第5話 砂の上で
陽光が、残酷なほどに白かった。
青い海を両側に引き連れて長く延びる砂州。
松並木の隣には、白い砂浜が伸びていた。
「走れ」
師匠は北を指した。
その指先は、松並木から外れた場所——潟側の水際に近い、風が長い年月をかけて吹き溜めた白砂の帯——を示していた。
「向こう側まで走って、戻ってこい」
沈雪には、頷く以外の選択肢がなかった。
一歩踏み出した瞬間、地面が逃げた。
足首まで沈む。固い土の上なら、踏んだ力が跳ね返って脚を前へ運ぶ。ここにはそれがない。力を入れた分だけ砂が散り、膝だけが重くなった。
十歩で息が上がり、二十歩でふくらはぎが鳴いた。それでも端まで走り、折り返した。
師匠の足元まで戻った瞬間、息を整える間もなかった。
「次」
また走った。
二往復目は一往復目より速く膝が笑い始めた。
疲れた脚で砂を蹴るたびに、余計に砂が逃げた。腕の振りが小さくなり、体が前に倒れるだけになり、それでも端まで辿り着いて折り返す。
戻ってくると、師匠は同じ場所に立っていた。動いた形跡すらなかった。
「続けろ」
また走った。
三往復目の折り返しで、一瞬膝が折れた。砂に手をついて、すぐ立った。師匠が見ているかどうかも考えなかった。ただ立って、また走った。
四往復目は走っているのか漕いでいるのかわからなかった。足首まで沈む白砂の中を、ただ前へ前へと体を倒し続けた。汗が顎から落ちて砂に染みた。
五往復目の終わりに戻ってきたとき、師匠が初めて手を上げた。
「止まれ」
竹筒を投げてよこした。受け取り損ねて砂に落とした。拾い上げ、震える手で蓋を開ける。
「二口までだ。口を湿らせて戻せ」
沈雪は飲む。喉に入った水は、わずかに塩気を帯びていた。完全な真水ではない。
もう一口。そこで止める。口を離し、竹筒を返した。師匠は受け取ると、中身を確かめもせず言う。
「行け」
六往復目、七往復目。脚はもう痛みの種類が変わっていた。鋭い痛みではなく、重い、鈍い、どこまでも続く感覚だった。砂を踏むたびに膝から腰にかけて何かが軋んだ。
それでも折り返した。折り返すことだけは続けた。
八往復目の終わりに戻ってくると、師匠はまた手を上げた。今度は竹筒を投げずに差し出してきた。沈雪は受け取り、口をつけようとして——師匠が口を開いた。
「少しだ」
二口三口飲んで、少し震える手で竹筒を返した。師匠は受け取りながら、その手を一度だけ見た。
目でなぞるように、足首から膝、腰へと視線が動いた。そして何も言わず、ただゆっくりと前方を顎で指した。
また走った。
九往復目は意識が遠くなりかけた。砂の白さが眩しすぎて、松並木の緑が滲んだ。それでも足は動いた。動くから動かした。端まで行って、折り返した。
十往復目、師匠の足元まで戻ってきたとき、沈雪は両膝をついた。堪えようとして、堪えられなかった。砂が膝の下で静かに沈んだ。
師匠は何も言わなかった。
しばらく経って、竹筒が目の前に差し出された。「飲め」
今度は量を制限しなかった。
沈雪は砂の上に座り込んで、水を飲んだ。海風が松を鳴らしていた。潟の水面が光っていた。
師匠は黙って立っていた。
砂の白さだけが、果てなく続いていた。
夜は、思ったより静かだった。
昼間あれほど耳を満たしていた波音も、松を鳴らす風も、戸を閉めた小さな部屋の中までは届かない。沈雪は一人、薄い寝台に横たわったまま、暗い天井を見つめていた。
脚の奥が、ずっと重かった。
太腿の芯には鈍い熱が残り、膝の奥では脈打つような痛みがじわじわと続いている。ふくらはぎは少し角度を変えただけで強張り、足首にはまだ、白砂に沈み込んでいた感覚がこびりついていた。
どの往復にも、同じ問いがあった。
沈雪は薄い布を胸元で握りしめた。思い出すのは、一点ではない。脚が沈むたびに胸の奥を掠めた、あの小さな怖さ。呼吸が浅くなった時の、身体が先に拒む感覚。膝が危うくなるたびに走った、もう次で立てなくなるかもしれないという予感。限界が近づくたび、身体の奥から這い上がってきたのは、理屈ではなくもっと原始的な感情だった。
沈雪は目を閉じた。暗闇の裏に、白砂が広がる。一歩ごとに沈む脚。逃げる地面。遠い折り返し。戻ってきても終わらない往復。
情けない、と思った。昼間は自覚する余裕もなかった感情が、ひどく生々しく残っていた。気づけば、目尻から涙がこぼれていた。音もなく、ただ一筋、こめかみを伝って枕へ染みていく。寝返りを打とうとして、脚の奥がずきりと痛んだ。その鈍い痛みが、また白砂を呼び起こす。
胸が急に狭くなった。息を吸おうとしても浅い。吐いたはずなのに足りない。もう終わったはずなのに、身体だけがまだ白砂の上に置き去りにされているようだ。昼間ずっと感じ続けていた怖さが、夜の寝台の上で一気に形を持ち始める。
戸が、静かに開いた。冷えた夜気が細く流れ込む。沈雪が顔を向けると、戸口に師匠が立っていた。しばらく無言で立っていたが、それから小さく、ため息に近い息を吐く。
「限界と向き合うのが楽だと思ったか」
低い声が、暗い部屋に落ちた。
沈雪の喉が震える。返事は出ない。
師匠は一歩だけ部屋に入り、寝台の脇で足を止めた。
「息を吐け。今は夜だ」
沈雪は喉に引っかかっていた息を、細く長く吐き出した。呼吸が、少しずつ深くなる。すると、自然に瞼が重くなった。
師匠はそれを見届けると、静かに戸を閉めた。
夜の静けさが戻る。沈雪は涙の乾きかけた目を閉じた。




