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白の明暗  作者: 月


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4/7

第4話 傘と炎

翌日、炎天下での稽古が続く。

少女は再び鉄の傘を掲げ、師匠の頭上に影を落としていた。腕は限界を超えて震え、視界も霞んでいる。


「……まだだ。肘を固定しろ」

師匠の冷静な声が飛ぶ。


少女は歯を食いしばり、何とか腕を持ち直したが……次の瞬間、意識が飛びかけ、傘が大きく傾いた。

刃のような鉄の縁が師匠のこめかみに迫る。


師匠は即座に腕を伸ばし、傘を叩き払った。乾いた音が響く。

傘の重量に耐えきれず、少女は息を荒げながら言葉を零した。


「……もう、無理です…… これ以上は……死んじゃう……」


その瞬間。

師匠の瞳が細く鋭く光った。


「――甘えるな」


低く、地を這うような声。

普段の冷静さとはまるで違う。焚き火ではなく、嵐の前触れのような圧力が場を覆う。


少女は思わず一歩後ずさりし、身をすくませながらも慌てて膝をついた。


師匠の胸の内にも、苛烈な感情が燃えていた。

――訓練中に限界に達するのはよくあることだ。だが“死ぬ”などと口にするのは許せぬ。

――自分の命を言葉で軽んじるような真似は、鍛える価値を削ぐ。


拳を握りしめた師匠は、怒りを必死に抑えながら吐き出す。


「俺の前で“死ぬ”などと軽々しく口にするな。

限界か否かを決めるのはお前ではない――俺だ!」


少女は震えて涙をこぼしながら必死に頭を下げた。


「……すみません……っ……」


長い沈黙。

師匠は深く息を吐き、わずかに目を閉じる。


「……いい。二度と同じ言葉を吐くな」

声音はまだ冷たい。だが、先程の烈火のような怒気は影を潜めていた。師匠はそっと弟子の額に触れ、拭いきれない汗を指先で押さえた。声には出さずとも、それが“ここで終わらせない”という約束だった。


師匠自身も胸の奥で思う。

――怒りで潰すのは簡単だ。だが、それでは鍛える前に折れてしまう。

――あくまで叩き込むための怒り。潰すための怒りではない。


少女は震える肩を抱きしめながら、恐怖と同時に、師匠が自分を「死なせまい」としていることをぼんやりと感じ取っていた。


夜。

野営の火が小さく揺れている。

昼間の灼熱が嘘のように静まり返った空気の中、少女は膝を抱えて俯いていた。


だが胸の奥にはまだ、昼間の師匠の怒声が響き続けていた。

――「限界か否かを決めるのは俺だ!」

その迫力に震えた身体の余韻が、今も抜けない。


(……あのとき……師匠、本当に怒ってた……)

(もしかして、もう……嫌われて、見捨てられるんじゃ……)


思考が暗闇に引きずり込まれる。

鉄傘を持つ腕の痛みよりも、その恐怖の方が深く重かった。


やがて、少女は堪えきれずに小さく声を出した。

「……し、師匠……」


火の向こう、師匠は座したまま剣の手入れをしていた。

その動きは揺らがず、刃を拭う音が静かに響く。


「……なんだ」

低い声。だが昼間のような怒気は感じられない。


少女は唇を噛み、勇気を振り絞って問いを吐き出した。

「……今日……怒ってましたよね……」


「……」


「わ、私……見捨てられるんじゃないかって……」


火のはぜる音がやけに大きく聞こえる。

師匠の手は一度止まり、やがて刀を横に置いた。


「……怒っていたのは事実だ」

静かに認めた。

少女はびくりと肩を震わせる。


だが次に続いた言葉は、意外なものだった。


「だが、捨てる気はなかった」


少女ははっと顔を上げる。

師匠の眼差しは焚き火に照らされ、陰影の中で真っ直ぐだった。


「俺が怒ったのは……“死ぬ”と口にしたことに対してだ。

お前が限界を測り違え、そこで諦めれば、鍛える意味がなくなる。

俺は命を投げ出す弟子を教えるつもりはない」


言葉は厳しい。だが、それは「突き放すための怒り」ではなく「繋ぎ止めるための怒り」だとわかる。


少女の胸に、じわりと熱いものが広がった。

「……でも……私、怖かったんです……」

「そうだろうな」


師匠は少し視線を逸らし、わずかに息を吐いた。その仕草は、彼自身も葛藤していたことをにじませている。


「……本気で怒鳴れば、お前が怯むのもわかっていた。

だが、あの時は必要だった。……お前に、“死ぬ”となど言わせぬためにな」


少女の目から涙が零れた。

それでも、そこには昼間とは違う安堵が混じっていた。


師匠はしばらく黙って見つめ、やがて火に手をかざしながら低く告げる。


「俺は見捨てぬ。……だが、鍛える。骨が軋もうが、心が泣こうがな」


その声音に、少女はまた身震いした。だが今度は、恐怖と同時に不思議な温もりを感じていた。

――本当に見放されるのではない。

――だからこそ、容赦なく叩き込んでくるのだ。


少女は涙を拭い、震える声で答えた。

「……はい……」


火の粉がぱちりと弾ける。

静寂の中、二人の間には確かに、昼間よりも強い絆の気配が漂っていた。


夜更け。

焚き火は小さくなり、虫の声だけが辺りに響いていた。

弟子は疲労と安堵に包まれ、すでに浅い眠りについている。


師匠は隣に座ったまま、眠る少女を横目で一瞥し、目を閉じた。

吐息が深く洩れる。


(……泣かせた、か)


昼間の自分の怒声がまだ耳に残っている。

あの瞬間、本当に苛立ちがあった。

「死ぬ」と弱音を吐いた弟子に対して、鋭く突き刺すように言葉を叩きつけた。

――だが同時に、自分があそこまで声を荒げたことに今さら驚いてもいた。


(俺は……あんなふうに怒鳴る性分じゃないはずだ)

(なのに……あの小さな肩を見たら、放ってはおけなかった)


叱ったことは間違いではない――だが、あそこまで声を荒げたのは計画外だった。


静かに拳を握る。

自分は師として容赦なく鍛える立場だ。

弟子を泣かせようが、憎まれようが、それが力になるならば迷う余地はない。

そう割り切っていたつもりだ。


……それでも。


(怯えた顔が脳裏に残る。……妙なことだ)


焚き火の明かりが弟子の頬を照らす。

涙の跡が光っている。

小さく握り締めた拳。必死に眠りながらも、まだ力を抜ききれない様子。


師匠の胸の奥に、微かな痛みが広がった。

自分が選んだ厳しさが、この少女の涙を生んだ。


(これでいい。……いや、これしかない)

(だが――俺は“教えるために壊す”のではなく、“壊さずに強くする”ために怒ったはずだ)


自分にそう言い聞かせる。

それでもなお、微かな罪悪感は夜の闇の中で重く沈殿していた。


師匠は音もなく立ち上がり、火に薪をくべる。

火花が舞い上がり、弟子の顔を柔らかく照らした。


「……泣き虫め」

思わず口から零れた呟きに、自分自身が驚く。

口元がわずかに緩みかけたが、すぐに引き締め直す。


(弟子を子ども扱いしてどうする。……俺は“鍛える者”だ)


師匠は夜空を仰いだ。

星々は容赦なく輝いている。

その冷たい光を見上げながら、彼は心の中で誓う。


――次に怒鳴るときは、ただ感情に任せるのではなく。

――必ず鍛錬の糧となる形で、使い切らねばならぬ。


火の音が再び静かに響いた。

弟子は変わらず眠り続け、師匠はその姿を一瞬見やってから、静かに刀を手に取った。

研ぎ石に刃が擦れる音が、罪悪感を押し隠すように夜の闇へと溶けていった。

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