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あの子の給食袋  作者: お寿司
第三幕 崩壊

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瀬川美澄

帰宅してすぐMacBookの前に座った。手紙の青いインクが視界の端に残っている。「消えたくなければ」——消えるには始まりがある。いつからなのか。


ファイル整理のときに見たレシートの品目が頭をよぎった。子供のお菓子買いとは別の、食パンと水とカイロだけのレシートが何枚かあった。あのとき品目だけ見て日付を確認していない。


スプレッドシートに新しいシートを追加して名前を「レシート時系列」に変えた。手紙の中身を考え始めたら分析が止まるから、先に物証を並べることにした。


サイト上のレシートを開いた。コンビニとスーパーのレシートが12枚。今度は日付を読む。1枚目から順に、店名、品目、金額、日付、時刻とセルに入力した。レシートの画像とセルの間を何度も往復しているうちに、首の後ろが強張っていた。12枚分を打ち込んで日付順にソートした。


日付の列を上から下に目で追った。11月3日、6日、9日、12日、15日。数字が等間隔で並んでいる。3日。全部3日おきだった。


同じ組み合わせの買い物が、3日おきに発生している。食パン1斤、牛乳1リットル、ペットボトルの水2リットルが2本、カップ麺4個、ウェットティッシュ1パック、使い捨てカイロ10個入りが1袋という組み合わせだった。


食パンとカップ麺と水——調理しなくても食べられるものだけが並んでいる。コンロも電子レンジもない場所を前提にした品目だった。カイロは暖房がない場所、ウェットティッシュは水道がない場所。瀬川家の自宅用ではなかった。コンロも暖房も水道もない場所で、誰かが食べるための買い物だった。


レシートの最初の日付は11月3日で、最後が11月15日だった。13日間に同じ買い物が5回あり、合計で食パン5斤、カップ麺20個、水10リットル、カイロ50枚が買われていた。6回目はなかった。11月18日が次の予定日で、行方不明届が出されたのは11月24日——買い物が途絶えてから6日後だった。


13日間。その数字が頭に残った。


椿市で見た離れの窓を思い出した。斜面に面した小さな建物で、窓が本宅の反対側を向いている。地図コピーには「離れ」と書き込みがあって、窓の向きまで注記されていた——本宅から見えない方角に開いていると。あの離れにはキッチンがなかった。暖房もなかった。水道も引かれていなかった。レシートの品目が指し示す場所の条件と一致する。3日おきの同じ買い物が、あの離れに届けられていたとすれば——そこに誰かがいたことになる。


サイトの43ファイルのひとつにある買い物メモを開いた。品目だけが走り書きされていて、レシートの6品目と一致していた。買い物メモの筆跡は丸みのあるボールペンの字だった。レシートの品目にはいくつか赤丸がつけられていて、母が買い物リストを書いて買ったものにチェックを入れていた痕跡が残っている。


スプレッドシートの時系列を見つめた。買い物ではなかった。補給だった。13日間の補給記録が、表計算のセルの中に整列している。


マグカップに手を伸ばした。コーヒーは冷え切っていた。飲まずに戻した。


 ◇


転出届のデータに切り替えた。


渉が復元した画像で、届出人は瀬川正志、続柄は父と書かれている。転出先の住所は実在しない番地で、それは確認済みだった。


転出者の欄に目が移った。届出人と住所ばかり見ていて、この欄を読んでいなかった。転出者氏名の行にカーソルを合わせて画像を拡大すると、正志の太い字とは違う筆跡で手書きの文字が現れた。


瀬川 美澄


カーソルが止まった。


瀬川美澄——ミスミ。連絡帳の記号対応表の中にあった3文字で、椿市の橋の上で夕日が作った猫の横顔から読み取った読みだった。ミスミの漢字は美しいに澄む。


生年月日の欄には平成16年9月生まれと記載されていて、行方不明届は平成24年11月に出されている。8歳だった。USB-Aに入っていた美澄の短文が頭をよぎった。「わたしのことを、おぼえている人がいるなら」——あの文章を書いた子供に、名前がついた。


エアコンの送風音が遠くなった。画面の白い光だけが近い。


手を止めなかった。止めたら動けなくなると分かっていた。通院記録の数値と母子手帳の成長曲線と連絡帳の記号が、ひとりの少女の人生の断片になって、スプレッドシートの中のセルのひとつひとつが意味を変え始める。


セルをひとつ打ち間違えて、消して打ち直す。指がキーボードの上で一瞬止まって、また動いた。


渉にLINEを送った。


<名前が確定しました。瀬川美澄。転出届の転出者欄です>


<漢字は>


<美しいに、澄む>


40秒の間があった。


<確認しました>


 ◇


13日間、近所の人間はこの子がいないことに気がつかなかったのか。


ファイルの中に電話の伝言メモがあった。「預けている」「元気にしている」。整理のとき、家族の連絡だと読み流していた。


電話メモを開き直した。メモ用紙のスキャン画像にボールペンの太い字で短い文が繰り返し書かれている。


「和彦のところに預けている」

「しばらくいないが元気にしている」

「落ち着き次第戻るから心配いらない」


3つの文言が異なる日付で繰り返されていて、日付は鉛筆で記入されている。11月が3つ、12月がふたつ、翌年1月がひとつ。


「和彦のところに預けている」——和彦は当時15歳で、15歳の兄のところに妹を預けるという説明は大人に対する文脈では成立しない。「親戚の和彦さん」と聞いた側が解釈した可能性がある。


3つの文言が、11月から1月まで3ヶ月間、同じ順序で繰り返されている。読み直した。「預けている」は居場所を聞かれたときの答えだった。「元気にしている」は安否を聞かれたときの答えだった。「心配いらない」は帰りを聞かれたときの答えだった。3つとも、聞かれることを想定した回答が先に用意されている。本当のことを答えられないから、用意する必要があった。この家は誰かを隠している。


レシートの時系列と照合した。レシートの最初の日付が11月3日で、電話メモの最初の日付は11月5日だった。補給開始から2日後に最初の問い合わせ対応が始まっている。近所の誰かが美澄の姿を見なくなったことに気がついて、メモの書き手がそれに応答した。


買い物メモの筆跡は母のもので、電話メモの筆跡は祖母のもの、転出届の届出人は父だった。


父が書類を偽造して、実在しない住所への転出届を出し、行政記録から美澄の存在を消した。母が補給を管理して、3日おきに食パンと水とカイロを買い、離れに運んだ。祖母は噂の統制を担当している。近所からの問い合わせに3つのテンプレートで応答し、美澄の不在を正常なものに見せていた。


分析結果をLINEにまとめた。13日間の隔離補給、3日おきの食料と水、祖母のテンプレート応答、父の書類偽造。家族全員の分業。打ち終えて送信した。


渉の返信は1分後に届いた。


<海斗のスマホのブラウザ履歴を見直しました。海斗もこのレシートのページを開いていた。同じことを調べていたんです、弟も>


1分間、既読のまま次のメッセージが来なかった。


<すみません。少し>


文が止まった。渉が文の途中で送信することは今まで一度もなかった。30秒後に「続けます」とだけ返ってきた。弟の名前を出した直後の1分間。渉は何を思ったのだろう。


電話メモを閉じようとして、手が止まった。


画像をもう一度拡大した。祖母のテンプレート3行の下に、ボールペンの文字とは別の筆記具で書かれた線が見えた。薄い。鉛筆だった。コントラストを上げて明度を下げ、シャープネスを上げると、メモ用紙の粗い紙質の上に鉛筆の線が浮かんだ。


「きえたくなければ ほうほうがある」


画面から目を離せなかった。


段ボールの底から見つかった手紙の冒頭と同じ文字列だった。手紙はボールペンの青いインクで大人の丁寧な字で書かれていたのに、電話メモの走り書きは鉛筆でひらがなで書かれている。同じ言葉が、別の物証に別の筆記具で書き込まれていた。


祖母の筆跡ではなかった。和彦の字でもない。和彦はボールペンで書く。


美澄の文体が頭をよぎった。USB-Aに入っていた短文——「わたしのことを、おぼえている人がいるなら」——ひらがなが多く、読点が多い書き方だった。


「きえたくなければ」。ひらがなで、鉛筆で書かれている。


手紙と同じ言葉を、手紙とは別の人間が書いていた。


写真を撮って渉に送った。


<きえたくなければ ほうほうがある。鉛筆の走り書きです。祖母の筆跡ではない>


<和彦の字ですか>


<分かりません。和彦のノートはボールペンです。この走り書きは鉛筆で、ひらがなが多い>


渉の返信に15秒かかった。


<ひらがなが多い>


渉も同じことを考えている。


窓の外が暗くなっていた。エアコンの送風音だけが部屋を満たす中、鉛筆の薄い文字が液晶の光に浮かんでいた。


和彦の手紙と同じ言葉が物証の余白に書かれていた。誰が書いたのか。いつ書いたのか。


方法があることを知っていながら中身を書かなかった人間か、あるいは方法があると聞かされてそれだけを書き留めた人間が、祖母のメモ用紙の余白に鉛筆を走らせていた。


取材ノートに今日の分析結果をまとめた。


1、瀬川美澄——転出届の転出者欄から実名確定。

2、家族全員の分業による組織的消去——父が書類偽造、母が隔離補給、祖母が噂統制。

3、13日間の隔離——レシート時系列から確定、補給途絶の6日後に行方不明届。

4、段ボール底の手紙——和彦の筆跡で「消えたくなければ方法がある。3つの解法」、3つ目は空白。

5、祖母の電話メモの余白に同1文字列——ひらがな、鉛筆、筆者不明。

6、USB-B復号鍵候補——sakura、ノート26ページの走り書き。


ペンを置いた。


手紙の文字列が物証の中にも存在していて、書いた人間が分からない。


MacBookの画面が暗くなりかけて、スリープに入る直前にトラックパッドに指を乗せた。画面が点灯して、鉛筆の薄い文字が戻ってきた。


「きえたくなければ」——覚えのある文体だった。

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