第9話 ミアの人形の青い目
夜明け前に陛下宛ての短い手紙を書き、クラウスの鍵束と一緒にグスタフに託した。
昼過ぎに戻ってきた返事は、わずか一行。
――明晩、宝物庫へ参る。王太子も連れてゆく。
陛下の字を見るのは初めてだ。
角張っていて筆圧が強く、最後の一画だけがわずかに震えている。
ありがたい話のはずなのに、俺は自分の部屋の窓辺で半日ぼんやりしていた。
窓の外に北棟の屋根が見える。
あの下に、半分が偽物の宝物庫がある。逃がしたクラウスと、手袋の財務卿と、耳元で囁かれたあの台詞。
思い出すたびに胃の奥がきゅっと縮む。
びびってるのか、俺は?
びびってるさ。前世では刃物を持った強盗に店先で凄まれたこともあるが、あのときは警察を呼べば済んだ。
この国で一番偉い警察は十年も俺と目を合わせなかった父親なのだ。
おまけに、昨夜は詰めを誤った。
扉の外まで読んでいれば、今ごろクラウスは牢の中で洗いざらい白状していたはずなのに。
気を紛らわそうと、机の上の査定書の束をめくってみる。
三十一品。前世の相場で値を付けたら、いくらになる?
王冠一つで、北千住の駅前のビルが丸ごと買える。そう計算したところで、馬鹿らしくなってやめた。
国の宝を金に換算して落ち込むなんて、質屋の悪い癖もここに極まれりだ。
扉が控えめに叩かれたのはそのときだった。
「リオお兄さま……いる?」
◇
ミアは青い目の人形を抱えて、部屋の入口で俺の顔をうかがっていた。
「どうしたの、ミア」
「侍女たちがね、リオお兄さまが朝からお部屋にこもってるって。……元気、ないの?」
九つの妹に心配されるとは、五十八年分の人生経験も形無しだ。
頬をかきながら手招きすると、ミアはとことこ寄ってきて、俺の膝の上に人形を載せた。
「はい、もう一回量って? 量ると、リオお兄さま元気になるでしょ?」
まいったね。
この子は俺のことをよく観察している。
人形を手に取ると、目盛りが滑った。千九百二十粒。七日前と同じだ。
それから、あの夜に引っかかったことを思い出す。
ガラス玉にしては目の石がやけに重かった。
「ねえミア、この目って取れる?」
「取れるよ! ここ、くるってすると外れるの。お母さまには内緒ね!」
王妃様に内緒、ね。人形の目を勝手に外す九歳と、それを手伝う十五歳。見つかったら二人まとめて叱られる案件である。
ミアが人形の頭の後ろの留め金をひねると、青い目の石が一つ、ころりと手のひらに転がり出た。
小指の爪ほどの、楕円形に研磨された石だ。
三十一粒。
グラムに直せば二グラムと少し。
部屋の水差しから杯に水を満たし、皿の上でそっと石を沈める。
あふれた水を慎重に集めて計量すると、八粒弱。
三十一を八で割ると、ほぼ四。
……ちょっと待て。うそだろ?
ガラスなら水の二倍半にしかならない。四倍の重さがあって、この深い青。光にかざせば、内部に絹糸のような細い筋がかすかに見える。天然の青玉に特有の内包物だ。
「ミア、これガラスじゃないよ」
「えっ?」
「青玉だ。本物の、それもかなり上等な」
前世の言い方なら、サファイア。
この大きさと色なら、店の金庫の一番奥に厳重に保管する品だ。九つの女の子の人形の目に入れておくような代物では絶対にない。
「ほんもの……? じゃあ、ミアの人形、えらい?」
「えらいなんてもんじゃないって。宝物庫の半分より、こっちのほうがよっぽど本物だ」
「じゃあミア、今日からこの子のこと『ほんもの』って呼ぶ!」
「いい名前だね。……いや、本当にいい名前だよ」
ミアが得意げに人形を抱きしめた、そのときだった。
「……やはり、ここにいたのね。ミア」
◇
開いたままの扉のところに、王妃カタリーナ様が立っていた。
背筋のまっすぐな、冷ややかな美貌の人だ。
側妃の子の俺にとっては、昔から少し遠い存在である。嫌われているわけではないと思う。ただ、親しく言葉を交わした記憶もない。
「お、お母さま! これはね、リオお兄さまに元気を……」
「分かっています」
王妃様は部屋に入ってくると、俺の手のひらの青い石に視線を留めた。
その目元がかすかに和らいだ気がした。
「……量ったのですね、リオネル?」
「は、はい。すみません、勝手に外してしまって……」
「構いません。それは、あなたのお母さまがミアに贈ったものですから」
息が止まった。
「……母が?」
「ミアがまだわたくしのお腹にいた頃、エレナが自分で縫って、目だけは本物を入れたのです。『生まれてくる子が大きくなったら、量ってごらんなさいと伝えてくださいね』と言って。……あの人は、ミアの顔を見ることなく逝ってしまったけれど」
王妃様は窓辺の椅子に腰を下ろし、俺の顔を正面から見た。
「覚えていないでしょうけれど、エレナは何でも手のひらに載せて重さを当てる遊びが好きでした。わたくしの指輪も、扇も、焼き菓子も。一度も外さなかったわ」
どっちが重い?
母の声が耳の奥でよみがえる。
木の実と小石。銀貨と銅貨。小さな手のひらに何かを載せては、母はそう訊いた。
当たれば褒めてくれて、外れれば一緒に首をかしげてくれた。
そして最後に、この指輪を載せて言ったのだ。
「これはね、リオ。重さの約束なのよ」
意味は分からなかった。いまも分からない。
「あの人は、天秤通りの両替商の娘でした。ベック家という、古い家の」
天秤通り。
王都の下町の、両替商が軒を連ねる通りの名前だ。行ったことはない。だが、その名を聞いただけで胸の奥がざわついた。
母は平民の側妃だった、とだけ聞かされて育った。
どこの誰の娘なのか、誰も教えてくれなかったし、俺も訊かなかった。訊けば、また陛下が遠くを見る気がしたからだ。
「どうして、今まで……」
「誰も訊かなかったからです。陛下は、あの人の話になると黙ってしまわれるので」
王妃様はどこか寂しげに目を伏せた。
「わたくしはね、エレナが好きだったのよ。宮廷でただ一人、わたくしに本音で物を言う人だった」
膝の上で、ミアが俺の袖をきゅっと握る。
手のひらの青い石がランプの光を吸い込んで深く光った。
母のことを記憶している人が、こんなに近くにいた。
その事実に胸が熱くなるのと同時に、喉の奥が焼けるように痛んだ。十年間、俺はそれを知ろうともしなかったのだ。
「……ありがとうございます、王妃様」
声が震えないようにするのが精一杯だった。
俺は青い石を、ミアが抱いた人形の目にそっと戻した。
王妃様は立ち上がり、人形を抱いて眠そうに目をこするミアの手を取った。
扉の前でふと足を止め、こちらを見る。
「リオネル。あなた、目元がエレナにそっくりね」
扉が閉まった。
しばらく、俺は身動きできなかった。
陛下は、母の話になると黙ってしまう。
ということは、もしかして。
あの人が十年、俺の顔を見るたびに遠くを見ていたのは、俺が嫌いだったからじゃなくて――。
そこまで考えて、首を振った。
都合のいい想像は、質屋の査定で一番やっちゃいけないことだ。品物は量ってみるまで分からない。
首の鎖の指輪を握る。
百粒ちょうど。重さの約束。天秤通り。ベック家。
ばらばらだった小さな重さが、手のひらの上で少しずつ一つの形にまとまり始めていた。




