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あの子の給食袋  作者: お寿司
第三幕 崩壊

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34/44

俺が止めなかった

眠れなかった。


エアコンの送風音を聞きながら横になっていた。布団に入ったのは午前2時を過ぎてからで、天井の暗がりを見ていた。視界の中に美澄の文字が浮かんでいた。ひらがなの多い短い文。「だれもとめませんでした」。文字は消えなかった。目を開けても閉じても、同じ文が脳の奥に貼りついていた。


枕の位置を変えて、シーツの冷たい面に頬を押しつけた。布地の化学繊維の匂いがする。美澄の離れのたたみの匂いではなかった。当たり前だった。でもその当たり前の匂いが、離れの匂いを想像させる。埃と古い押し入れと、使い捨てカイロの鉄の匂い。


8歳だった。


その数字が頭の中で動かない。小さな手がもうふをつかんでいる。うわばきのまま橋を渡る足がある。たたみ6枚の部屋に13日間閉じ込められて、3日おきの食パンと水で生きていた子供。8歳の。


眠れなかった。眠れないまま、窓の外が白くなった。


午前6時半。スマートフォンの画面を確認して、LINEの渉のトーク画面を開いた。通知はなく、昨夜の空白の入力欄がそのまま残っている。


文面を打った。


<USB-Bの復号に成功しました。中に長文のテキストがありました。美澄本人が書いたものです。内容は直接会って話します>


送信した。指が震えていたのではない。文字を打つ速度がいつもより遅かっただけだ。


既読がつくまでに4分。渉は早起きだった。SEの朝は早い。


<了解です。内容は会ったときに。どうしますか>


<直接行きます。椿市に>


返信が来るまでに8秒。


<瀬川正志の住所は把握しています。固定電話の番号から逆引きしました。椿市桜台3丁目。ひとりで行きますか>


<ひとりで行きます>


<分かりました。電話ではすでに壁でしたね。直接行って開くとは限りませんが、それ以外に手がないのも事実です>


スマートフォンを伏せて、ベッドから起き上がった。頭が重い。何時間横になっていたのか。4時間は横にいて、眠った時間はゼロかもしれないし1時間かもしれない。体は休まっていなかった。


台所に立ってケトルに水を入れ、スイッチを押した。換気扇のフィルターが風で微かに揺れている。冷蔵庫を開けると、卵がふたつと牛乳のパックが残っていた。パックを振ったら底のほうで少しだけ揺れる。


インスタントコーヒーの粉が湯に溶けていく。黒い液面が湯気を上げて、マグカップを両手で包むと陶器の熱さが手のひらに伝わった。


今日は12日目だった。明日で13日になる。


椿市まで電車で1時間半。往復3時間。移動だけで半日が消える。12日目の半日。


マグカップの中のコーヒーが揺れた。テーブルに置いた。


着替えて、財布とスマートフォンとICカードをポケットに入れた。取材ノートをトートバッグに入れ、ペンを2本差す。ボールペンと、予備のボールペン。


玄関のドアを開けると、11月の朝の空気が冷たかった。


11月。美澄が離れに入れられたのも11月だった。


階段を降りて駅に向かった。歩きながら、美澄も同じ季節の空気の中を歩いたことを考えている。橋の上を、うわばきで。


考えるのをやめようとした。分析にならないことを考えても仕方がない。でも分析にならないことが頭から出ていかなかった。


 ◇


電車は空いていた。平日の午前中で、ロングシートの端に座ると窓の外を住宅街が流れていく。乗り換えが1回。椿市までの切符を買うとき、券売機の画面で「椿」の文字を押した。花ごと落ちる花の名前を、指でなぞっている。


車内の暖房が足元から上がってくる。靴の中の指先が温まっていく。隣の席に誰もいない。向かい側のシートに中年の女性がひとり座っていて、スマートフォンの画面を見ている。その人の視線は画面にだけ向いていて、こちらを見ていなかった。


取材ノートを膝の上に開くと、昨夜書いた一行が目に入る。「瀬川美澄 離れ 13日間」。その下に何も書いていない。書くべきことを整理しようとした。


正志に何を聞くのか。何を見せるのか。何を引き出したいのか。


取材は段取りだった。記事のための取材なら、質問リストを作る。想定される回答を考える。話が逸れたときの軌道修正を用意する。拒否された場合の撤退ラインを決める。


質問リストを書こうとした。ペン先がページに触れた。


何を聞きたいのか分からなかった。


美澄のテキストを読んだ後で、何を聞けばいいのか分からなくなっていた。「なぜ離れに入れたのか」は聞ける。「13日間の隔離を誰が決めたのか」も聞ける。「補給が途絶えた理由」も聞ける。全部、質問として成立する。でもどの質問も、聞いたところで美澄が離れにいた13日間を変えられない。


質問リストは空白のままだった。


電車が椿市に近づいている。車窓の風景が変わっていた。住宅密度が下がっている。畑がある。柿の木が1本、葉を落として立っている。空は薄い曇りで、光がどこから来ているか分からない均1な明るさだった。


 ◇


椿市駅は小さかった。改札機が2台に券売機が1台、駅前のロータリーにはタクシーが1台だけ停まっている。コンビニが1軒。それ以外には不動産屋の看板と歯科医院の看板が見えるだけで、人通りはまばらだった。


渉からのLINEに添付された地図を開いた。桜台3丁目。駅から北東に徒歩15分。


住宅街に入っていくと、道は緩やかに上っている。家々の表札を見ながら歩いた。表札を確認する癖は取材の仕事で身についたもので、田中、鈴木、佐藤と、どこにでもある名前が並んでいるどこにでもある住宅街だった。


桜台3丁目に入ると道が狭くなり、塀が高くなった。古い住宅が増えている。築40年か50年のコンクリートの塀にひび割れが走り、瓦屋根が重そうに乗っている。


角を曲がった。


瀬川の表札が見えた。


立ち止まった。


門柱にかかった表札は木製で、焼き文字で「瀬川」とある。門は閉じていて、その向こうに玄関が見える。玄関の右に庭木が数本あり、その奥に、敷地の端に、もうひとつ建物があった。


離れだった。


母屋より1回り小さい、古い木造の建物。屋根は母屋と同じ瓦で、壁は灰色になったモルタル。窓がひとつ。小さい窓。その窓は家のほうではなく、斜面のほうを向いていた。


山のほうを向いている窓。


美澄の文字が頭の中で鳴った。「まどはひとつだけで、ちいさくて、家のほうじゃなくて山のほうを向いていました」。その窓が、今、目の前にあった。あの文字が描写していた実物が、灰色のモルタル壁の中にはまっている。


窓は閉まっていて、カーテンの向こうは見えない。


門の前に立っている。ここに美澄がいた。この敷地の中で、8歳の子供が13日間、食パンと水で生きて、連絡帳に暗号で言葉を書いていた。


インターホンを押した。


チャイムの音が敷地の奥で鳴って、応答を待つ。10秒。20秒。30秒。留守なのか、居留守なのか。平日の午前中で、正志は定年退職しているはずだった。


もう一度押した。


5秒後、スピーカーから声が出た。


「どちら様ですか」


男の声だった。低く、硬い。電話で聞いた声と同じだ。27秒で切られたあの電話の向こうにいた声。


「久野木と申します。以前お電話した者です」


沈黙が3秒あった。


「お答えすることはございません。お引き取りください」


電話と同じ壁だった。27秒で閉じたあの壁が、インターホンの向こうにもある。


「美澄さんのことでお話があります」


スピーカーの音が切れた。


壁。


門の前に立ち続けていると、風が吹いて庭木の葉が擦れる音がした。離れの窓が見えている。カーテンの向こうは暗い。インターホンのスピーカーは沈黙したまま、赤いランプも消えている。


30秒が経ち、1分が経った。門は開かない。


帰るべきか。電話と同じ結果だ。壁を正面から叩いても開かないし、取材の鉄則として拒否された相手に居座ることは何も生まない。


でも帰ったら今日が終わる。今日が終わったら明日で13日目になる。


インターホンのボタンに指を置いて、押さなかった。指先がプラスチックの冷たい表面に触れている。


玄関のドアが開いた。


音がした。かぎを回す金属の音と、ドアが枠から離れるゴムの摩擦音。普通の家のドアが開く、普通の音だった。


玄関に男が立っていた。


瀬川正志。62歳。


電話の声から想像した顔とは違っていた。声の硬さから大きな体を想像していたが、実際は中肉中背で少し猫背、白髪の多い頭を紺色のポロシャツにグレーのスラックスが支えている。家にいる退職者の服装だった。


顔が強張っている。口元が引き結ばれ、目がこちらを向いているのに焦点が合っていない。何かを見ないようにしているまなざしだった。


「帰ってください」


声は静かだった。怒鳴っていない。電話と同じ言葉を、電話より静かな声で言った。


「美澄さんが書いた言葉を読みました」


正志の目が動いて、焦点が急に合った。


「何を言っている」


「離れのことも知っています」


正志の体が動いた。一歩、後ろに下がった。玄関のドアに手をかけた。閉めようとしたのか。でも閉めなかった。手がドアの端に触れたまま止まっている。


「13日間。3日おきの補給。最後に水だけ持ってきて、その後は誰も来なかったことも」


正志の手がドアから離れた。


何か言おうとしていた。唇が動いた。でも声が出てこなかった。唇が閉じて、また開いて、閉じた。


「あなたに何が分かる」


怒りではなく、問いだった。声が震えている。62歳の男の声が、玄関先で震えていた。


「分かりません。でも美澄さんの言葉を読みました」


正志の肩が落ちた。壁が崩れていく瞬間は、壁を叩いた手応えとは違った。叩いたのではなかった。ただ名前を言っただけだった。美澄の名前と、離れの日数を言っただけで、壁が内側から崩れた。


正志がしゃがみこんだ。


玄関の上がり框に腰を下ろして、膝に両手を置き、コンクリートのたたきを見ている。靴箱の横に園芸用の長靴が1足並んでいて、玄関マットの毛足が寝ている。蛍光灯の光が正志の白髪を照らしていた。


門と玄関の間の距離は5メートルほどだった。門は閉まったままで、正志は中に入れとは言わなかった。


門越しに声が聞こえた。


「先生が電話をかけてきた。あの電話1本で、うちはもう持たなくなった」


正志は玄関のたたきに座ったまま、自分の膝を見ていた。こちらを見ていなかった。


「あの子がアンケートに書いた。学校の、あの——家庭のことを書くやつだ。先生が読んで、うちに電話をかけてきた。事実確認だと。事実も何も」


声が途切れた。また始まった。


「親父の代からああだった。親父もそうされて育った。おふくろも知っていた。俺もそうだった。俺もそうされて、俺もそうした。あの子だけ——あの子だけ違うことを言い始めた」


正志の声は低かった。聞き取れるぎりぎりの音量で、門の外に立っている自分にかろうじて届いていた。風が吹くと消えそうな声だった。


「妻が言った。しばらく離れに入れておけって。俺が言ったんじゃない。でも——俺が止めなかった」


その言葉が来た瞬間、美澄の文字が重なった。「だれもとめませんでした」。同じ事実が、被害者の言葉と加害者の言葉で、同時に聞こえた。


「何日だったか覚えていますか」


自分の声が取材者の声に戻っている。質問する声、情報を引き出す声。その声を自分で聞いて違和感があった。取材ではない。でも質問しなければ、正志の言葉が止まる。


「13日。補給は妻がやった。3日おきに食パンと水を持っていった」


正志の声が低くなった。


「でも——だんだんおかしくなった。妻が。持っていく量が減った。最後は水だけ持って行って、泣きながら帰ってきた。その後、妻が倒れた。台所で。過呼吸だって医者は言った」


「補給が途絶えたのはなぜですか」


正志が顔を上げて、目が合った。門越しの5メートル。正志の目が充血している。泣いているのではなく、まぶたの皮膚が上気していた。14年前の出来事を話している今なのか、14年間ずっとなのか。


「妻が倒れたら、誰もやらなかった。俺は仕事に行った。和彦は学校に行った。親父はもういない。妻だけがあの子のことをやっていて——妻が倒れたら、終わった」


最後の水の後、誰も来なくなった。日記の記述と一致した。


「和彦は知っていたのですか」


「あいつは——」正志の声が変わった。低い声がさらに低くなった。「あいつは嫌だと言った。離れに入れるなって言った。15だった。15の子供が、親に向かって嫌だと言った。でも何もできなかった。あいつも結局、学校に行った。飯を食った。風呂に入って寝た。嫌だと言いながら、普通に暮らした」


正志が両手で顔を覆った。指の隙間から声が漏れた。


「8つだった」


その一言で正志の体が小さくなった。肩が前に出て、背中が丸くなって、62歳の体が玄関の上がり框の上で縮んだ。


「あの子は8つだった。小学2年。給食がすきで、友だちと猫の話をして、アンケートに正直に書いただけだ。正直に書いただけの子供を——」


声が途切れた。


コンクリートの塀の向こうから、鳥の鳴き声が聞こえた。カラスだった。離れの窓は変わらずカーテンが閉まっている。風が止んでいた。


正志が顔から手を離すと、目が乾いていた。涙は出ていない。14年間で枯れたのかもしれないし、最初から泣いていないのかもしれない。泣けば楽になれる種類の話ではなかった。


「あの子は——あんたは知っているのか」


「あの子は——橋から」


正志の声が途切れた。言いかけて、止まった。


「知っています。日記と地図から辿り着きました。北橋。夕方の5時40分」


正志の顔がゆがんだ。知っているはずのない時刻を聞いた顔だった。


「橋の先のことは、日記には書かれていませんでした。テキストは『いく』で途切れています」


正志の表情が変わった。崩れた壁の向こう側に、また別の壁があるような顔だった。橋の先のことを正志は知っていて、美澄のテキストにはそれが書かれていなかった。書かれていない部分に何があったのか。


「守ろうとしたんだ」


正志の声は平坦だった。


「家を。あの子を、じゃない。家を守ろうとした」


言ってから、正志は自分の言葉を聞いたように黙った。自分が何を言ったのか確認しているような間があった。


「あの子は死んだ。橋から落ちた。事故だ。事故——だから、誰にも言わなかった。あの子が離れから出て、橋まで歩いて、足を滑らせた。うわばきで。あの日は雨上がりで、橋の路面が濡れていて——」


声が平坦なまま続く。事実を並べているだけの、感情を乗せる余裕がない声だった。


「あの子が死んでからも、何も終わらなかった」


正志が立ち上がると、膝が鳴った。62歳の膝の音。玄関のたたきに長く座っていたせいで足がしびれているのかもしれない。手を壁について体を支えている。


「あの子は死んでない」


矛盾している。今、正志自身が「死んだ」と言い、橋から落ちたと言い、誰にも言わなかったと言った。それなのに「死んでない」と言っている。


「いや、死んだ。橋から。でも——あの子は今もいる」


正志の目がこちらを見ていた。門越しの5メートル。焦点が合っている。今度は逸らしていない。


「写真が来る。あのサイトに関わった人間のところに」


答えなかった。答える前に、正志が続けた。


「あの子が見ている。あの子がカメラを持った誰かを使って、うちに来る。うちだけじゃない。関わった人間のところにも来る。あの子が撮らせている」


怨霊。正志はそう信じている。美澄の怨霊がサイトを動かし、参加者を消していると。カメラを持った「誰か」を使って。


正志の声には力みがなかった。14年間、同じ解釈で同じ恐怖を抱えてきた人間が、静かに話している。


「関わったら、分かる」

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