第14話 削られていない金貨
「リオ! あんたが寄越した腕輪のおばさん、来たよ!」
十八日目の朝、ベック両替店の扉をくぐった途端、ノーラの声が飛んできた。
「あ、来た? よかったぁ」
「よくなーい! 『リオの紹介だから、ちょっとおまけしてくれるって』って、真顔で言われたんだけど!? なんであたしが、見ず知らずの見習いの約束を守らなきゃなんないのよ!」
「……で、守ってくれたの?」
ノーラは口をへの字に曲げて、ぷいと横を向いた。
「……銅貨一枚だけ、上乗せした。娘さんの嫁入りだって言うし」
守ってくれたらしい。
口は悪いが、この子は根っこのところで甘いのだ。そういうところは、前世の女房に少し似ている。
帳場の奥の暖簾から小さな頭がひょこりとのぞいた。
ノーラの弟のトビ、八つ。俺が来てから毎朝、グスタフの背中によじ登るのを日課にしている。
「リオ兄ちゃん、怒られてるー!」
「トビ、うるさい! 奥で芋の皮むいてな!」
にやけそうになるのを堪えていると、帳面で頭をはたかれた。痛くはない。むしろ、ちょっと嬉しかった。
王宮では、誰かにこんなふうに気安く頭をはたかれたことなど、一度もないのだ。
◇
昼前、俺は「両替商の見習いの用事」を口実に店を抜け出し、王宮へ戻った。
本棟の廊下を歩くと侍女たちがさっと壁際に寄る。例の噂はまだ健在らしい。
触ったら罪の重さが量られる? 量れるもんなら、とっくに財務卿の首根っこを押さえてるっての。
王太子の執務室は、本棟の三階にあった。
扉を開けると、そこは紙の山だった。机の上にも床の上にも帳簿と書類が積み上がっている。その谷間で兄上が眉間に深い皺を刻んだまま羽根ペンを走らせていた。
「来たか、第七王子」
「……兄上、寝てます?」
「三日ほどな」
三日ほど寝ているのか、三日ほど寝ていないのか、聞き返す勇気はなかった。
宝物庫の一件以来、兄上は財務省の帳簿を片っ端から取り寄せ、自分で数字を洗い直しているらしい。財務卿に任せきりにしてきた三年分を取り返そうとしているのだ。こんな兄上の姿を見るのは初めてで、少し意外だった。
何気なく机の上の帳簿をのぞき込み、俺は思わず指をさした。
「あ、兄上。その行、桁が一つずれてますよ。千二百じゃなくて、一万二千」
「……何?」
兄上は帳簿を睨み、算盤を弾いて検算し、もう一度睨んで、深々と息を吐いた。
「……お前、今のを一目で?」
「あー、帳場が長いもんで。……いえ、何でもないです!」
危ねえ。前世の話をするところだった。
兄上は怪訝な顔をしたものの、追及はしてこなかった。三日寝ていない人間に細かいことを気にする余力はないらしい。
「頼まれていたものだ」
兄上が机の端から小さな木箱を押しやった。
市の裁判所から取り寄せた、ヨハン・ベックの罪の証拠品である。
蓋を開けると、獅子金貨が十二枚、布の上に整然と並んでいた。
どれも縁の一か所に爪の先ほどの小さな削り跡がある。
「両替商の金庫から、これが出てきたそうだ。削った金貨を十二枚も隠し持っていた、とな」
「ちょっと、量らせてくださいね」
一枚ずつ指でつまんで計量する。
百十九粒と、三分の二。次も、百十九と三分の二。その次も、ほとんど同じ。
削れているのは一枚につき麦粒の三分の一ほどで、十二枚ぜんぶ合わせても、四粒そこそこにしかならない。
……は? たったこれだけ?
「兄上。これ、削って儲けるつもりなら、あまりにも割に合わないんですよね」
「どういうことだ?」
「金貨削りっていうのは、縁をぐるりと薄く削いで、一枚から何粒も金をくすねるやり方なんです。それを何百枚も繰り返して、削りくずを溜めて売る。でもこれは、一か所だけを、ほんの爪の先ほど掘ってある。……まるで、中を覗くために穴を開けたみたいに」
兄上の羽根ペンが止まった。食いついた、と思った。
俺は一番大きな削り跡のある金貨を選び、窓の明かりにかざした。
金色の表面の、爪の先ほどの傷の奥。
そこだけ、色が違った。
赤い。
表の金色より、はっきりと赤みが強い。
「兄上、見えます? 削り跡の奥」
「赤いな。……錆か?」
「いや、金は錆びないんです。赤いのは、たぶん銅の色で」
自分の声が少し掠れていた。
表は金色なのに、中は赤い。つまり表面だけ金の色を濃く仕上げて、中身には銅が多く混じっているということだ。前世の業界で言う「色揚げ」に近い。
それに、と俺は十二枚の刻印を確認した。
造られた年を表す小さな印が、どれもここ三年のものだった。
天秤通りで最初に量り比べをしたとき、刻印の新しい金貨だけが妙に厚ぼったかった。あの感触が、指の腹によみがえる。
ヨハン・ベックは、金貨を削っていたんじゃない。
新しい金貨の中身がおかしいことに気づいて、確かめていたのだ。
待てよ、と頭の中の算盤が勝手に弾き始める。
もし本当にそうなら、問題なのはこの十二枚じゃない。ここ三年に造られた、この国の金貨の全部かもしれない。
「第七王子。それは、つまり……」
「すみません、兄上……まだ、はっきりとは言えないんですよ」
十二枚では足りない。
千枚くらい量って検証しないと、王太子の前で口にしていい話じゃない。
兄上は長いこと俺の顔を見据え、それから帳簿の山の上で疲れたように目を閉じた。
「……お前は、宝物庫だけでなく、厄介なものを次々に掘り当てるな」
褒め言葉なのかどうか、判断に困る。
とりあえず、前世の質屋の三代目としては最高の褒め言葉として受け取っておくことにした。
◇
夕方、ベック両替店に戻ると、ノーラが店じまいをしていた。
「おかえり。……なに、その顔」
「あのさ、ノーラ。お父さんの金貨のこと、ちょっと分かったんだ」
俺は言葉を慎重に選んで説明した。
削り跡が小さすぎること。金をくすねるための削り方ではないこと。中の色を確かめるための傷だったこと。
金貨そのものの話と、王太子の名前は伏せた。
ノーラは天秤の前で手を止めて聞いていた。
話が終わると、ふん、と鼻を鳴らす。
「……ほらね。だから言ったじゃん。父さんが削るわけないって。あたし、最初っから分かってたし」
強がった声の端が、わずかに揺れていた。素直じゃないなあ、と思う。そういうところも、たぶん父親譲りだ。
何と言えばいいのか判断がつかず、俺は帳場の端で頭をかいた。
先に動いたのはノーラのほうだった。ぱんっと自分の両頬を叩いて、くるりと振り向く。
「……リオ。家宝、触っていいよ」
「え、いいの?」
「あんたの手なら分かるんでしょ。うちの分銅が、どれだけ正しいか」
古い木箱の蓋が開けられた。
角の丸くなった真鍮の分銅が、使い込まれた布張りの穴に並んでいる。
一番小さなものから順に指でつまんで計量する。
十粒、ぴったり。五十粒、ぴったり。
百粒――。
目盛りが止まった。
百ちょうど。麦一粒の狂いもない。
おや、と指が止まる。
分銅の側面に、髪の毛ほどの細い線で小さな天秤の印が刻まれていたのだ。
俺は無意識に首の鎖に手をやっていた。
母の指輪。百粒ちょうど。内側に、小さな天秤の印。
同じだ。重さも、印も。
母がこの家の娘なら、同じ印の品があっても不思議はない。
だが、重さまで麦一粒違わずそろえてあるのはなぜだ? 指輪をそんなふうに作る職人がどこにいる? これじゃまるで、分銅そのものじゃないか。
「……どう?」
ノーラが少し得意げに俺の顔をのぞき込む。
「父さんが言ってた。うちの分銅は、ご先祖様の代から、この国で一番正しい重さなんだって。ほかの何が狂っても、この分銅だけは絶対に正しいって」
俺はうまく返事ができないまま、手のひらの分銅と胸元の指輪の重さを、同時に感じていた。
「リオちゃーん! 夕飯、食べてきなー!」
奥からハンナおばさんの声がして、トビが「今日は芋の煮っころがし!」と叫んだ。
母の指輪と同じ重さの分銅が、この家の帳場で、ずっと昔から使われてきた。
そう思うと、この家の芋の煮っころがしは、きっと母の味に近いのだろうという気がして、俺はありがたく夕飯に呼ばれることにした。




