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あの子の給食袋  作者: お寿司
第三幕 崩壊

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二十七秒

午後になって、瀬川正志に電話をかけた。


渉が送ってきた番号をメモ帳からコピーした。画面に数字が並んでいる。11桁。椿市の市外局番。この番号の先に、転出届を偽造した男がいる。


動機はあった。真奈が消えた。写真が室内に入ってきた。11日目の午後。残り2日。椿市の橋で見た夕日を思い出した。あの橋の上に立ったとき、14年前の子供の名前が1文字だけ出てきた。ミスミ。消された子供。消した人間の名前は瀬川正志。


転出届の届出人。実在しない住所を書いた男。行政記録から子供の存在を消した人間が、まだどこかで生きている。


取材の体で電話をかける。テック系ライターが関連事案の取材として連絡を取る。不自然ではない。椿市役所にも同じやり方で電話をかけた。


通話ボタンを押した。


1コールで出た。


呼び出し音が1回鳴って、回線がつながった。受話器を取るまでの間がなかった。電話機のそばにいたのか。待っていたのか。1コールで出る人間は、電話を待っている人間か、電話機のすぐ横に座っている人間だった。


「はい」


男の声だった。低くはない。高くもない。60代の声。しわがれてはいない。硬かった。1音目から硬い。「はい」の母音が短く切れている。


「突然のお電話失礼いたします。私、フリーランスでライターをしております久野木と申します。ネットメディアの取材記事を書いておりまして」


「ご用件は」


遮られた。名乗りの途中ではなかったが、用件の前に遮られた。名前を言って、職業を言って、その先を聞く気がない声だった。


「お忙しいところ恐れ入ります。以前、椿市に住んでいらした瀬川和彦さんについて——」


「何も話すことはありません」


声の温度が変わらなかった。怒っていない。慌ててもいない。あらかじめ用意されていた文だった。この質問が来ることを知っていて、この返答を準備していた声。


「知りません」ではなかった。「間違いです」でもなかった。「何も話すことはありません」。


知っている。知っているが、話さない。「知りません」なら知らないだけで終わる。「話すことはない」は知識の存在を認めた上での拒絶だった。言葉の選び方が違う。取材の仕事で覚えたことがある。相手が何を言ったかではなく、何を言わなかったか。何を避けたか。


「和彦さんのことではなく、瀬川家のご家族について——」


「お答えすることはございません」


敬語に切り替わった。一度目の「何も話すことはありません」は常体に近かった。二度目は敬語。距離を取っている。声の硬さは変わらない。硬さの種類が変わった。最初の硬さは壁だった。今の硬さは扉を閉める音だった。


「娘さんの——」


通話が切れた。


プツ、という音もなかった。回線が途絶えて、画面に通話終了の表示が出た。通話時間は27秒。


自分が話したのは3回。相手が話したのは3回。6つの発話で、得られた情報はひとつだった。


瀬川正志は知っている。


知っていて、準備していて、すぐに出て、すぐに切った。


「何も話すことはありません」。この1文が、椿市役所の職員の声の変化とつながっていた。職員は「届出人」の名前を告げたとき、誰かに視線を送った。瀬川正志の名前の周囲には、沈黙の合意がある。話さないことを決めた人間たちがいる。


もう一度かけた。


呼び出し音。1回。2回。3回。4回。5回。留守番電話には切り替わらなかった。呼び出し音が鳴り続けている。出ない。10回で切った。


三度目をかける指が止まった。


27秒の通話を頭の中で巻き戻した。正志の声を再生した。「はい」。「ご用件は」。「何も話すことはありません」。「お答えすることはございません」。


4つの発話の中に、怒りはなかった。苛立ちもなかった。声は硬かった。だが攻撃の硬さではなかった。


1コールで出た。27秒で切った。出るのが速く、切るのも速い。


瀬川正志は14年間、この電話を待っていた。


 ◇


渉にLINEを送った。


<瀬川正志に電話をかけました。27秒で切られました。「何も話すことはありません」と言われました。知らないとは言いませんでした。話すことがない、と>


渉の返信は30秒後に来た。


<声はどうでした>


<硬い。怒りではない。怯えに近い。1コールで出た。待っていた感じがあった>


<娘のことを聞こうとした?>


<はい。「娘さんの」と言いかけたところで切られました>


<……やっぱりそうだ。分かってはいたけど、確定するとやっぱり怖いです。正志は話さない。話したら全部が出てくると分かっている>


3点リーダが先に来ていた。打ってから消して、また打ったのかもしれない。予想していたとしても、確定するのは別のことだ。渉にとっても。


<弟のスマホにも、室内の写真がありました>


話題が戻った。あの室内の写真から、渉が何か考えていたのだろう。


<同じ角度。部屋の中を上から見下ろす構図。海斗の場合はベッドとパソコンデスクが1枚におさまっていた>


<画質は>


<弟のは通常のカメラ画質でした。解像度も他の写真と同じ。手持ちで撮っている。手ぶれ補正ONで、微細なぶれが残っていた>


手持ち撮影。通常の解像度。私のとは違う。


<私のはWebカメラです。解像度が違う。レンズが違う。撮影方法が違う>


<はい。同じパターンのはずなんですが、あなたの8枚目だけが違う。正直、これが一番怖いです。同じパターンなのに手段だけ変えてくる>


渉の言葉を読み返した。同じ順番で写真が届く。屋外から室内へ、距離が縮まる。海斗のときも同じ。でも海斗の室内写真は手持ちカメラで、私の室内写真はWebカメラだった。


同じルールの中で、手段だけが違う。


<海斗のときは、室内写真の後にもう1枚来ましたか>


渉の入力インジケーターが点いた。消えた。また点いて、また消えた。三度目に点いてから、10秒以上経ってメッセージが届いた。


<来ました>


間があった。入力中の表示がまた点滅している。


<8枚目が最後です。室内で海斗が寝てるベッド。海斗がそこにいる状態で撮られてた。翌日に消えました>


敬体が崩れていた。「寝ているベッド」ではなく「寝てるベッド」。「撮られていた」ではなく「撮られてた」。


<9枚目はなかった>


<分かりません。9枚目がなかったのか、9枚目が来る前に消えたのか>


渉の「分かりません」が三度目だった。


<次の手は>


<もう少し考えます。正志を正面から崩すのは難しい。別の入り口を探します>


<了解>


スマートフォンをデスクに置いた。


窓の外を見た。午後の光がカーテンを通過して、部屋を淡い色で満たしている。さっき開けたカーテンは、また閉めていた。いつ閉めたのか覚えていない。


8枚目の写真をもう一度開いた。自分の部屋。デスク。MacBook。一二八〇×七二〇の低い解像度の中に映った、自分の顔。毎日向き合っているレンズで、知らない間に撮られた。


真奈のことが頭に浮かんだ。昨夜の通話。「来週見せてよ」。来週。


マグカップに手を伸ばした。空だった。写真の中のマグカップと、同じ形をした、同じ白い陶器の器。中身だけがない。


MacBookの画面上端を見上げた。直径3ミリの黒い点が、こちらを向いている。

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