第4話 母の指輪は百粒ちょうど
三日目の朝は、宝物庫で大目録を読み直すところから始めた。
偽物の三十品の行に、昨日付けた小さな印が並んでいる。
王冠、王笏、宝珠、王妃の首飾り、先王の剣帯の留め金……。
一品ずつ指でなぞって確認していくと、印のない行のほうが妙に心細く見えてくるから不思議だ。
「殿下、宝剣の行でございますね?」
「うん。『獅子の牙』、二万四千粒」
マティアス兄上が三年前から佩いている、王家の宝剣である。
半分が偽物の蔵から持ち出された剣が、無事でいる保証はどこにもない。
問題は、どうやってあの兄から剣を借りるかだ。
あの兄は、俺が「量らせてください」と頼んで素直に渡すような人ではない。頼めば頼むほど意地でも渡さない、厄介な性格の持ち主である。
それに、副管理官のクラウスもいる。
昨日、俺が分銅を持っているのを見たときの、あの顔。
下手に騒げば、向こうは尻尾を巻いて逃げるか、証拠を消しにかかるか。どちらにしても損だ。
ここは慎重に行動しよう、と自分に言い聞かせながら、俺は大目録を棚に戻して地下を出た。
……その決意は、昼過ぎにはもう跡形もなくなっていたのだが。
◇
「おーい、天秤殿! 宝物庫の埃は何粒あった?」
昼下がりの回廊で、聞き慣れた大声に呼び止められた。
振り向けば、マティアス兄上が取り巻きの若い貴族を三人と、着飾った令嬢を二人連れて立っている。稽古の帰りらしく、金髪が汗で額に貼りついていた。
「こんにちは、兄上。埃じゃなくて宝物を量ってたんですよ、これでもね」
「はっ、同じことだろうが! 地下の倉庫で一生、皿に分銅を載せて暮らすんだな」
取り巻きがどっと沸く。
四つ上のこの兄は、昔から俺をからかうのが趣味だ。根は悪い人じゃない、と思う。たぶん。
ただ剣聖のスキルを授かってからの四年で、声と態度だけが二回りほど大きくなった。
聞き流して通り過ぎようとしたところで、令嬢の一人が扇を口もとに当てた。
「まあ。殿下、首にかけていらっしゃるのは何ですの?」
しまった。
考えごとをしながら歩くと、胸元の鎖をいじる癖がある。シャツの襟からこぼれた銀の指輪が、昼の光を反射していた。
「それか?」
マティアス兄上が鼻を鳴らす。
「エレナ様の形見だろ。平民の側妃が持ってきた、石もついてない安物じゃないか!」
――安物?
おい、今なんて言った?
腹の底がかっと熱くなる。母を笑われて指先が冷たくなるほど腹が立った。最悪の気分だ。
母が亡くなったのは俺が五つのときで、顔はもうぼんやりとしか思い出せない。だが、この指輪の値打ちを決めるのは兄上じゃない。
安物かどうか、量ってやろうじゃねえか。
俺は鎖から指輪を外し、手のひらに載せた。
祝福を授かってから、これを量るのは初めてだ。
目盛りが滑る。
滑って、止まる。
百粒。
百と、ちょっと、でもない。百ちょうど。
背筋がぞくっとした。指輪一つでこんなに胸が騒ぐのは、前世を含めても初めてだ。
……おいおい、どういうことだ?
職人が手で打った指輪の重さが、麦一粒の狂いもなく切りのいい数字に収まる。そんな偶然は、前世の帳場で三十年見てきても一度もなかった。狙って作らなければ、こうはならない。
指輪を傾けると、内側に髪の毛ほどの細い線で小さな天秤の印が刻まれている。
昔から知っていた印だ。だが今日まで、それが何なのか考えたこともなかった。
「おい、聞いてるのか、天秤」
「……兄上。安物かどうかは、量ってみないと分かりませんよ。これは百粒ちょうど。麦一粒の狂いもない品です」
自分でも驚くほど低い声が出た。
母の品を安物呼ばわりされて黙っていられるほど、俺の中の質屋は大人しくない。品物を貶されたら、量って黙らせるのが商売の流儀だ。
それで、つい余計な口が動いた。
「そう言う兄上の剣こそ、ちょっと見せてもらえます?」
「あ? 『獅子の牙』をか?」
マティアス兄上は一瞬きょとんとしてから、得意げに剣を鞘ごと外した。
「いいだろう、拝ませてやる。王家の宝剣だぞ、落とすなよ!」
……朝の慎重さは、どこへ消えたんだろうね。
自分に呆れながら、両手で受け取る。
柄には金の獅子の頭、目には赤い石、鍔には青い石が五つ。
三年間、この兄が腰に吊って見せびらかしてきた代物だ。細工は見事で、獅子のたてがみの一本一本まで丁寧に彫り込んであり、腕のいい職人が相当な時間をかけて仕上げた仕事なのは間違いない。
目盛りが止まる。
二万二千八百粒。
大目録の二万四千粒より、千二百粒も軽い。
量れなかった最後の一品も、やっぱりか。これで三十一品。六十二品の、ちょうど半分だ。
刃は本物の鋼だと、持った感触で判断できる。軽くなっているのは柄のほうだろう。
それに、この獅子の目の石。
前世の癖で、つい爪の先で軽く弾いていた。
こつ、と鈍い音がする。紅玉なら、もっと硬くて冷たい音がするはずだ。
「兄上。これ、柄の石はガラスですね」
言ってやった、という爽快感が一瞬だけ胸を突き抜けた。
それから、しまったと思った。
だが遅かった。
「……は?」
回廊の空気が凍りついた。
取り巻きのざわめきがぴたりと止み、令嬢たちは扇の陰で目を見開いたまま硬直している。
「な、な、何を言ってる!? これは王家の宝剣だぞ!」
「ですよね。なので柄の金も怪しいです。目録より千二百粒軽いので、中は鉛かと。刃はいい鋼なんですけど」
ああ、もう、止まらない。
質屋の口というのは、品物を前にすると勝手に鑑定を始めるようにできているのだ。前世の女房にも、客の前で余計なことを言うなと何度叱られたことか。
そのとき、回廊の向こうでばさばさと紙の落ちる音がした。
見れば、帳簿を抱えた痩せた男が呆然と立ち尽くしている。
副管理官のクラウスだ。足もとに散らばった書類を拾おうともせず、顔からは血の気が引いて紙みたいに白い。
その顔を見て、ようやく頭が冷えた。
やっちまった……。
昨日の今日で、宝物庫の偽物に気づいていますと大声で触れ回ったようなものじゃないか。
だが、そっちを気にしている余裕はなかった。
「ふ、ふざけるな! ガラスかどうか、確かめてやる!」
マティアス兄上が剣をひったくり、獅子の目の赤い石にがぶりと歯を立てたのだ。
金貨の真贋を噛んで確かめる話なら、前世でも聞いたことがある。
だが宝石を噛む奴は初めて見た。
「兄上、かじらないでーっ! 歯が欠けます! それに本物の紅玉でも、噛んだって分かりませんから!」
「ほはえはらはっへほ!(お前が言ったんだろ!)」
令嬢の一人が、こらえきれずに吹き出した。
剣聖のスキルを持つ第三王子が、宝剣を咥えたまま涙目で弟を睨んでいる。
だめだ、可笑しくてたまらない。こんなに愉快な兄上は、生まれて初めて見た。
すみません、母上。
指輪が百粒ちょうどな理由はまだ分かりませんが、とりあえず兄上の歯は守りました。




