第6話 ぴったりすぎる数字
私の目は、もうほとんど何も映さない。
それでも朝が来れば分かる。北棟の地下へ続く階段の、三段目の石が冷たいか、ぬるいか。それで季節も天候も見当がつく。
五十年この階段を往復してきたのだから、足が覚えている。
その朝、階段の上から聞こえてきた足音は二つだった。
一つは軽く、跳ねるようで、ときどき妙な節の鼻歌が混じる。第七王子殿下だ。
もう一つは重い。石が沈むかと思うほど重いのに、少しも乱れがない。鍛錬を積んだ騎士の足だ。
「ハインツ、おはよう! 紹介するね。今日から僕の護衛をしてくれる、近衛のグスタフ」
「……グスタフであります」
低い声だった。それきり何も言わない。
ただ、すれ違ったときにその大きな体から蜂蜜菓子の甘い匂いがふわりと漂ってきて、私は思わず首をかしげた。
「失礼ながら、グスタフ殿。何か甘いものを?」
「…………は。少々」
少々、の前の沈黙が、ずいぶんと長かった。
殿下が「えっ、グスタフって甘党なのーっ!?」と弾んだ声を上げ、近衛の大男は「……任務に支障はありません」とだけ答えた。
私は口もとが緩むのを抑えるのに苦労した。この地下でそんな苦労をするなど、いつ以来のことだろう。妙に嬉しかった。
◇
「ハインツ、点検記録って何年ぶんあるの?」
殿下がそうお訊きになったのは、昼を少し過ぎたころだった。
「大目録の編纂以来、百年ぶんでございます。私の代になってからの五十冊は、そこの棚にまとめてございまして……」
「じゃあ、ここ十年ぶんを読ませてもらうね。声に出して読むから、聞いててよ」
殿下は棚から帳面を十冊抜き出し、机に積まれた。
紙をめくる音に続いて、少年らしい澄んだ声が品名と重さを一つずつ読み上げていく。
「九年前の点検。王冠、一万二千と一粒。王笏、四千百九十八粒。宝珠、六千五百二粒……」
一年ぶん。また一年ぶん。
殿下は読みながらときどき「ふうん」とか「へえー」とか、独り言を挟まれる。およそ王族らしくない。
品物を手に取るたびに、何やらぶつぶつと値を付けておられるのも、私の耳にはちゃんと聞こえている。ご本人は口に出していないおつもりらしいが、地下は小声でもよく響くのだ。前世がどうとか相場がどうとか、私にはさっぱり意味が分からないのだが。
不思議な方だ。
十年もの間、王族のどなたも下りてこられなかったこの地下に、こんなに楽しげな声が響くのは初めてのことだった。
「……あれぇ?」
殿下の声が止まった。
「ねえハインツ、点検のときに量る数字って、毎年ちょっとずつ違うよね?」
「左様でございます。湿気を吸えば重くなりますし、拭けば軽くなります。一粒、二粒の違いは毎年のことで……それが、何か?」
「だよね。本物の品は、どれも毎年ちゃんとばらついてる。一万二千と一、一万一千九百九十九、一万二千と二……ほら、揺れてるでしょ」
紙をめくる音が加速した。
「なのに偽物の三十一品だけは違うんだよ。ある年から急に、毎年毎年、目録と一粒の狂いもなくぴったり同じになってる」
私は息を呑んだ。
ぴったり同じ?
点検の数字は、昔からクラウスに読み上げさせて、私が書きつけるだけだった。三年前の冬からは書くこともできなくなり、帳面ごとあの男に任せきりだった。私は品物を手で確かめるだけで、数字の並びにまでは気を配っていなかったのだ。
「数字ってのはね、ハインツ。正直に量れば必ず揺れるもんなんだ。何年も続けてぴったり同じなのは、量ってない数字か……量ったふりをした数字だよ」
量ったふり。
あの中の空いた分銅で釣り合いを取って、あとは目録の数字を書き写しただけ、ということか。
「よし……ぴったりになり始めた年、品ごとに調べてみるね」
殿下は帳面を一冊ずつめくり、指で行をたどっていく。
「王妃の首飾りが八年前。紅玉の耳飾りも八年前。そこから毎年、三つ四つずつ増えてて……」
殿下の声が、ふいに硬くなった。
「それで三年前に、まとめて十四品。王冠も、王笏も、宝珠も、獅子の牙も……全部、三年前だ」
三年前。
その言葉が、耳の奥で鈍く鳴った。
三年前の冬だった。
朝、目を覚ますと、窓の明かりが白い霧の向こうにしか見えなくなっていた。
宝物庫番を辞めねばならぬと思った。だが辞めれば、私には帰る場所がない。妻はとうに亡く、子もない。五十年、この地下だけが私の家だった。
だから、ただ一人にだけ打ち明けたのだ。
二十年、私の下で働いてきた副管理官に。
「誰にも言わないでくれ。帳面の字は、おまえが読んでくれるか?」
あの男は、震える声で「お任せください」と言った。
私はそれを、忠義の震えだと信じていた。
まさか。
いや、まさか、あの男が?
「……殿下」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「私の目のことを存じておりましたのは……クラウスだけで、ございます」
紙をめくる音が止まった。
殿下は何もおっしゃらない。しばらくして、帳面が一冊ずつ机の上に重ねられる音がした。
「ねえハインツ……三年前からの記録、全部クラウスの字なんだ。三日前に日誌に署名してた、あのきれいな字と同じ」
分かっていた。
いや、分かりたくなかっただけだ。
あの男が見習いとしてここへ来た日のことを、私は覚えている。
指先をインクで汚しながら、目録の写し方を一から指導した。几帳面で、字がきれいで、少し気の弱い青年だった。
五年ほど前には、母御の薬代がかさむと青い顔をしていたこともある。私は僅かばかりの金を貸した。
返済されたのは、翌月だった。
あの金は、いったいどこから工面したものだったのか?
王冠や王笏のように、私が毎年この手で触れて覚えている大物だけは――私の目が見えなくなるのを待ってから、すり替えたのだ。
目が見えなくなってから、私は品を落とすのが怖くて、台座から持ち上げることさえしなくなっていた。あの男は、それも知っていた。
腹を立てる前に、まず、あの男がどんな顔でこの数字を書いたのかが気になった。年寄りというのは、驚くのにも怒るのにも時間がかかる。
不意に、皺だらけの手に何かが載った。
小さくて、硬くて、ほのかに温かい。
「これ、陛下から返してもらった、正しいほうの千粒の分銅。ハインツが持っててよ」
殿下の声だった。
「クラウスが書いた数字は全部嘘だけどさ、こいつだけは嘘をつかない。千と二粒。ハインツが五十年守ってきた分銅なんだから」
私は分銅を握りしめた。
目は見えない。だが手は覚えている。この冷たさも、この重さも。
「……殿下。この老いぼれ、まだお役に立てましょうか?」
「立ってもらわなきゃ困るってー! 僕は目で、ハインツは覚えてる係でしょ?」
殿下は笑っておられた。声だけで分かる。
階段の脇で近衛の大きな体がわずかに身じろぎし、蜂蜜菓子の匂いがまた漂った。
どうやらあの方も、懐の菓子に手を伸ばすのをさっきから我慢していたらしい。
「グスタフ、食べていいよ。ハインツも一つどう?」
「…………は。では」
さく、と焼き菓子を割る小さな音がした。
蜂蜜の香りが、黴臭い地下の空気をほんのりと塗り替えていく。
こんな日の午後に甘いものを口にするとは思わなかったが、焼き菓子は案外すんなり喉を通った。
その日の帰り際、殿下はまたあの妙な節の鼻歌を歌っておられた。
いったい、どこの国の歌なのでございましょう。どこかで一度、聞いたことがあるような気もするのですが。




