第16話 ヨハン、牢を出る
「なんで!? なんで王太子殿下が、あんたの隣に座ってんの!?」
二十三日目の朝。
王都の市の裁判所の控えの間でノーラが俺の袖を掴んで小声で絶叫した。器用な子だ。
「ええと……僕の雇い主の、雇い主の、そのまた上の人だから?」
「意味分かんないんだけど!?」
分からなくて当然だ。俺にもうまく説明できないのだから。
ノーラの剣幕は可笑しいのに、胃のあたりはきりきりと縮こまっている。
二日前、兄上に改鋳の査定書を届けた。
兄上は一晩それを熟読し、翌朝には市の裁判所に使いを出していた。ヨハン・ベックの再審を王太子の名で求めたのだ。
ただし条件が一つ。金貨そのものの話は法廷では一言も出さない。
改鋳のことが今ここで漏れたら王都じゅうで両替の取り付け騒ぎが起きる。何より、財務卿に気づかれる。
今日の目的はヨハンさんを牢から出すことに絞る。
……と決めたはずなのに、喉がからからだった。大丈夫か、俺? しくじったら、あの人はまた牢に戻されるんだぞ?
前世でも盗品の証人として裁判所に呼ばれたことは二度ほどあるが、あのときはここまで緊張しなかった。
たぶん、隣で震えているノーラの指のせいだ。
膝が震える。なのに、この腐った裁きをひっくり返せるかもしれないと思うと、胸のどこかがわくわくしてもいる。我ながら困った性分だ。
◇
法廷は石造りの天井の高い広間だった。
正面の高い席に判事のドルンがふんぞり返っている。
でっぷりと太った五十がらみの男で、指には不釣り合いなほど大きな指輪が三つも光っていた。
……あの指輪、真ん中のは張りものだな。そんなことを考えてしまう自分の職業病が恨めしい。
傍聴席を見て、ありがたいやら申し訳ないやらで息が詰まった。
天秤通りの両替商たちがずらりと着席していたのだ。向かいの老両替商も、隣の髭の親父も、三軒先の未亡人も。
金貨を貸してくれた人たちが、店を休業してまで駆けつけてくれたらしい。頼もしくて、思わず背筋が伸びた。
鎖の音がして、被告人席に男が引き出されてきた。
大柄な男だった。いや、大柄だったはずの男と言うべきか。二月の牢暮らしで頬はこけ、髭は伸び放題で、それでも背筋だけはまっすぐに伸びている。
ヨハン・ベック。
ノーラの父親。母の生まれた店の、今の主。
ノーラが小さく「父さん」と呟いた。
ヨハンさんは傍聴席の娘に気づくと目を細めた。泣くのでもなく、表情を崩すのでもなく、職人が品物を確かめるときのような顔だった。
「――王太子殿下におかれましては、このような些末な裁きにお越しいただき、恐悦至極に存じます」
ドルン判事が汗を拭きながら頭を下げた。
兄上は表情一つ変えない。
「些末かどうかは、これから決める。……証人を呼べ」
◇
証人席に立ったのは俺だった。
「天秤通りのベック両替店の見習い、リオと申します。……王太子府の金貨の検めを、時々手伝っております」
最後の一言は、兄上と打ち合わせたとおりの嘘である。いや、半分は本当か。
「見習い風情が、証人だと?」
ドルン判事が鼻で笑った。
「被告人の店の者ではないか! 身内をかばう証言など、何の価値もないわ」
「ええ、おっしゃるとおりです。なので、僕の言葉じゃなくて、天秤に証言してもらおうかなって」
俺はノーラから預かった天秤と分銅の箱を判事席の前の台に設置した。
続けて証拠の金貨十二枚を並べる。
「判事様、お手数ですが、ご自分で量ってみていただけますか?」
「わ、私がかっ!?」
「はい。見習いの手より、判事様の手のほうが信用できますもんね?」
傍聴席の誰かがぷっと吹き出した。
俺も吹き出しそうになったが、ここで噴いたら台無しだ。神妙な顔を保つのに必死だった。
ドルン判事は顔を赤くしながらも、王太子の手前、拒否できない。太い指で金貨を一枚ずつ皿に載せ、分銅を足していく。
十二枚を量り終えるまでにずいぶん時間がかかった。
「……ひゃ、百十九粒と、少し。どれも同じくらいだ」
「ありがとうございまーす。じゃあ、こっちもお願いします」
俺は懐から別の金貨を三枚取り出した。
ベック両替店で最初に量り比べをしたとき、客が持ち込んだ本物の「削られた金貨」だ。ノーラが取っておいてくれた。
「百十八、百十七と少し、百十九。……判事様、縁を見比べてください。本物の削りは、縁をぐるりと薄く削いであります。一枚から一粒、二粒、三粒とくすねるために」
次に証拠の金貨を一枚掲げる。
「でも、ヨハンさんの金貨は一か所だけなんです。爪の先ほど。十二枚ぜんぶ合わせても、四粒そこそこなんですよ」
法廷がしんと静まり返った。
「金貨削りって、何百枚も削って削りくずを溜めて、ようやく儲けになる罪ですよね? 十二枚で四粒そこそこ。これを売っても、黒パン一つ買えるかどうか」
ドルン判事の額に汗の粒が浮いていた。
いい気味だ、と思う一方で、背中がひやりとする。ここで判事が開き直ったら、見習いの証言など握りつぶされて終わりなのだ。
「では、なぜ削った。罪人が何のために――」
「両替商が、金貨の中身を確かめるときにやる傷なんですよ」
傍聴席から向かいの老両替商の声が飛んだ。
「わしもやる! 怪しい金貨は、縁をちょいと掘って中の色を見る。両替商なら誰でもやることだ!」
髭の親父が「そうだそうだ!」と続く。
「く、組合の定めでは、金貨に傷をつけることは削りと同じと……」
判事が慌てて言い返すと、兄上が初めて口を開いた。
「その定めは、いつ作られた?」
「さ、三年前に……」
三年前。改鋳が始まった年と同じだ。中を確認する両替商の手を縛っておけば、薄めた金貨の中身に気づく者はいなくなる。実に周到な手口だ。
法廷がざわめいた。判事が槌を叩いてもなかなか静まらない。胸がすくのと同時に、こんな男に二月も裁かれていたのかと思うと、腹の底がまた煮えた。
兄上は判事席をまっすぐに見据えたまま、続けた。
「ドルン判事。この者を有罪とした証拠は、この十二枚だけか?」
「は、はっ……左様で……」
「では、たかだか四粒の金のために、両替商一人を二月も牢に入れたわけだな」
静かな声だった。
だが、その静けさが一番こたえる種類の声だった。
「訴えを起こしたのは誰だ。両替商組合か。……組合を動かしたのは、誰の指図だ?」
「そ、それは……」
判事の目が動揺して泳いだ。
兄上はそれ以上は追及せず、ただ判事席をまっすぐに見据えた。
「この裁きの記録は王太子府で預かる。判事、そなたの調べ方についても……改めて聞かせてもらうことになろうな」
ドルン判事の顔からすうっと血の気が引いていく。
ざまあみろ、と腹の中で舌を出す。なのに、ちっとも晴れやかな気分にならないのが悔しい。張りものの指輪だけが、場違いに光っていた。
◇
ヨハン・ベックは、その日の昼過ぎに釈放された。
「父さんっ!」
裁判所の門を出たところで、ノーラが父親の胸に飛び込んだ。
トビが脚にしがみつき、ハンナおばさんが後ろから二人まとめて抱きしめる。
天秤通りの両替商たちがそれを遠巻きに囲み、照れくさそうに鼻をすすっていた。
俺は少し離れたところからそれを眺め、鼻の奥がつんとして、慌てて空を見上げた。
胸の奥が熱いのに、どこか寂しい。前世の俺には、女房に先立たれてからこっち、あんなふうに飛び込んでくる家族はいなかった。今世の俺にも、まだいない。
……いや、いるか。熊の声で絵本を読む父親と、人形を抱えた妹と、帳簿に埋もれた兄が。
その晩、ベック家の夕食に呼ばれた。
ハンナおばさんの煮込みは、鍋ごと出てきた。
グスタフは三杯おかわりし、トビはその背中に登り、ノーラは「食べ方が汚い」と弟を叱りながら、自分は四杯目をよそっていた。
ヨハンさんはほとんどしゃべらなかった。
煮込みは驚くほど旨かった。だが温かい湯気の向こうでその痩せた頬が目に入るたび、喉の奥がちくりと痛む。せっかくの祝いの席なのに、二月の牢暮らしの重さがまだあの顔に残っているのだ。
ヨハンさんは娘の話にときどき頷き、煮込みを一口ずつ噛みしめるように口に運び、それから――ふと、俺の顔をじっと見た。
「……あんた」
「はい?」
「昔の知り合いに、似てるな」
匙が止まった。
「父さん、リオは見習いだよ? 知り合いなわけないでしょ」
ノーラが呆れた声を上げ、ヨハンさんは「……そうだな」とだけ言って、また煮込みに目を落とした。
似てる? 誰に?
訊き返そうとした俺の皿に、ハンナおばさんが有無を言わさず二杯目をよそった。
「ほら、リオちゃんも食べな! 細っこいんだから!」
嬉しくて、少し照れくさくて、結局その晩は四杯食べた。




