅のホーム。写真に映り込んだ風景の特徴——チェーン店の看板、商店街のアーケード、歩道橋の形状——から撮影場所を1枚ずつ特定し、自宅からの距離が段階的に縮まっていることを地図上にプロットした。撮影日時だけが残ったExifデータ。GPSも機種名もない。意図的に痕跡を消した撮影者の存在。


4つ目。「家族による存在の消去——戸籍と転出届の空白」。


取材で分かったこと。役所の回答。「そんな人はいませんでしたよ」。14年前にひとりの子供が消された事実と、その消去を家族全員が共有していた構造。


5つ目は、まだ見出しが決まらなかった。


キーボードから手を離した。コーヒーを入れようと思った。立ち上がった。台所に行った。ケトルのスイッチを押した。湯が沸くまでの2分間、構成メモを頭の中で回した。


コーヒーを入れた。デスクに戻った。マグカップの縁が欠けている。去年の冬にシンクの角にぶつけて欠けたまま使い続けている。


5つ目の見出しをどうするか。


「消えた人たちの声」。


ここに真奈のことを書く。海斗のことを書く。美澄のことを書く。参加者Aでも参加者Bでもなく、名前で書く。


ここまでの構成は分析記事の体裁を保っていた。データ、数字、時系列、照合。テックライターの声で組み上げた骨組み。5つ目の見出しの下に書くべきことだけが、データではなかった。


構成を保存した。本文に取りかかった。


午前8時15分。日付をノートに書いた。本文のファイルを開いた。カーソルが点滅している。冒頭の一段落を打ち始めた。


書き出しは事実から入った。テックライターの文体。1文目は日付と数字で始める。


2024年10月、あるウェブサイトの制作者が失踪した。サイトの名前と制作者の実名は伏せる。理由は後述する。


指が動いた。久しぶりだった。ここ数ヶ月、AI生成記事の手直し案件ばかりで、自分の文章を1から書く機会が減っていた。キーボードの打鍵感覚だけは手が覚えていた。


取材ノートを横に置いて、データをひとつずつ文章に変えていった。


制作者の失踪。サイトの構造。遺留品のデジタル化。参加者の登録と消失パターン。13日目というサイクル。写真に映った風景の変化から読み取れる距離の推移。


書きながら取材メモを何度も見返した。日付の整合性を確認した。数字を二重にチェックした。ファクトチェックはテックライターの最低限の手順で、事実と推測を混ぜない。事実には出典をつける。推測には「推測」と書く。


午前中の3時間で冒頭から3つ目の見出しまで書き上げた。コーヒーを3杯飲んだ。マグカップの底に粉が溜まっている。


4つ目の見出しに入った。家族のこと。正志の取材記録。美澄の存在の消去。


データを並べているつもりだった。取材ノートの中に正志の声が残っていた。ここから文章の温度が変わり始めた。「8つだった」。「守ろうとしたんだ」。声の記憶が文章に混じりかけて、意識的に排除した。分析記事に取材者の感情は要らない。


渉から一度だけメッセージが来た。「進んでいますか」。「進んでいる」と返した。


午後2時を過ぎて、5つ目の見出しにたどり着いた。


「消えた人たちの声」。


ここからが核心だった。分析を脱いで、人間を書く。名前を書く。テックライターが取材対象を「参加者A」と呼ぶのは、対象を守るためだ。この記事の対象は、守られるべき生者ではない。消されたあとに名前まで消された人たちだ。名前を書かなければ、消去に加担することになる。


真奈のパートを書き始めた。


私の親友もこのサイトに巻き込まれた。デザイナーで、制作者とSNSでつながっていた。彼女はサイトの存在を知っていたが、参加したわけではなかった。巻き込まれた理由は分かっていない。


キーが滑らかに動いた。真奈の人物像を書いた。デザイナーであること。感情が先に動く人間であること。取材中の私に「ごはん行こうよ」と言う人間であること。


書いているうちに、手が止まった。


「ごはん行こうよ」。最後の通話の中で真奈が言った最後の言葉は「ねえ、そこに誰かい——」だった。日常の会話として成立した最後のやりとりの中で、真奈が言ったのは「ごはん行こうよ」で、私は「後でね」と答えた。


手が止まっていた。カーソルが点滅している。換気扇の回転音が低く回っている。蛇口のパッキンから水滴が落ちている。


テキストエディタの画面を見た。真奈のパートの途中で止まっている。分析的な文体が維持されている。事実を並べて、構造で見せて、読者に判断を委ねる。テックライターの手順通りに書けている。


親友がここで消えた。


その一行だけ、文体が違った。分析記事の声ではなかった。テックライターの目が、一瞬だけはがれた。前の段落は「参加者の消失パターンは以下の通りである」と書いていた。次の段落は「消失の時系列を整理する」と続くはずだった。その間に、一行だけ、構成にも見出しにもない文がはさまっていた。


消さなかった。


数秒、画面を見ていた。カーソルが点滅している。壁時計の秒針が落としていく音。蛇口の水滴。部屋の音が戻ってきた。


続きを打ち始めた。テックライターの声に戻った。消失の時系列。海斗のケース。美澄のテキストの一部引用。構成通りに書き進めた。


夕方になっていた。窓の外の光が傾いている。何杯コーヒーを飲んだか分からなかった。マグカップの底が乾いていた。


本文を書き終えた。


推敲に入った。誤字を直し、日付を照合し、取材ノートと引用を1語ずつ突合した。美澄の言葉は美澄の言葉のまま載せる。1語も変えてはいけない。


最初から通して読んだ。読者の目で読んだ。


「親友がここで消えた」の一行で、目が止まった。


前後の文体と明らかに違う。分析記事の中に1箇所だけ、取材者の生の声が剥き出しになっている。


プロの判断としては消すべきだった。テックライターとして、分析記事の中に主観を混ぜるのは禁じ手だ。


消さなかった。二度目の判断だった。


推敲を終えた。リンクを確認した。参考URLが正しく開くか、ひとつずつクリックして確認した。画像の引用元を記載した。


午後8時。記事が完成した。


 ◇


プラットフォームのエディタに本文を流し込んだ。


見出しの書式を整えて、画像の位置を調整した。タグをつけた。カテゴリを選んだ。タイトルを決めた。


公開ボタンが画面の右上にある。


マウスカーソルをボタンの上に置いた。


渉にURLを送ることになる。読者がいるかどうかは分からない。3000字のコメントが来るかもしれない。誰にも読まれないかもしれない。どちらでも構わなかった。書いた。推敲した。ファクトチェックをした。テックライターとして出せる精度で組み上げた。あとはボタンを押すだけだった。


公開ボタンを押した。

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