来週の約束
眠れなかった。
エアコンの風が天井の隅で回っている。22度の設定は変えていない。毛布を肩まで引き上げて、仰向けのまま、カーテン越しの街灯の光を見ていた。ぼんやりとした黄色い光が天井の端に4角い影を作っている。車が通ると影が動く。通り過ぎると戻る。それを何度も繰り返していた。
6枚目の写真が頭にある。見上げの構図。外壁のタイルと駐車場の屋根と、2階の窓に点いた小さな明かり。午前3時17分。眠っている間に撮られて、夕方まで気がつかなかった。あの距離は、そのまま残っている。
部屋が狭く感じた。天井が低くなったわけではない。壁が迫ってきたわけでもない。でもワンルームの6畳がいつもより小さかった。
時計を見た。〇時14分。日付が変わっていた。11日目。残り2日。
ポケットの中の紙ナプキンの3角形を思い出した。コートのポケットに入れたまま、椅子の背にかかっている。星にはなりきれなかった3角形。真奈の手癖。
真奈からのLINE返信はまだ来ていなかった。16時半に送ったメッセージに、8時間近く既読がついていない。CI案件の修正。ロゴの配色。クライアントとのミーティングが3時から入っていて、そのまま作業に入ったのだろう。真奈は仕事に入ると連絡が途切れる。去年の夏に名刺のデザインを3日間やっていたときは、LINEの返信が48時間止まった。
寝返りを打つ。毛布が身体に巻きついて、右足が外に出た。素足にシーツの端が触れる。冷えた布だった。引き戻した。
窓の外で風が鳴った。マンションの壁と隣の建物の隙間を、風が通り抜ける音だった。冬が近づくとこの音が増える。去年も聞いた。1昨年も聞いた。毎年同じ音がする。建物は変わらない。
冷蔵庫のコンプレッサーが切れた。低い振動が消えて、部屋が一段階静かになった。エアコンの送風音だけが残った。
スマートフォンの画面が光った。
枕元のスマートフォンを手に取った。LINEの通知。真奈の名前。
<遅くなってごめんねー!CI修正やっと終わった。ロゴの色が決まらなくてクライアントと3回やり直した笑 もう目がチカチカする>
〇時23分。真奈は起きている。仕事をしていた。ロゴの色を3回やり直していた。いつもの真奈だった。
<目、大丈夫?>
送った。既読がすぐについた。
<大丈夫〜 ブルーライトカットのメガネ買おうかなってずっと言ってる笑>
<去年も言ってた>
<来年も言ってると思う>
真奈の返信が速い。仕事が終わって、テンションが上がっている。締め切り後の開放感。フリーランスが一番饒舌になる時間帯だった。
<ねえ、今日カフェで言いそびれたんだけど、CI案件のクライアントがさあ、ロゴの候補を12個出せって言うのよ。12個。そんなに出したら全部似てくるに決まってるのに>
<12個は多いね>
<多い。多いけど出した。出したら案の定『どれも似てますね』って。当たり前だよ。12個も出したら似るに決まってるでしょ>
真奈の愚痴だった。仕事の愚痴。クライアントの無茶振りへの怒り。その怒りは本物で、真奈は本気で怒っていて、その怒り方が好きだった。
画面を見ながら、カフェでの真奈の顔を思い出した。黒いタートルネック。アイスラテのストローを回す指。「見られてる気がする」と笑った顔。
6枚目の写真のことを伝えられる。LINEなら文字だから、声が震えない。瀬川和彦のフォロワーリストに真奈の名前があったことを説明できる。
指がキーボードの上で止まった。
何を打つのか。LINEで。深夜の〇時半に。真奈がCI案件を終えて解放されたばかりの時間に。「あなたの名前が失踪した制作者のフォロワーリストにあって、私の自宅の前が撮影された写真が6枚来ていて、撮影距離が1枚ごとに近づいている」と。
伝えたところで、真奈が何をできるのかも分からなかった。私にもできることがない。渉に報告して、写真のExifを読んで、チェーンをかけて寝る。それしかしていない。
<静ちゃん寝た?>
真奈のメッセージが来た。
<起きてる>
<じゃあ聞いて。12個のロゴの中で一番良かったのは何番だと思う? 5番。5番なのよ。5番が一番シンプルで、カラーパレットとの整合性が高くて、名刺に載せたときのサイズ感もちょうどいいの。でもクライアントは9番を選んだ。9番。9番はねえ、悪くはないんだけど、細い線が多すぎて小さくするとつぶれるの>
<5番のほうがいいって提案した?>
<した。したけど『9番の方がインパクトがあるので』って。インパクトって何。名刺のインパクトって何>
口の端が動いた。声は出さなかった。毛布の中で、スマートフォンの画面の光が顔を照らしている。
<来週会ったときに見せてよ。5番と9番>
<見せる。見たら分かる。5番のほうがいいから>
送った後、真奈の返信が少し遅れた。30秒ほどの間があった。
<来週ね。約束だよ>
<約束>
<じゃあ寝るね。おやすみ〜>
<おやすみ>
真奈のアイコンがオフラインになった。LINEの画面を閉じた。スマートフォンを枕の横に戻した。
〇時41分。真奈は寝る。ロゴの色を3回やり直して、12個の候補を出して、5番が一番いいのにクライアントは9番を選んで、それに怒って、愚痴を言って、寝る。真奈の1日はそうやって終わる。普通の1日。仕事があって、不満があって、来週の約束がある1日。
伝えなかった。
エアコンの風が顔に当たった。22度。毛布を顎まで引き上げた。天井の街灯の影が揺れている。
目を閉じた。橋の夕日は出てこなかった。瀬川の名前も出てこなかった。真奈のロゴの話が頭の中に残っていた。5番と9番。来週見せてもらう。来週。
◇
眠りかけていた。
意識の輪郭が溶けていく感覚があった。毛布の重みと体温が混ざって、自分の身体の境界があいまいになる。エアコンの低い唸りが遠くなって、それも遠ざかって——
スマートフォンが鳴った。
着信。バイブレーションが枕の横でブザーのように震えた。
目が開いた。天井が暗い。蛍光灯のジー音。時計の数字が視界に入った。2時17分。
画面を見た。
真奈。
着信。通話。LINEではなく電話だった。
真奈が深夜の2時17分に電話をかけてくることは、5年の付き合いの中で一度もなかった。LINEは深夜でも来る。スタンプが明け方の4時に届いたこともある。でも電話は昼間にしかかかってこない。
通話ボタンを押した。
「真奈?」
「——静ちゃん」
声が速かった。普段の真奈より速い。息が浅い。パニックではない。走った後のように聞こえるが、たぶん走ってはいない。興奮しているのか、怯えているのか、その中間の声だった。
「どうしたの」
「ごめん。起こした」
「起きてた」
嘘だった。眠りかけていた。嘘をついた理由は分からない。
「あのね」
真奈が息を吸った。電話越しに空気が動く音がした。
「今日の昼、カフェで話したでしょ。見られてる気がするって」
「うん」
「あの人、また見た」
体が起きた。仰向けのまま、ひじで上半身を持ち上げた。毛布がずれた。
「見たって——」
「さっき。窓から。コンビニの方を見たら、道路の向こうに立ってた。男の人。コート着てて。手に何か持ってた」
「何か」
「カメラ。カメラだと思う。黒くて、首からぶら下げてた。あの距離で見間違えるかもしれないけど、でもカメラだった。レンズの部分が光ってた」
真奈の声は速いが、言葉を選んでいた。見たことを正確に伝えようとしている。デザイナーの目だった。色と形と距離を報告している。
「静ちゃんのマンションの方、撮ってた」
指先が冷えた。エアコンは動いている。22度の空気が部屋を循環している。指先だけが温度を失っていた。
「私のマンションの方?」
「うん。私のアパートの窓から見えたの。コンビニの前の通りに立ってて、向きがそっちなの。静ちゃんのマンションって、うちから見て北東でしょ。あの人、そっち向いてカメラ構えてた」
真奈のアパートから私のマンションまでは直線距離で400メートルほどだった。間に道路と住宅がはさまっている。真奈の部屋は3階で、窓から北東の方向を見ると、確かに私のマンションの辺りが見える。
「真奈、それ何時頃」
「2時ちょっと前。トイレに起きて、なんとなく窓の外見たの。そしたらいた」
2時ちょっと前。30分前のことだった。
「今もいる?」
「分からない。最初に見たとき5分くらいそこにいて、それから動いた。歩いて行った。どこに行ったかは見えなかった。暗いから」
真奈が深呼吸した。長い息だった。
「ねえ、これ警察に言ったほうがいいのかな」
「真奈」
「何」
言葉を探していた。真奈に何を伝えるべきなのかを、頭の中で組み立てようとしていた。写真のこと。6枚目のこと。距離が縮まっていること。渉のこと。弟が消えたこと。サイトのこと。13日のこと。
何も組み立たなかった。電話で伝えられる量ではなかった。
「明日、会えない?」
「明日?」
「直接話したいことがある。電話じゃ——」
電話の向こうで、音がした。
何の音だったか分からなかった。金属音ではない。木が鳴る音でもない。何かが擦れたような、空気が動いたような、分類できない音だった。
真奈の声が変わった。
それまで私に向いていた声が、別の方向を向いた。受話器から口が離れたのが分かった。声量が下がって、でも完全には聞こえなくならない距離。部屋の中で振り返ったのだと思った。
「……真奈?」
返事がなかった。
2秒。3秒。
真奈の声が遠くで聞こえた。受話器から離れた方向に向かって、誰かに話しかけている。
「ねえ、そこに誰か——」
声が止まった。通話は続いている。
画面を見た。通話タイマーが動いている。3:42。3:43。接続は維持されている。電波は途切れていない。
「真奈」
声を出した。通話口に向かって名前を呼んだ。
返事がなかった。
3:51。3:52。
スマートフォンを耳に押し当てた。右耳の軟骨にガラス面が当たって、自分の脈拍が聞こえた。その奥に、通話の回線が生きている音があった。わずかな電子ノイズ。接続の証拠。
「真奈」
もう一度呼んだ。
4:07。4:08。
通話の向こうに、音がなかった。声がなかった。呼吸もなかった。回線は開いている。通話タイマーは進んでいる。でも向こう側に、人間の気配がなかった。
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