第7話 料理長の秤
「ひっ……! し、失礼いたしましたぁ、殿下!」
朝の回廊で、落ちかけた燭台を支えてやろうと手を伸ばしたら、若い侍女が飛びのいた。
燭台は床に落下し、侍女は青い顔で何度も謝罪しながら走り去っていく。
え、何それ。
俺、そんなに怖い顔してたか?
「……グスタフ。僕、何かした?」
「…………噂です」
護衛の大男は短く答えて前を向いた。説明する気はないらしい。
噂の中身を教えてくれたのは結局ミアだった。
朝食の席でパンをちぎりながら、目をきらきらさせて報告するのだ。
「あのね、リオお兄さまに触られると、心の中の悪いことの重さまで量られちゃうんだって! だからマティアスお兄さまの剣も、嘘がばれたんだって!」
「いや、量れるのは重さだけだからね?」
「でも、すごいの! 侍女たちみんな言ってるもん!」
回廊の一件に尾ひれがついて、王宮じゅうを泳ぎ回っているらしい。
罪の重さを量る王子、ときたもんだ。
冗談じゃねえ。そんなものが量れたら、前世で質流れの言い訳を聞くのに三十年もかからなかった。
笑い話で済めばいいが、侍女に飛びのかれるのは正直ちょっとこたえる。
十年間、王宮で目立たないように暮らしてきた。人に避けられるのには慣れているつもりだった。だが「怖がられる」のは、また別の居心地の悪さがある。
もっとも、ちょっぴり得意な気分もあるのが我ながら情けない。
前世の帳場でも「菊池の親父の前じゃ嘘は通らねえ」と言われるのがひそかな自慢だったのだ。
◇
その噂が思わぬ客を連れてきた。
「殿下。厨房の料理長、ボリスと申します。……殿下は、何でも量れると伺いまして」
昼前、宝物庫から上がってきたところを呼び止めたのは、腹の突き出た白い前掛けの男だった。
腕は丸太のように太く、指には火傷の跡がいくつもある。
「何でもってわけじゃないけど……どうしたの?」
「小麦でございます。ここ半年、どうにも勘定が合わんのですよ」
料理長は周囲を警戒して声をひそめた。
「粉屋から届く袋は、一袋八十斤と決まっとります。仕入れ係が厨房の竿秤で量って、帳面には毎回ちゃんと八十斤と書いてある。ところがパンを焼くと足りんのです。わしは四十年パンを焼いてきましたが……手が、どうにも軽いと言うんでさあ」
手が軽いと言う。
その言い方が前世の自分の口癖にそっくりで、思わず頬が緩んだ。
職人の手というのはどこの世界でも正直らしい。
「見せてもらえる?」
◇
厨房は本棟の地下一階にあった。
石窯の熱気と、焼けたパンの匂いと、飛び交う怒鳴り声。前世の商店街の朝を思い出して、胸の奥がじんわりと温かくなる。
女房が生きていた頃は毎朝これくらいの騒々しさで店を開けていたものだ。あいつが味噌汁の鍋をかき回す音を聞きながら、俺は帳場の掃除をした。
懐かしい、と思った瞬間に、喉の奥がつんと痛んだ。
倉の隅に届いたばかりの粉袋が十ほど積んである。
袋の口には金色の羊の焼き印が押してあった。
「この羊は?」
「粉屋の印でさ。三年ほど前に仕入れ先が替わりましてな、隣国ザルツの金羊商会の下請けだとかで。……財務省のお達しで」
財務省。
またその名前か、と腹の中で呟く。
袋の一つに両手を当てると、目盛りが滑った。
七十三斤と、少し。
八十斤には七斤も足りない。一割近く軽い計算だ。
「料理長。これ、七十三斤しかないよ」
「な、なんですとぉ!?」
ボリスの太い眉が跳ね上がった。
「しかし、仕入れ係は毎回あの竿秤で……」
壁に掛かった竿秤を下ろしてもらう。
長い木の竿に目盛りが刻まれ、片方に荷を吊るす鉤、もう片方に錘をずらして釣り合いを取る仕組みだ。前世の祖父の代には、店でもこういう秤を使っていたと聞いた。
錘を手に取る。
大人の拳を二つ合わせたほどの真鍮の塊で、刻印には「五斤」とある。
四斤半と、少し。
ははあ、と思わず声が出た。
錘が軽ければ、竿の先のほうまでずらさないと釣り合わない。つまり軽い荷が重く表示される。
錘の底を詳細に観察すると、小さな穴に蝋が詰めてあった。中を削って、蝋で塞いだのだ。
宝物庫の六掛けの分銅と、まるで同じ手口じゃないか!
看破した瞬間、指先がかっと熱くなる。この感覚は前世でも今世でも変わらない。
小さい盗みも大きい盗みも、人間の考えることは案外似たようなものらしい。
「料理長、仕入れ係って今どこに?」
◇
倉の裏で粉屋の男と帳面をやりとりしていた仕入れ係は、グスタフにあっさり襟首をつかまれた。
「な、何をする!? 私は財務省の……」
グスタフは返事の代わりに、仕入れ係の体を片手で宙に吊り上げた。
無表情のまま、じっと見下ろす。
効果は十分すぎるほどだった。
「は、話します! 話しますから下ろしてぇ! 粉屋に頼まれたんだ、錘を替えれば差額を半分ずつ山分けにしようって……!」
粉屋の男は逃走しようとして、料理長の丸太のような腕に捕獲された。
ボリスの顔は真っ赤だった。
「四十年……四十年、わしは王家のパンを焼いてきた。その粉を、ちょろまかしやがったのか!」
厨房じゅうに響く怒声に見習いの少年たちが首をすくめる。
俺はといえば、ほっとしながらも妙に落ち着かなかった。
半年で一割。王宮の厨房だけで、いったいどれだけの粉が消えたのか?
しかも金羊商会の下請けで、財務省のお達しで。
小さな盗みを一つ片付けたのに、腹の底の嫌な予感はかえって重くなった気がする。
宝物庫の偽物と、厨房の錘。別々の話のはずなのに、同じ匂いがするのだ。
「料理長、これからは月に一度、宝物庫の正しい分銅でこの竿秤を検査させてよ。ハインツに頼んでおくから」
「へい……いや、はい! ありがてえ、殿下!」
料理長が勢いよく頭を下げた拍子に、前掛けの粉がぱっと舞い上がった。
真正面に立っていたグスタフの黒い上着が、肩から胸まで白く染まる。
近衛騎士は無言で自分の肩を見下ろし、払いもせずに直立不動を保った。その律儀さが妙に可笑しくて、俺は慌てて咳払いでごまかした。
◇
その日の夕方、厨房から宝物庫に差し入れが届いた。
蜂蜜をたっぷり練り込んだ焼き菓子が籠に山盛りだ。
「料理長からです。……殿下と、護衛の方にと」
運んできた見習いの少年は籠を置くなり、俺の手が届かない距離まで後退した。噂は厨房にもしっかり浸透しているらしい。
グスタフが籠を見下ろしたまま硬直している。
「食べなよ、グスタフ。半分はグスタフの手柄なんだからさ」
「…………は。では、遠慮なく」
大きな指が焼き菓子を一つつまむ。
さく、と小さな音。
近衛騎士の鉄みたいな顔が、ふっとほどけた。
「……美味い」
本日、初めての感想である。
俺は緩みそうな口もとを引き締めて、籠の中の菓子を一つ手に取った。
ちなみに、この菓子の重量は四百二十粒。
罪の重さのほうは、相変わらずさっぱり分からない。




