いた痕跡
4:23。
スピーカーに切り替えた。指が画面の上を滑って、一度タップを外した。二度目で切り替わった。
真奈の部屋の音が、私の部屋に流れ込んだ。
冷蔵庫のコンプレッサーが回っていた。
低い振動音。一定のリズム。真奈のアパートの冷蔵庫が動いている音だった。通話の回線を通って、400メートル先の冷蔵庫の音が、私のベッドの上に広がっていた。
「真奈。真奈。電話に出て」
スピーカーから私の声が跳ね返ることはなかった。冷蔵庫の低い振動だけが、一定の周波数で鳴り続けていた。
4:58。4:59。5:00。
5分間、冷蔵庫だけが答えていた。
名前を呼んだ。何回呼んだか覚えていない。声の大きさが一定だったかも分からない。通話タイマーの数字だけが確実に動いていた。
5:34。5:35。
冷蔵庫の振動が止まった。
沈黙が変わった。低い唸りがなくなって、通話の向こう側が完全な静寂になった。回線だけがつながっている。何もない空間に向かって、回線が開いている。
名前を呼んでも、誰もいない部屋に声が吸い込まれていった。回線の向こうに何かが残っているはずだった。真奈が触ったもの、真奈が座った椅子、真奈が飲みかけたコーヒー。全部あるはずなのに、スピーカーからは何も返ってこなかった。
6:12。6:13。
バッテリーを見た。73パーセント。充電器はデスクの上にある。ケーブルを差せば朝まで持つ。朝まで持つ必要がある。朝まで通話を切らなければ、つながっている。つながっていれば、真奈はどこかにいる。切ったら終わる。切ったら確定する。
確定させたくなかった。
6:41。
コンプレッサーが再び回り始めた。去年、真奈の部屋で映画を見たとき、静かなシーンでこの音が聞こえて、真奈が「うるさいよねこれ」と笑った。
今は笑っていない。
今は何もしていない。
7:15。7:16。
スマートフォンをスピーカーのまま枕の横に置いた。ベッドの端に座った。膝の上に両手を置いた。指が震えているのか、膝が震えているのか、区別がつかなかった。真奈の部屋の温度は分からない。通話越しに温度は伝わらない。
赤いボタンを押せば冷蔵庫の音は消える。静かな自分の部屋に戻れる。でも通話タイマーの数字が増え続けている限り、真奈の部屋と私の部屋はつながっている。つながっていれば、まだ何も確定していない。
8:02。8:03。
「真奈」
自分の声が掠れていた。8分間、名前を呼び続けた喉だった。
8:30。
通話が切れた。
私が切ったのではなかった。画面が暗くなって、通話終了の表示が出た。相手側の通信が途絶えたのか、回線のタイムアウトなのか、分からなかった。通話時間は8分32秒と表示されていた。
8分32秒。そのうち真奈の声が聞こえたのは最初の3分41秒まで。残りの4分51秒は冷蔵庫と沈黙だった。
スマートフォンの画面が暗くなった。部屋にエアコンの送風音だけが残った。
かけ直した。呼び出し音が鳴った。1回。2回。3回。4回。5回。留守番電話サービスに切り替わった。真奈の声で録音されたメッセージが流れた。「相沢です。出られないので後でかけ直します」。後でかけ直す。後でね。
切った。もう一度かけた。同じだった。5回の呼び出し音と、真奈の録音された声。
LINEを開く。
<電話に出て>
送信した。既読はつかない。
もう一度電話をかけた。
呼び出し音が2回鳴って、つながった。
留守番電話ではない。回線が開いた。空気の動く音がして——何かが聞こえた。
硬いものが床に当たるような、短い音だった。
それから切れた。
スマートフォンを耳から離す。今の音を頭の中で再生しようとした。硬いもの。床。何が落ちたのか。誰が落としたのか。
もう一度かけた。留守番電話だった。
画面の時計を見た。2時28分。最初の着信が2時17分。11分前のことだった。11分の間に、真奈がいなくなった。
立ち上がった。部屋の中を歩く。廊下の電気をつけた。蛍光灯の白い光が目に刺さる。玄関のチェーンを確認した。かかっている。ドアスコープを覗いた。外廊下に誰もいなかった。
デスクに戻った。椅子に座る。スマートフォンを握ったまま、何をすればいいのかを考えた。
警察に電話する。深夜の2時半に、「友人と電話で話していたら途中で声がしなくなった」と伝える。成人の女性が電話に出なくなって11分。事件性があるかどうか。スマートフォンの電池が切れた可能性がある。眠ってしまった可能性がある。可能性で説明できることを、警察は事件とは扱わない。
仮に事件として取り合ってもらえたとして、何を通報するのか。ある代替現実ゲームを調べていて、写真がカメラロールに届くようになって、距離が1枚ずつ縮まっていて、友人と電話中に声がしなくなった。どこから説明を始めればいいのか、見当がつかなかった。渉の弟のことを話すのか。瀬川のアパートを話すのか。13日のルールを。
説明の最初の1文が作れなかった。
渉にLINEを送った。
<真奈と電話していました。通話中に声がなくなりました。いなくなったかもしれません>
2時31分。送信した。渉がこの時間に起きている確率は高かった。SEの仕事を日中に片付けて、夜から朝にかけて調査をしている人間だった。
既読がすぐについた。
<嘘でしょう>
3秒後にもう1通。
<電話はつながっていますか>
<つながりません。留守番電話になります>
<いつからですか>
<2時17分に着信がありました。通話中に物音がして、声がなくなりました。通話タイマーは8分32秒で切れました>
<3回かけ直しました。3回目だけ一瞬つながって、何か硬いものが落ちるような音がしました。それだけです>
渉の返信が来るまでに10秒ほどかかった。いつもは2、3秒で返ってくる。
<その音、録音はありますか>
なかった。通話の録音はしていない。
渉が何かを打ちかけて消した。入力中の表示が出て、消えて、もう一度出た。
<ひとりで向かえますか。アパートに>
<向かいます>
◇
立ち上がる。パジャマの上にコートを羽織った。靴下を履いて、財布とスマートフォンをコートのポケットに入れた。紙ナプキンの3角形に指が触れる。
かぎを持って玄関に立った。チェーンを外した。ドアを開ける。外廊下の蛍光灯が白い。階段を降りた。エントランスを出た。11月の夜気が首筋に当たった。
タクシーを呼んだ。配車アプリで、現在地と真奈のアパートの住所を入力する。到着予定3分。
待っている間にもう一度電話をかけた。留守番電話。真奈の声。「後でかけ直します」。
タクシーが来た。乗る。運転手に住所を伝える必要はなかった。アプリに入力済みだった。車が動き出して、窓の外を街灯が流れていく。
深夜の道路は空いている。信号が黄色で点滅している交差点をふたつ通過した。ビルの間を抜けて、住宅街に入る。真奈のアパートまで7分。運転手はラジオを小さな音量でかけていて、天気予報が流れていた。明日の東京は晴れ。最低気温は5度。
スマートフォンを見た。LINEに真奈からの返信はなかった。渉から1件。
<アパートに着いたら連絡ください。何もなければそれで良いです。何もないことを祈ってます>
何もなければ。真奈がドアを開けて、寝ぼけた顔で「どうしたの」と言えば、それで良い。電話の途中で眠ってしまったか、スマートフォンを落としたか、充電が切れたか。合理的な説明はいくつでも作れる。
タクシーが止まった。運賃を払って降りた。真奈のアパートの前だった。
3階建ての細長い建物だった。外壁のタイルが一部欠けている。エントランスにオートロックはない。共用廊下の蛍光灯が1本切れていて、手前が暗かった。
階段を上がった。3階。真奈の部屋は3号室だった。廊下を歩いた。靴底がコンクリートに当たる音がした。1。2。3。
ドアの前に立った。表札はない。真奈は表札を出さない人だった。「宅配便の人が名前見て覚えるの嫌」と言っていた。
チャイムを押した。2回。
返事がなかった。
ドアノブに手をかけた。回った。かぎがかかっていなかった。
ドアを開けた。
玄関の暗がりに、靴があった。スニーカーが1足と、ブーツが1足。スニーカーは今日カフェで履いていたやつだった。白いキャンバス地。揃えて置いてある。
足が止まった。カフェで見たのと同じスニーカーが、暗い玄関に揃えてある。ここにいたのだ。ここにいて、いない。廊下の奥から真奈の生活の匂いがした。柔軟剤と、コーヒーと、少しだけ甘い何か。匂いだけが残っている部屋に入ろうとしていた。
「真奈?」
声を出した。靴を脱がずに上がる。
廊下が短い。2歩で部屋に出た。
電気がついていた。デスクライトだった。デスクの上でMacBookが開いている。画面にロゴの配色案が並んでいた。5番目のロゴが左上にあった。シンプルな図形で、カラーパレットとの整合性が——見ている場合ではなかった。
MacBookの横にコーヒーカップがあった。白い陶器のマグカップ。中に黒い液体が残っている。量は半分ほど。カップの縁に口紅の跡はない。真奈は家では口紅を落とす。
冷蔵庫が回っていた。
通話越しに聞いた音と同じだった。低い振動。一定のリズム。さっきはスピーカーから聞こえていた音が、今は2メートル先から直接聞こえている。
部屋を見た。ベッドは使われていた。毛布が半分めくれている。枕に頭の跡が残っていた。寝ていて、電話をかけて、通話中に何かがあった。
デスクの横にデュアルモニターのアームが見えた。モニターの電源は落ちていた。キーボードの手前にメモ帳が開いていて、ボールペンが転がっている。メモにはロゴの修正案のスケッチが走り書きされていた。真奈の字は小さくて、角がはっきりしている。
スマートフォンを探した。ベッドの上。枕の横。デスクの上。見当たらなかった。充電器のケーブルがデスクの端から垂れている。先端にスマートフォンは接続されていない。
トイレ、風呂場、クローゼット。全部開けた。どこにもいない。
椅子の背に黒いコートがかかっている。カフェで着ていたやつだった。帰宅して、靴を脱いで、コートを椅子にかけて、着替えて、仕事をして、コーヒーを飲んで、寝て、起きて、電話をかけた。
全部揃っていた。靴がある。コートがある。仕事道具がある。コーヒーが半分残っている。ベッドに寝た跡がある。
真奈だけがいない。
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。胸の上のほうで空気が止まる。もう一度吸った。今度は入った。吐くときに音が出た。自分の呼吸の音が、真奈の部屋に響いた。
部屋の中に争った形跡はなかった。家具が動いた跡もない。窓は閉まっている。かぎも閉まっている。玄関のドアだけが開いていた。かぎをかけずに出たのか、誰かが開けたのか。玄関の3和土に、靴が揃ったままだった。
コーヒーカップに触れた。陶器がまだぬるかった。飲んでからそれほど時間が経っていない。
何を計算しているのか。コーヒーの温度から経過時間を推定して、それがどうなるのか。真奈がどこに行ったか分かるのか。焦点距離を計算したときと同じだった。数字を出して、数字を並べて、数字の中に答えを探す。答えはなかった。
渉にLINEを送った。
<アパートに着きました。真奈はいません。靴もかぎもあります。スマートフォンが見当たりません。部屋は荒らされていません>
送信した。部屋の中央に立っていた。
渉の返信が来るまでに時間がかかった。既読は2時42分についている。返信が来たのは2時43分。1分間、渉は画面を見ていたことになる。
<弟のときと同じです>
「同じ」の後に読点が入っていなかった。渉のメッセージにはいつも読点がある。この1文だけ、句点で閉じただけだった。
10分だった。
もう一度部屋を見た。デスクライトの光。MacBook。コーヒーカップ。メモ帳のスケッチ。ベッドの毛布。窓のカーテン。真奈が生活していた部屋のすべてがここにあった。真奈がいた証拠が、すべて残っていた。
いた痕跡だけの部屋だ。
部屋を出る。ドアを閉めた。かぎはかからない。真奈のかぎを探して持ち出すことはしなかった。靴を履いて、階段を降りる。
外に出た。空気が冷たい。東の空が白み始めていた。5時を過ぎている。タクシーを呼んだ。待っている間に、もう一度真奈に電話をかけた。
留守番電話。「相沢です。出られないので後でかけ直します」。
後でね。
タクシーが来た。
◇
マンションの廊下を歩く。かぎを出した。ドアを開ける。チェーンはかけたまま出たから、隙間しか開かなかった。手を入れてチェーンを外した。
部屋に入った。靴を脱ぐ。コートを椅子にかけた。さっきまで真奈の部屋でやっていた動作と同じだった。帰宅して、靴を脱いで、コートをかける。真奈も私も同じことをする。
窓の外が明るくなっていた。カーテンの隙間から朝の光が細く入っていた。
渉にLINEを送った。
<帰りました>
<真奈さんのアパートの状況を記録してください。覚えているうちに>
記録。靴。コート。MacBook。ロゴの配色案。コーヒーカップ。半分。デュアルモニター。メモ帳。ボールペン。ベッドの毛布。充電器のケーブル。スマートフォンなし。トイレのドア半開き。風呂場乾燥。窓閉鎖。玄関ドア無施錠。
スプレッドシートを開いて入力した。手が動いた。データを入力する手順は体が覚えていた。
入力しながら、コーヒーカップのぬるさを思い出していた。Exifと同じだ。撮影距離も推定。コーヒーの温度も推定。真奈がいなくなった時刻も推定。全部が推定で、確定しているのは真奈がそこにいないという事実だけだった。
カーテンの向こうで、鳥が鳴いた。朝が来ている。
窓に目を向けた。
カーテンは閉めたまま出た。閉めたまま帰ってきた。カーテンの裏側に、朝日の輪郭が広がっている。
その輪郭の中に、影があった。
窓の外に、何かの影が映っている。カーテン越しだから形はあいまいだった。人間の形に見える。立っている形に見える。窓のすぐ外に、何かが立っているように見えた。
マンションの5階だった。窓の外に人間が立つことはできない。ベランダがある。ベランダに人間が立つことはできる。ベランダの窓は施錠してある。出かける前に確認した。
影が動いた。
寝ていないのだと思った。思おうとした。真奈の部屋から帰ってきたばかりだった。2時間以上、一度も座っていなかった。目が疲れている。光の加減が影を作っている。
カーテンを開ける気にはなれなかった。
デスクに座った。スプレッドシートの画面に目を戻した。入力した行を読み返した。真奈の部屋の記録。靴。コート。コーヒー。日付は今日。時刻は2時48分から5時13分の間。
渉にLINEを送った。
<記録しました>
渉の返信。2通に分かれていた。
<また同じことが起きてる>
<今日中に警察に相談してください。真奈さんの件と写真の件を分けて、まず行方不明として届け出る。写真は証拠として別に持っていく。僕も弟の件で動きます>
7枚目。
まだ来ていなかった。6枚目は1昨日の午前3時17分。7枚目はまだ来ていない。写真のタイミングには規則性がある。毎日1枚ずつ。次は今日中のどこかで届く。
椅子の背もたれに体を預けた。天井を見た。蛍光灯は消えている。カーテン越しの朝日だけが部屋を照らしている。11日目の朝。真奈がいない。残り2日。
窓の外の影は、もう見えなかった。
真奈のLINEのトーク画面を開いた。最後のメッセージは私が送った「電話に出て」だった。未読のまま残っている。その上に「おやすみ〜」がある。その上に「来週ね。約束だよ」がある。
5番と9番。来週見せてもらう約束だった。
スマートフォンを伏せてデスクの上に置いた。台所のほうで低い振動が鳴っている。自分の部屋の冷蔵庫だった。真奈の部屋ではなかった。同じ音が、別の場所で鳴っている。
しばらくそのまま座っていた。
スプレッドシートのカーソルが点滅している。データは入力した。記録は残した。渉に報告した。やるべきことは全部やっている。
スマートフォンを裏返した。
画面に通知はない。真奈からの返信も、渉からの追加メッセージもなかった。時刻は5時47分。
カメラロールを開いた。確認するつもりはなかった。指が勝手に動く。写真アプリのアイコンをタップして、ライブラリが開いた。
最新の写真が表示されていた。
昨日の写真ではなかった。
撮影日時は今日の3時12分。真奈と通話中の時間だった。
金属だった。
画面の中央に、銀色のレバーハンドルが大きく映っている。ピントが取っ手に合っていた。金属の表面の細かい傷まで見える。背景はぼけている。蛍光灯も、隣の扉も、輪郭を失っている。
ドアの取っ手。
撮影者がすぐ近くにいなければ、この被写界深度にはならない。
取っ手に触れようとしている距離だった。あと数センチ。写真の中に手は映っていない。映っていないのに、フレームの外から伸びている。
この写真の次があるとしたら、取っ手が下がる。
ドアの横に部屋番号がある。ぼけた背景の中で、数字だけが読めた。
3。
真奈と電話していたとき、何かがドアの向こうにいた。
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