第6話 沢
夜明けの光はまだ柔らかく、松の梢の先だけを淡く白ませていた。
戸を開けると、冷たい朝気が頬を撫でた。
小屋の前の平地に、師匠はすでに立っていた。腕を組み、薄明の中でただ静かに待っている。
沈雪は数歩進んだところで足を止めた。
昨日の白砂は、脚だけではなく胸の奥にも残っていた。だが、それだけではない。
身体が、重い。
筋肉痛とは違う。太腿やふくらはぎの痛みとは別に、身体の芯そのものに湿った鉛が詰まっているようだった。
立っているだけで脚が地面に吸い込まれる。前に出ようと思えば出られるはずなのに、その最初のひと押しがどこからも湧いてこない。
喉がわずかに鳴った。
「師匠」
声が、自分でも驚くほど薄かった。
師匠が目を上げる。
「昨夜...怖かったです」
「知っている」「で、今日は」
沈雪は唇を結び、一度だけ拳を握った。
力を込めたつもりなのに、指先に芯がない。
「やります。やらないと。でも……」
師匠は沈雪を見た。
「意地は聞いていない」
沈黙。
師匠は急かさなかった。数秒、沈雪を見ていた。やがて短く言う。
「十分だ。来い」
師匠は踵を返し、小屋の裏手へ歩き出す。沈雪は一拍遅れてついていった。
松並木を抜けた先には、昨日とは違う地面が広がっていた。よく踏み固められた平地。師匠は平地の端に落ちる松の影を顎で示した。
「今日はあそこまででいい」
沈雪は思わず顔を上げた。息が上がるほどでもないくらい短い距離だった。
師匠は続ける。
「折り返さなくていい。一本で終わりだ。あの松の下で待て」
沈雪は小さく息を呑んだ。平地へ向き直る。
足を出す寸前、昨日の白砂に沈んだ感触が足首の奥でよみがえった。最初の一歩は重かった。
だが土は逃げない。踏み込んだ力が、そのまま足裏へ返る。昨日、白砂に吸われ続けた推進力が、今日は確かに前へ通った。二歩、三歩。脚が前へ出るたび、胸の奥の鉛がわずかに薄くなる。
速くはない。それでも、自分の力で前へ進んでいる感覚だけははっきりあった。
松の影まで辿り着き、沈雪は止まった。呆然と、足元を見る。どれくらいそうしていたか、わからない。気配を感じる前に、肩に重みがかかった。
驚いて振り返ると、師匠はもうそこに来ていた。いつ歩いてきたのか、沈雪には聞こえていなかった。
大きな手だった。力を込めているわけではない。ただ置かれているだけ。それなのに、その重さが肩から背骨へ、背骨から脚の先まで、静かに通っていく感じがした。師匠は沈雪の顔を見ず、松並木の向こうを見ていた。
「今日の走りはこれで終わりだ」
沈雪は返事ができなかった。ただ、そこに立ち尽くしていた。
やがて、師匠の手が離れる。
「来い」
短い声に、沈雪は顔を上げる。師匠はもう松並木の裏手へ歩き出していた。
ー
ついていくと、地面はゆるやかに下り、岩肌に沿って細い沢が流れていた。朝の光が届ききらない水面は青く、石の縁だけが白く冷えて見える。
「――入れ」
沈雪の足が止まる。一拍。呼吸が浅くなる。
昨日のような鉛の重さは薄れている。だがそのぶん、太腿の芯に残る熱だけが、かえってはっきり主張していた。
沈雪は視線を上げ、師匠を見た。
「……脚の奥が、重いです」
師匠はすぐには答えなかった。視線を外さず、表情も変えず、ほんの短い間が落ちる。
「……それで?」
声は低く、平らだった。沈雪は息を止めた。
――重い、と言った。だが、本当に言いたかったのがそれだったのか、自分でも分からない。
脚の奥で、まだ熱が脈を打っている。水に入れば、それがどう変わるのか――怖いのか。
言葉にしようとした感覚は、形になる前にほどけていった。沢の音だけが、間を埋める。
沈雪は小さく息を吸い直した。
「……はい」
それ以上は何も言わず、草鞋を脱ぐ。水に足を入れた瞬間、冷気が皮膚を突き抜けた。反射的に呼吸が跳ねそうになるのを、歯を食いしばって抑える。
膝下まで沈めたところで、脚の奥がじわりと痛んだ。熱を持っていた場所に、冷たさがまっすぐ届いてくる。
「呼吸」
低い声が落ちる。沈雪は、ただ息の出入りだけに意識を向ける。冷たさは鋭さを失い、やがて輪郭だけを残した。
「……もういい。出ろ」
水から上がると、感覚はまだ曖昧だった。
だが、奥に沈んでいた熱が、さっきまでとは違う場所に収まっている気がした。師匠は何も言わず、布を投げて寄こすと踵を返した。
午後の光は、柔らかかった。
小屋へ戻ったとき、沈雪はもう自分の足がどんな順番で動いていたのか覚えていなかった。松並木を抜けたところまでは辛うじて意識にある。だが、その先は曖昧だった。
「休んでいい」
師匠の声が、背後から短く落ちる。
沈雪は返事をしようとして、喉がわずかに鳴っただけだった。
寝床に手をついた瞬間、意識が落ちた。
ー
どれだけ眠っていたか分からない。目が覚めたとき、小屋の中の光は橙に変わっていた。鼻先を、湯気の匂いが掠める。
ゆっくり顔を向けると、師匠が火のそばにいた。小鍋を火にかけ、湯気の立つ椀をひとつ置いている。こちらが起きたことには気づいているはずなのに、何も言わない。
沈雪は上体を起こした。少し軋む脚に手を添えながら、寝台の端に腰掛ける。身体を少し動かす。痛みはある。だが、重くない。昨日の白砂を思えば、異様なほど動き出しが軽かった。
師匠はそこで初めて、短く言った。
「戻ったな」
沈雪は一瞬、その言葉の意味を考えた。
脚が、ではない。意識が、でもない。
小さく息を吸い、今度は自然に吐けた。
「……はい」
師匠はそれ以上何も言わず、椀を顎で示した。火のはぜる音だけが、小さく二人のあいだを満たしていた。小屋の外では、夕方の松風が静かに鳴っていた。




