第5話 父上に査定書を
昨日の回廊での一件は、一晩で王宮じゅうに広まっていた。
第七王子が第三王子の宝剣を「ガラス」と言い放ち、第三王子が宝剣に噛みついた。
侍女たちのひそひそ話を総合するとそういうことになっているらしい。おおむね事実なのが困る。
問題はそこじゃない。
クラウスがあの真っ白な顔で全部を聞いていたことだ。
向こうが偽物の始末に動く前にこっちが先手を打たなければならない。
となれば、相手は一人しかいない。
三本目の鍵の持ち主にして、この国で財務卿より上にいる唯一の人間だ。
◇
夜明け前に宝物庫へ下り、ハインツに事情を話して、二つの分銅箱から「千粒」を一つずつ預かった。
「殿下、どうかお気をつけて。……財務卿閣下は、あれで執念深いお方でございます」
「うん。だから先に父上のところへ行くんだよ」
部屋に戻ると今度は査定書を作成した。
前世の店で客に渡していたのと同じ書式である。品名、目録の重さ、実際の重さ、その差、判定、所見。三十一品ぶん、一行ずつ。
品名 王冠
目録 一万二千粒
実重 七千三百十粒
差 四千六百九十粒の不足
判定 張りもの(芯は鉛、表は金張り。水の量りで比は十一と半分)
所見 帯の内側に継ぎ目あり
書き上げて読み返すと我ながら嫌な紙だった。
一枚めくるごとにこの国の宝が一つずつ消えていく。
それでも帳場で書き慣れた書式で数字を並べていると、震えていた指が少しずつ落ち着いてくるのが分かった。
因果なものだ。こんな紙でも書けば心が静まるのだから。
昼前、侍従を通して陛下への謁見を願い出た。
返事を持ってきたのは侍従ではなかった。
「おや、これはこれは。第七王子殿下」
甘い香水の匂い。
財務卿ベルンハイムが長い指を胸に当てて、優雅に一礼する。
「陛下は本日、たいへんお忙しくていらっしゃいます。目録係のご報告でしたら、私が承りましょう。宝物庫は財務省の管轄でございますゆえ」
「ありがとう、財務卿。でも、父上に直接お伝えしたいことなので」
「左様でございますか。……そういえば昨日は、第三王子殿下とずいぶん楽しいお話をなさったとか?」
細い目が、わずかにこちらを値踏みする。
質屋の帳場でも、こういう目をする客はいた。こっちの懐にいくら入っているか、探りを入れてくる目だ。
「ええ、楽しかったですよ。兄上の歯が無事でよかったなあって」
「ふふ。殿下は冗談がお上手でいらっしゃる。……では、謁見は日を改めて。ええ、近いうちに必ず」
財務卿の目は、最後まで笑っていなかった。
その「近いうち」が永遠に来ないことくらい、質屋でなくても分かる。
◇
正面がだめなら、裏口だ。
「ミア、今夜も父上のお部屋にお話を聞きに行くよね?」
夕食のあと妹を捕まえて訊くとミアは青い目の人形を抱いたまま大きく頷いた。
「うん! 毎晩行くの。お父さま、ご本を読んでくださるのよ」
「兄さまも一緒に行っていい?」
「えっ、リオお兄さまも!? いいよいいよ! お父さまの読むくま、すっごいんだから!」
くま?
訊き返す間もなく、ミアは俺の手を引いて走り出した。
本棟二階の陛下の私室の前では、近衛騎士が二人で扉を守っていた。
二人は俺の顔を見て眉をひそめたが、ミアが「リオお兄さまはミアのお付きなの!」と胸を張ると、困ったように視線を交わしてから扉を開けた。
九歳の王女の命令には、王宮の誰も逆らえない。
私室は思っていたより質素だった。
磨き込まれた古い机、壁一面の本棚、暖炉の前の椅子。宝石の一つも飾っていない。
その椅子に礼装ではなくくつろいだ上着姿の陛下が座っていた。手には子ども向けの絵本がある。
陛下は俺を見て、わずかに目を見開いた。
「……第七王子?」
「お、お邪魔します、父上」
「お父さま、今日はリオお兄さまも聞くの! くまのところからね!」
陛下はしばし黙り込んだあと、何も言わずに絵本を開いた。
そして俺は、とんでもないものを聞くことになった。
「『――ぐおおお、わしの蜂蜜を盗んだのは、だれだぁぁ』」
低い。太い。しかも、やたらと上手い。
この国の王が、九歳の娘のために暖炉の前で熊の声を出している。
笑ってはいけない。いけないのだが、肩が勝手に震える。
ミアは手を叩いて大喜びし、くまが蜂蜜を取り返すところまで聞くと、満足したように陛下の膝の上でこてんと眠ってしまった。
◇
暖炉の薪がぱちりと爆ぜる。
陛下はミアの髪を撫でたまま、こちらを見ずに言った。
「……用があって来たのだろう」
心臓が跳ねた。
見抜かれていた。いや、当たり前か。十年、俺のほうから会いに来たことなど一度もないのだから。
懐から査定書の束を出し、両手で差し出す。
それから上着の隠しに入れてきた、二つの分銅も。
「父上、まずこれを両手に持ってみてください。右が宝物庫の正しい千粒の分銅で、左は……同じ戸棚の奥に隠してあったものです」
陛下は怪訝な顔をしながらも片手ずつ分銅を受け取った。
そして、その左手がわずかに浮いた。
スキルなどなくても分かる。同じ大きさで同じ刻印なのに、左は明らかに軽い。
「左は中を抜いてあって、重さは六割しかありません。毎年の宝物庫の点検は、この分銅で量られていました。だから……三十一品もの偽物が、目録どおりってことになってたんです」
陛下は何も答えず、査定書をめくり始めた。
一枚、また一枚。暖炉の明かりの中で、陛下の表情からは何の感情も読み取れない。
長い。
この沈黙の重さだけは、俺のスキルでも量れそうにない。
怖い、と思った。
信じてもらえなかったら? 財務卿の言うとおり、外れの王子の思い込みで片付けられたら?
いや、それより怖いのは、このまま一度も目を合わせてもらえずに「下がれ」と言われることかもしれない。
最後の一枚を読み終えると陛下は査定書の束を膝の上に置き、やがて顔を上げた。
目が合った。
十年ぶりに、真正面から。
「……なぜ、余に直接持ってきた」
「鍵は三本あるからです。父上と、ハインツと、財務卿と。父上の鍵のほかは、信用していいのかどうか、僕には……分からなかったので」
陛下は長いこと俺を凝視していた。
やがて短く言った。
「続けよ。誰にも言うな」
「……はい」
「明日から、そなたに近衛を一人付ける。グスタフという……無口だが、腕は確かだ」
言葉はそれで終わりだった。
褒められたわけでも、抱きしめられたわけでもない。
なのに部屋を出て扉が閉まった瞬間、膝から力が抜けそうになった。
嬉しいのか、ほっとしたのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない。
ただ目が合ったあの一瞬を、俺はたぶん一生忘れない。
それと、もう一つ。
熊の声は、思っていたよりはるかに上手かった。




