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あの子の給食袋  作者: お寿司
第三幕 崩壊

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もうすぐ分かる

正志がドアに手をかけると、今度はドアが動いた。閉まっていく。蛍光灯の光が細くなる。


「美澄さんはこう書いていました」


ドアが止まった。細い隙間から正志の目が見えた。


「『おとうさんはわるい人ではないです』」


ドアの隙間が動かなくなった。3秒。5秒。


ドアが閉まり、かぎが回る音がした。


門の前に立っている。門は最後まで開かなかった。5メートルの距離をはさんで、門の外からすべてを聞いた。


離れの窓が見えている。カーテンは閉まったまま。14年前も、こうして閉まっていたのだろう。外から見ても、中に誰かがいることは分からない。


門の前を離れて、来た道を戻った。振り返らなかった。


 ◇


復路の電車は行きよりも混んでいて、昼を過ぎたロングシートの真ん中に座った。両隣に人がいる。左は学生で右は作業着の男性、二人とも自分の世界にいてこちらを見ていなかった。


スマートフォンを取り出して渉に電話をかけた。LINEではなく通話にする。テキストでは伝えきれないと思った。美澄のテキストを読んでから、テキストで伝えることの限界を感じている。声が必要だった。


3コールで出た。


「久野木さん。椿市に行ったんですか」


「今、帰りの電車の中です。瀬川正志に会いました」


「会えたんですか。電話では壁だったのに」


「門の前で粘りました。美澄の離れの話をしたら、出てきました。玄関先で。中には入れてもらえませんでしたが」


「何を話しましたか」


渉の声は手順の声だった。感情を抑えて情報を求めている。


電車の走行音が受話器の向こうに聞こえているはずで、周囲の乗客の気配もある。声を落として話した。


「正志は——父親は、離れのことを認めました。13日間の隔離。補給の停止。橋の事故。全部認めた」


「事故、ですか」


「正志はそう言いました。美澄が離れを出て、橋まで歩いて、足を滑らせた。事故だと。誰にも言わなかった、と」


渉が黙った。通話タイマーが進んでいる。1:24。1:25。


「もうひとつ。正志は美澄の怨霊を信じています」


「怨霊」


「正志はこう言いました。『あの子は今も誰かを使って、うちに来る』と。カメラを持った誰かを使って、写真を撮らせていると」


渉が息を吐く音が、電話越しに聞こえた。


「誰かを使って。それは怨霊の話なのか、それとも——」


「正志はそう信じています。怨霊が人間を使って動いている、と。14年間、その解釈で生きてきた」


通話タイマー。2:08。車窓の外を住宅街が流れている。行きに見た柿の木が、反対方向から見えた。同じ木が、違う角度から見えると違う木に見えた。


「整理していいですか」


渉の声が変わった。分析の声に戻ろうとして、戻りきれていない声だった。


「父親は怨霊だと言った。美澄の怨念がサイトを動かしていると。怨霊がHTMLを書くとは思えない。誰かがサイトを維持しているなら、その誰かが消失にも関わっている」


「和彦以外の、誰か」


「分かりません。ただ——掲示板のレスがつく時間帯を追ったんですが、夜10時から深夜2時に集中しています。サイトの更新も同じ。毎晩、同じ4時間だけ稼働している」


通話タイマー。2:48。


「分かっているのは——どの筋で考えても、あと1日で止まる理由がないことです」


電車が減速して駅に停まる。ドアが開くと冷たい空気が車内に入ってきて、乗客が降り、別の乗客が乗ってきた。


渉に聞きたいことがあった。質問リストにはない、取材の質問ではないものが。


「渉さん。怖いですか」


通話タイマー。3:22。


「……怖いです」


渉の声から分析の色が消えた。


「弟はもう消えました。消えた事実は変わらない。でも——理由が分からないまま終わるのが怖い。弟がなぜ消えたのか。誰が消したのか。それが分からないまま、13日目が来るのが。僕は結局、画面の前にいるだけで、何もできていない」


渉の声に、手順がなかった。データではない何かが電話越しに流れていた。


電車がまた動き始めた。走行音がレールの継ぎ目で規則的に刻まれている。


「美澄さんのテキストの内容は、会ったときに共有します。今日中に」


「分かりました。——僕も、何かできることがあれば」


通話が切れた。4:12。


スマートフォンの画面が暗くなり、そこに自分の顔が薄く映っている。窓の外は曇り空だった。


 ◇


帰宅したのは午後3時を過ぎていた。


かぎを回してドアを開けると、部屋の空気が止まっていた。朝出たときと同じ空気で、エアコンのタイマーが切れて室温が下がっている。スイッチを入れると送風音が始まった。


靴を脱いで台所を通り過ぎた。朝のマグカップがシンクに残っていて、コーヒーの跡が底に乾いている。


デスクに座ってMacBookのスリープを解除すると、テキストエディタが画面に残っていた。USB-Bから復号したテキストファイル。昨夜読んだ美澄の言葉がそのまま表示されている。


取材ノートを開いて、正志の言葉を書き留めた。


「先生が電話をかけてきた。あの電話1本で、うちはもう持たなくなった」

「親父の代からああだった」

「守ろうとしたんだ。家を。あの子を、じゃない。家を守ろうとした」

「俺が止めなかった」

「8つだった」

「あの子は今も誰かを使って、うちに来る」

「関わったら、分かる」


書き留めている途中で手が止まった。「俺が止めなかった」の行で。


美澄の言葉。「だれもとめませんでした」。


正志の言葉。「俺が止めなかった」。


同じ事実を、8歳の子供と62歳の父親が14年の距離をはさんで言っている。美澄は「だれも」と書き、正志は「俺が」と言った。主語が違う。美澄にとっては全員がとめなかった。正志にとっては自分がとめなかった。


ペンを置いた。


窓の外が暗くなり始めている。午後4時を過ぎていた。11月の日は短い。朝出て、電車に乗り、椿市に行き、門の外で正志の話を聞いて、電車に乗って帰ってきた。1日がそれで終わろうとしている。


12日目が終わろうとしていた。


明日で13日目になる。


スマートフォンの画面を確認すると、通知が1件あった。メール。差出人は取材先の編集部で、AIスピーカーの記事の催促だった。件名「【リマインド】初稿ご提出の件」。本文は読まなかった。


デスクの上にMacBookがあって、テキストエディタが開いていて、美澄の言葉が並んでいる。充電ランプのオレンジ色が点灯している。昨夜と同じ光景だった。


正志の最後の言葉が耳に残っていた。「関わったら、分かる」。あれは脅しだったのか。予言だったのか。忠告だったのか。正志の顔は、どれでもなかった。ただ知っている人間の顔だった。この先に何があるかを知っている人間が、これから同じ場所に行く人間を見る顔だった。


エアコンの低い唸りが部屋を満たしている。外は暗くなった。


美澄は書いていた。「おとうさんはわるい人ではないです」。


取材ノートを閉じた。


部屋が暗い。デスクライトをつけていなかった。MacBookの画面と充電ランプのオレンジだけが光っていて、昨夜と同じ光だった。昨夜ここで美澄のテキストを読んで、今日椿市に行って正志の言葉を聞いて、またここに戻ってきた。何かが進んだのか、何が変わったのか。


正志は認めた。離れのことも、橋のことも、止めなかったことも。でも正志が認めたところで消失は止まらない。渉が言った通りだ。怨霊でも人為でも構造でも、あと1日で止まる理由がない。


明日で13日目。


「関わったら、分かる」


その言葉の温度だけが、暗い部屋の中に残っていた。


LINEの通知が光った。渉だった。


<これから行きます>


充電ランプのオレンジ色が点灯し続けていた。

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