第8話 副管理官クラウス、逃げる
四日前から俺は毎晩、宝物庫を出る前に大目録の重さを量っている。
四万六千二百十粒。
百年前の羊皮紙と、革の表紙と、真鍮の留め金。その全部をひっくるめた重さだ。
一粒でも違っていたら、誰かが中身に手を入れたことになる。
大げさだって?
そうかもしれない。だが質屋の帳場で一番狙われるのは、品物そのものじゃなくて台帳なのだ。
何をいくらで預かったか。その記録さえ書き換えてしまえば、品物が消えても誰も困らない。前世でも、盗品を流す連中が最初に欲しがるのはいつだって店の台帳だった。
宝物庫で言えば、大目録がそれに当たる。
王冠は一万二千粒と書いてあるこの一冊がある限り、偽物はいつまでも偽物だ。
逆に言えば、向こうが次に狙うのはここしかない。
回廊で宝剣の正体をばらし、昨日は厨房の錘まで暴いた。
財務省の連中は、そろそろ尻に火がついている頃だろう。
◇
七日目の夜、俺はグスタフと二人で第二室の暗がりに身を潜めた。
ハインツにはいつもどおり宵のうちに詰所へ引き上げてもらい、樫の扉にも普段どおり鍵をかけてある。
違うのは、その内側に第七王子と近衛騎士が一人ずつ、息を殺して座り込んでいることだけだ。
石の床が冷たい。
本当に来るのか? 来なかったら、ただの寒い夜更かしだ。
いや、来る。前世の店先で、追い詰められた客がどう動くかは嫌というほど見てきた。
暗闇の中ですぐ隣から小さな音がした。
さく。
「……ちょ、グスタフ」
「…………は?」
「今、焼き菓子食べたよね?」
「……夜は、長いので」
声をひそめて抗議すると、大男は懐から菓子をもう一つ取り出して俺の手に握らせた。
四百二十粒。昨日、厨房から届いたやつだ。
怒る気が失せて、俺も一口かじる。蜂蜜の甘さが冷えた体にじんわり染みた。
こんなときに何をしているんだか、と自分に呆れる。だが不思議と、膝の震えは止まっていた。
真夜中を回ったころ、鍵穴に金属の擦れる音がした。
一枚目の鉄の扉が開き、二枚目の青銅の扉が開き、最後に樫の扉が、きい、と細く開く。
ランプの光が一筋、床を這った。
入ってきたのは痩せた男の影だ。撫でつけた髪に几帳面な歩き方、脇には革の包みを大事そうに抱えている。
クラウスだった。
おいおい、本当に来やがった!
心臓が喉まで跳ね上がる。読みが当たった嬉しさと当たってほしくなかった気持ちとが、同時に押し寄せてきた。
男はまっすぐ第一室の台へ向かい、大目録を手に取った。
そして包みからそっくり同じ革表紙の本を取り出して台の上に置き換える。
迷いのない手つきだった。何度も頭の中で予行演習してきた動きなのだろう。
今だ。
「クラウス。その本、羊皮紙にしてはずいぶん軽そうだね?」
暗がりから声をかけた瞬間、クラウスの手から大目録が滑り落ちかけた。
慌てて抱え直した男の顔が、ランプの光の中で引きつる。
「で、殿下……!? な、なぜ、ここに……」
「毎晩、大目録の重さを量ってたんだよ。誰かがすり替えに来るなら、今夜あたりだと思ってさ」
本当は、置き換えられたほうの本に指一本触れていない。
だが新しい紙の本が、百年前の羊皮紙と同じ重さになるはずがないのだ。はったりだが、外れる気はしなかった。
グスタフが音もなく立ち上がった。
大きな影がランプの光を遮ると、クラウスは悲鳴のような息を漏らして後ずさった。
「ち、違うのです、殿下! 私は、私は命じられて……っ」
「誰に?」
クラウスの唇が震える。
言いかけて言えずに目だけが樫の扉のほうへ泳いだ。
その一瞬の隙だった。
クラウスは抱えていた大目録をグスタフの顔めがけて投げつけたのだ。
グスタフが片手でそれを受け止める。四万六千粒の本を、まるで林檎みたいに。
だがその間に、痩せた男は身を翻していた。腰の鍵束が床に落ちて、じゃらりと鳴る。
「グスタフ、追って!」
近衛騎士が駆け出す。石段を駆け上がる重い足音と、軽い足音が遠ざかっていく。
俺も大目録を台に戻し、ランプをひっつかんで追跡した。
北棟の一階では、夜は閉ざされているはずの通用口が外に向かって大きく開け放たれ、冷たい夜気が容赦なく吹き込んできていた。
その向こうの闇の中を馬の蹄の音が遠ざかっていった。
「…………申し訳ありません、殿下」
戻ってきたグスタフが低い声で頭を下げた。息ひとつ乱れていない。
「扉は、外から開けられていました。閂が外されていて……待っていた者がいます」
外から?
つまりクラウスには、逃げ道を用意してくれる誰かがいたということだ。
なんで扉の外まで考えなかった!?
宝物庫の中のことばかり見て、北棟の出口のことなど頭になかった。読みが甘かったのは俺のほうだ。
悔しさで奥歯が鳴る。あと一歩であの男の口から名前を聞けたのに。
それなのにあの引きつった顔が頭から離れない。
命じられて、と言いかけた声は本当に怯えていた。腹立たしいのに、どこか哀れで、その二つが胸の中でごちゃ混ぜになる。
◇
宝物庫へ戻る階段の途中でランプの光がもう一つ揺れているのに気づいた。
廊下の先に細長い影が立っている。
「おや、殿下。このような夜更けに、宝物庫で何をなさっておいでで?」
甘い香水の匂い。
財務卿ベルンハイムが、手燭を掲げて微笑んでいた。
その手に白い手袋がはめてあることに気づいたのは、灯りが香水の匂いと一緒にこちらへ近づいてきてからだった。
夜の廊下で手袋をした男というのは、その時点で目につく。
……待てよ。触れられると罪の重さまで量られる、というあの噂。こいつ、まさか真に受けてるのか?
「目録係の仕事ですよ、財務卿。父上のお許しも、ちゃんといただいてますけど?」
「左様でございますか。それはそれは、ご熱心な」
財務卿の視線が俺の手元に落ちた。
宝物庫の床で拾ってきた、クラウスの鍵束だ。
「ああ、それは財務省の鍵でございますね。私がお預かりいたしましょう」
「いや、いいです。父上に直接お返ししますから」
鍵束を握る手に自然と力が入った。
財務卿は手袋の指先をわずかに動かしただけで、手を伸ばしてはこなかった。俺に触れるのを明らかに警戒している。
「クラウスが何か不始末を? それは嘆かわしい。すぐに手配いたしましょう。あの男は昔から、気の弱いところがございましたから」
すらすらと、まるで用意してあった台詞のように言う。
尻尾を切る音が聞こえた気がした。こんな真夜中に北棟の地下の廊下を偶然通りかかる財務卿など、いるものか。
財務卿は一礼して踵を返しかけ、ふと足を止めた。
俺の耳元に顔を寄せ、甘い香りと一緒に囁く。
「殿下。重さというものは、時に人を潰しますよ」
手燭の灯が遠ざかっていく。
冷たい廊下に取り残された俺の手の中で、鍵束がやけに重かった。




