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あの子の給食袋  作者: お寿司
第三幕 崩壊

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28/44

部屋の中から

光が変わっていた。


カーテン越しの光が白から黄色に移っている。時計を見た。7時14分。夜が明けていた。スプレッドシートの画面がデスクトップの中央に残っていて、真奈の部屋の記録が並んでいる。靴。コート。コーヒーカップ。スマートフォンなし。


最後にキーボードに触れたのがいつだったか、覚えていない。


椅子の背もたれに体重をかけた。首の後ろが痛かった。固まった姿勢のまま何時間いたのか、通話タイマーのように数えてくれるものはない。エアコンの温風が足元を通過している。22度設定。動いていない体温だけが下がっていく部屋で、夜が朝になった。


立ち上がった。台所に行った。ケトルに水を入れてスイッチを押した。冷蔵庫のコンプレッサーが低く回っている。自分の部屋の冷蔵庫だった。その音を聞くたびに、400メートル先の部屋の冷蔵庫が重なる。通話越しに聞いた振動。区別がつかなかった。


マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れた。スプーンで粉を崩しながら湯を待った。粉の表面に小さな塊がある。ふたを閉め忘れていた。いつ閉め忘れたのか。


ケトルのスイッチが切れた。湯を注いだ。黒い液面が揺れている。真奈のコーヒーカップの中にも、こういう液面があった。半分残った黒い液体。結露のない陶器の表面。


飲んだ。熱かった。舌の先が痺れるような温度で、それだけが今の時間だった。


スマートフォンを見た。LINEの通知はなかった。真奈のトーク画面を開いた。「電話に出て」が未読のまま残っている。7時間前に送ったメッセージ。7時間。真奈のLINEが7時間既読にならないことは、仕事中ならある。寝ている間ならある。でも今は仕事中でも、寝ているのでもない。


メールの通知が3件。取材先からのリマインド、経理ソフト、ニュースレター。AIスピーカーのレビュー原稿の期限が明後日に迫っている。件名だけ読んで閉じた。


渉にLINEを送った。


<起きてます。真奈のLINEは未読のままです>


1分ほどで既読がついた。渉もまだ起きているのか、もう起きたのか。


<1睡もできませんでした。こちらも変化なし。8枚目はまだですか>


<真奈のことを警察に届けるべきでしょうか>


返信が来るまでに20秒かかった。渉が20秒考えることは珍しい。


<まだ早い、と思います。……弟のときもそうだった。待つしかなかった。最悪の待ち方です>


<弟のときはどうしましたか>


<24時間は待ちました。成人が連絡を絶って半日では、警察は動けません。スマートフォンの電源が切れた、体調を崩して寝ている、急な用事で出かけた。全部、合理的な説明がつきます>


<合理的な説明がつく間は事件にならない>


<はい>


入力中の表示が長く続いた。30秒近く。渉が30秒かけてメッセージを打つことはほとんどない。


<すみません、ちょっと手が止まりました。弟のこと思い出して>


<それが一番きついところです。海斗のときも、最初の24時間が一番長かった>


渉の言葉を読んだ。「一番きついところ」。渉がこういう表現を使うことは少ない。手が止まったと素直に言う渉も珍しかった。弟のときの経験が声に戻っている。


<真奈の家族に連絡したほうがいいですか。実家の番号は知っています>


<まだやめたほうがいいです。ご家族に何を説明するんですか。代替現実ゲームのことを、説明できますか>


できない。


<警察にも届けられない。家族にも連絡できない。何もできないまま待つんですか>


送ってから、文面を見た。渉に当てている言葉ではなかった。


<すみません>


<いいです。僕も同じこと考えてました>


<PCのカメラのアクセスログを確認してください。あと、できたらWebカメラにテープ貼っといたほうがいい。今できることはそれだけです>


スマートフォンをデスクに置いた。コーヒーを飲んだ。ぬるくなっていた。さっきまで舌を焼くほど熱かったのが、もう温い。


窓のほうを見た。カーテンは閉めたままだった。朝日が布地を透かして、部屋に黄色い光を入れている。昨夜、影が見えたカーテン。あの影は何だったのか。寝ていない頭が作った幻だったのか。


カーテンに手をかけた。布地の端をつかんで、引いた。


ベランダには何もなかった。物干し竿が2本。洗濯バサミが3つ。向かいのマンションの壁が灰色に見えている。空は薄曇りで、光は拡散していて、影の方向があいまいだった。


窓を閉め直した。かぎがかかっていることを確認した。かかっていた。昨夜と同じ状態。


デスクに戻った。記事の原稿のファイルを開いた。AIスピーカーのスペックシートが添付メールの中にある。展開した。画面に製品仕様が並んだ。Bluetooth 5.3、Wi-Fi 6E対応、音声認識エンジンの応答速度が従来比40%向上。数字を読んでいた。数字を読む動作だけが、普段の自分に近かった。


3行書いた。「音声認識の応答速度が」で手が止まった。消した。


カメラロールを開いた。新しい写真はない。閉じた。スペックシートに戻った。2行目の途中でまたカメラロールを開いていた。ない。閉じる。来るのが怖いのに、来ないことが落ち着かなかった。


 ◇


カメラロールに通知が来たのは、10時23分だった。


デスクの前に座ったまま、記事の原稿を白紙の状態で眺めていた。エアコンの送風音だけが部屋の空気を満たしている。


通知のバナーが画面の上に現れた。


カメラロールへの追加。写真アプリの通知設定は変えていない。変えれば写真が来なくなるわけではない。通知を切っても、写真はカメラロールの中に入っている。


開いた。


最初の〇・5秒で、何かが違うと分かった。


これまでの写真には空が映っていた。空と建物。空と道路。空と電柱。屋外の風景には必ず空があった。7枚目の共用廊下にも、天井の蛍光灯があった。


8枚目に空はなかった。


天井があった。


白い天井。蛍光灯のカバー。長方形のカバーの端に、微かな黄ばみがある。掃除が行き届いていない蛍光灯カバーの、あの黄ばみ。


画面を下にスクロールした。全体が見えた。


自分の部屋だった。


デスクが映っている。MacBookの画面。その横にマグカップ。壁際の本棚。3段目に技術書が並んでいる。背表紙の色が見える。


デスクの前に、人間が座っていた。


正面から撮られていた。顔が映っている。自分の顔。グレーのカーディガンの襟。椅子に座った姿勢で、MacBookの画面を見下ろしている。少し俯いた角度。上から覗き込むような構図。


自分だった。


スマートフォンを持つ手が震えた。画面がぶれた。もう一度ピンチして拡大した。


間違いなかった。あのカーディガンは自分のものだった。デスクの配置。マグカップの位置。ボールペンがキーボードの横に置かれている。椅子の高さ。画面に映った自分自身の顔。


この写真の被写体は、部屋ではなかった。


私だった。


立ち上がっていた。いつ立ったのか分からない。椅子が後ろに下がって、デスクとの間に隙間ができていた。部屋を見回した。クローゼットの扉。閉まっている。ユニットバスのドア。閉まっている。玄関のドアチェーン。掛かっている。


誰もいない。分かっている。分かっているのに、廊下まで行って靴箱の横を覗いた。


椅子に座り直した。スマートフォンの画面に自分の部屋が映っている。考えろ。データを見ろ。何が分かる。


Exifデータを開いた。データを見ている間は、写真の中の自分の顔を見なくて済む。


撮影日時。今日の午前3時17分。


3時17分。真奈の部屋から帰る前だった。タクシーを呼んだのが5時過ぎ。3時17分は——昨夜、この部屋を出る前にデスクで作業をしていた時間だった。PCの前に座っていた。スプレッドシートにデータを打ち込んでいた。


その時間に、撮られていた。


次の行。カメラの機種名。空欄。いつもと同じだ。GPS情報もなし。


解像度を確認した。


目が止まった。


これまでの7枚の写真は全て同じ解像度だった。2×4ピクセル。11200画素。スマートフォンのメインカメラとして標準的なスペック。


8枚目は違った。


一二八〇×七二〇。


20090画素。


桁がひとつ違う。11200が20090になっている。解像度が13分の1に落ちている。スマートフォンのカメラでこの数字は出ない。低画素のデジタルカメラか、あるいは——


画像をピンチで拡大した。ピクセル等倍にした。


ノイズが多かった。暗部に色ノイズが浮いている。高感度のデジタルノイズではない。センサーが小さいカメラに特有の、全体に散ったざらつき。画像の隅に向かって歪曲収差がある。安いレンズの特性。


これまでの7枚とは、カメラが違う。


撮影角度に目が移った。


高い位置から撮られていた。


カメラの位置を逆算した。構図から推定すると、床から120センチ前後。テーブルの上でも、立った人間の目線でもない。中途半端な高さから、やや見下ろす角度。


部屋の中を見回した。その高さに何があるか。壁のフック。本棚の4段目。それから——


MacBookの画面を見た。


閉じた状態のMacBook。画面の上端に、小さなレンズがある。直径3ミリほどの丸い穴。Webカメラ。ビデオ通話やオンライン会議で使う、内蔵カメラ。


MacBookをデスクに置いて画面を開く。画面上端の高さを概算した。デスクの高さとヒンジの位置と画面の角度を足す。


床から115センチ前後。


写真の撮影位置と一致する。


画面を開いた角度によって、カメラの向きは変わる。画面をやや後ろに倒せば、カメラは天井を向く。画面を立てれば、正面——デスクの前に座った人間の顔を向く。


昨夜の画面の角度を思い出そうとした。スプレッドシートを操作していた。画面は少し後ろに倒していたはずだ。そのほうが首が楽だから。画面をやや後傾させた状態では、カメラは——デスクの前の人間を、少し上から見下ろす。


写真の構図と、同じだった。


椅子から立ち上がった。


MacBookの画面を開いた。電源を入れた。デスクトップが表示されるのを待つ間、画面上部の小さなレンズを見つめた。


毎日向き合っている。毎日、このレンズの前に座っている。記事を書くとき。スプレッドシートを操作するとき。メールを打つとき。オンライン取材でカメラをONにするとき。そのたびに、このレンズが私の顔を映している。


Webカメラのアクセスログを確認した。macOSのシステムレポートを開いた。カメラのアクセス履歴。最後にカメラを使用したアプリケーション——Zoom。3日前のオンライン取材。それ以降、カメラにアクセスしたアプリケーションの記録はない。


記録はない。


ログに残らない方法でカメラが起動していた。カメラロールへの書き込みと同じだった。技術で説明がつかない。


7枚は外から来た。


8枚目は最初からここにあった。


毎日開いているMacBook。毎日向き合っているレンズ。部屋に入り込む必要すらない。かぎもチェーンも関係ない。カメラは最初から部屋の中にあった。私が自分で置いた。自分で開いた。自分で向けた。


最も近い場所にある目で、撮られていた。


マグカップに手を伸ばした。指先が陶器の縁に触れた。冷たかった。コーヒーはとっくに冷めている。


渉にLINEを送った。


<8枚目です。室内です>


画像を添付した。Exifデータのスクリーンショットも3枚添えた。解像度、撮影日時。それから、画質の比較。7枚目と8枚目を並べたスクリーンショット。


<自分の部屋の中です。デスクに座っている私が映っています>


<ここまでの写真と画質が違います。解像度が1280×720。これまでは4032×3024でした>


渉の既読がつくまでに20秒かかった。画像を確認している。


<これは……>


<部屋の中から撮られてる>


間が空いた。既読のまま15秒ほど返信がなかった。


<角度を見てください>


<MacBookのWebカメラだと思います。画面上端のカメラの位置と撮影角度が一致します>


<確認しました。歪曲収差の出方がWebカメラの安価なレンズと一致します。間違いないと思います>


渉もカメラの画質特性を読んでいた。同じ結論に辿り着いている。


<これまでの7枚と撮影機材が違う>


<はい>


<1枚目から7枚目は同じカメラ。8枚目だけ別>


<PCのWebカメラ。部屋に侵入する必要がない>


渉のメッセージが短くなっていた。


<……ひとつだけ、調べたことがあります。正直、調べるのも怖かったんですけど>


<美澄の父——瀬川正志の電話番号です>


<椿市の戸籍から辿りました。固定電話。メモに控えてあります>


<送ってください>


番号が送られてきた。11桁の数字。市外局番が椿市と一致している。


画面を見つめた。この番号の先に、転出届を偽造した男がいる。


真奈のLINEを開いた。「電話に出て」が未読のまま残っている。8時間。


写真をもう一度開いた。自分の顔。グレーのカーディガン。デスクの上のマグカップ。一二八〇×七二〇の低い解像度の中に、知らない間に撮られた自分がいる。


外から来る恐怖なら、かぎをかければいい。窓を閉めればいい。


Webカメラは、自分で開いた。

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