第1期 第3話 はじめてのキスは、金曜日の放課後に
「来週は――こっちにしてみる?」
先週、仁科ミヤビは自分の唇を指差してそう言った。
冗談だ。
本人も直後にそう言っていた。
だから、気にする必要なんてない。
ない、はずなのに。
「……集中できん」
水曜日の夜。
佐藤ユウキは数学の問題集を前に、シャープペンシルを置いた。
頭に浮かぶのは数式ではない。
夕暮れ。
黒髪。
柔らかな笑顔。
そして頬に触れた唇。
(ただの頬だぞ)
自分に言い聞かせる。
それでも。
あのときの感触を思い出すだけで、胸の奥が落ち着かない。
スマートフォンが震えた。
『数学やってる?』
ミヤビだった。
『やってる』
『私のこと考えてた?』
ユウキの指が止まる。
『考えてない』
『嘘』
『なんで分かるんだよ』
『女の勘』
『怖いな』
すぐに返信が届く。
『じゃあ金曜日、楽しみにしてるね』
その下に。
『約束、忘れないでね♡』
「約束ってなんだよ……」
分かっているくせに、ユウキは呟いた。
*
そして金曜日。
放課後になると、ユウキは妙に時計が気になった。
十五時四十分。
十五時四十五分。
十五時五十分。
いつもなら帰るか勉強を始める時間だ。
なのに今日は何も手につかない。
やがて。
教室の扉が開いた。
「ユウキくん」
聞き慣れ始めた声。
振り向く。
ミヤビが立っていた。
「……遅い」
「え?」
「いや、何でもない」
「待ってた?」
「待ってない」
「ふうん」
ミヤビがにやりと笑う。
「待ってたんだ」
「違う」
「かわいい」
「帰るぞ」
「ごめんなさい」
全然反省していない笑顔だった。
今日もミヤビは隣に座る。
けれど。
「さて」
ユウキは教科書を閉じた。
「今日は数学なし」
「えー」
「どうせ分かってるだろ」
「ばれちゃったからね」
「というか、お前この前の小テスト何点だった?」
「百点」
「俺より高いじゃねえか」
ユウキは九十六点だった。
「なんで俺が教える側だったんだよ」
「きっかけが欲しかったから」
「何の?」
聞いた瞬間。
ミヤビが黙った。
視線だけがこちらを向く。
「……本当に分からない?」
「何が」
「私がユウキくんのところに来る理由」
「暇だから?」
「鈍感」
「悪かったな」
「かなり鈍感」
ミヤビが机の下で、ユウキの制服の袖をつまむ。
「私ね」
「うん」
「ユウキくんと二人になるために来てるの」
心臓が大きく鳴った。
「それって――」
「それ以上はまだ内緒」
「そこまで言って?」
「うん」
ずるい。
そう思った。
*
結局、その日も二人で一時間以上話した。
大学のこと。
受験のこと。
家族のこと。
好きな食べ物のこと。
そして恋愛の話になった。
「ユウキくんって、彼女いたことある?」
「ない」
「ほんと?」
「悪いか」
「悪くないよ」
ミヤビはむしろ嬉しそうだった。
「じゃあ、キスも?」
「……ない」
「一回も?」
「ない」
「へえ」
じっと見られる。
「何だよ」
「なんでもない」
「絶対何か考えてるだろ」
「ユウキくんの初めて、まだ全部残ってるんだなって」
その言い方に、ユウキは思わず咳き込んだ。
「変な言い方するな」
「どういう意味だと思ったの?」
「お前な」
「ふふ」
完全に遊ばれている。
「ミヤビは?」
ユウキは聞き返した。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
ミヤビの瞳が揺れた。
「私?」
「彼氏いたことあるの?」
沈黙。
「……あるよ」
「そうなんだ」
「気になる?」
「まあ」
「何人くらい?」
「そこまでは聞いてない」
「聞かないんだ」
「言いたくないことまで聞く必要ないだろ」
その言葉を聞いて。
ミヤビは黙った。
「どうした?」
「……ううん」
そして、小さく笑う。
「ユウキくんって、優しいね」
「普通だろ」
「そういうところ」
ミヤビの声が少しだけ寂しく聞こえた。
*
午後六時過ぎ。
校舎を出る。
秋の夕暮れは早い。
空はすでに薄暗く、校門から駅へ続く道には街灯が灯り始めていた。
「手」
ミヤビが言う。
「はいはい」
ユウキは右手を差し出した。
「慣れたね」
「毎回やらされたらな」
「嫌ならやめる?」
「……別にいい」
「素直じゃない」
ミヤビの指が絡む。
恋人繋ぎ。
先週より自然だった。
「ねえ、ユウキくん」
「ん?」
「私たちって何なんだろうね」
「友達じゃないの?」
「友達ってこんな手の繋ぎ方する?」
「俺に聞くなよ。経験ないんだから」
「じゃあ」
ミヤビが少しだけ手に力を込める。
「友達以上?」
ユウキは答えられなかった。
ミヤビも答えを求めなかった。
*
駅へ向かう途中に、小さな公園がある。
「ちょっと寄っていい?」
ミヤビに言われ、二人は公園へ入った。
誰もいない。
ベンチに並んで座る。
しばらく会話はなかった。
繋いだ手だけが、そのまま残っている。
「ユウキくん」
「ん?」
「先週の約束」
来た。
ユウキの心臓が跳ねる。
「冗談じゃなかったのか」
「半分はね」
「残り半分は?」
「本気」
ミヤビがこちらを向く。
街灯の淡い光が、その横顔を照らしていた。
「……したい?」
尋ねられる。
ユウキはすぐには答えられなかった。
したくないわけがない。
好きかどうか。
恋なのか。
まだ自分でも分からない。
それでも。
ミヤビのことをもっと知りたい。
もっと近くにいたい。
そう思い始めている。
「したい」
小さく答えた。
ミヤビが目を細める。
「ちゃんと言えるんだ」
「言わせたのそっちだろ」
「じゃあ」
少しずつ距離が縮まる。
ユウキは動けなかった。
ミヤビの睫毛まで見える。
吐息が触れそうになる。
「目、閉じて」
今度は素直に閉じた。
一秒。
二秒。
そして。
唇に柔らかなものが触れた。
ほんの一瞬。
それだけ。
ミヤビが離れる。
「……終わり?」
思わず口から出た。
ミヤビが目を丸くする。
それから吹き出した。
「ユウキくん、意外と欲張り」
「いや、今のは」
「もう一回する?」
「……する」
「素直」
今度はユウキから少し顔を寄せた。
二度目。
唇が重なる。
さっきより長い。
数秒だけなのに。
頭が真っ白になった。
離れる。
至近距離で目が合う。
ミヤビの頬も、ほんのり赤かった。
「……もう一回」
今度はミヤビからだった。
三度目。
短く触れて。
離れて。
また触れる。
確かめるようなキスだった。
「ミヤビ」
「なに?」
「これ、友達はしないよな」
「しないね」
「じゃあ俺たち何?」
ミヤビは少し考える。
そして。
ユウキの肩に頭を預けた。
「金曜日だけの特別な関係、とか?」
「何だよそれ」
「嫌?」
「意味分からない」
「じゃあ、これから考えよ?」
ユウキはミヤビの手を握った。
「……分かった」
その夜。
二人はまだ恋人にならなかった。
*
帰宅したミヤビは、自室のベッドに腰掛けた。
制服のまま。
唇に触れる。
一度。
二度。
三度。
ユウキとのキスを思い出す。
「……何これ」
おかしかった。
キスなんて珍しくない。
もっと距離の近いことだって、ミヤビにとっては経験のないことではない。
なのに。
今日のキスだけが頭から離れない。
スマートフォンが震えた。
ユウキ。
『家着いた』
ミヤビは微笑む。
『私も』
少し迷ってから、
『初キス、私がもらっちゃったね』
返信。
『言うな。恥ずかしい』
『かわいかったよ』
『忘れろ』
『絶対忘れない』
ミヤビは送信して、スマートフォンを胸元に抱いた。
そのとき。
また通知が鳴った。
今度は別の男。
明日の予定についてのメッセージだった。
ミヤビの笑顔が消える。
画面を見る。
土曜日。
いつもの約束。
断る理由はない。
今まではそうだった。
『明日どうする?』
指が返信欄の上で止まった。
なぜか。
今日はすぐに『会う』と打てなかった。
ユウキとキスをしたから?
そんなはずはない。
まだ付き合ってすらいない。
金曜日は金曜日。
土曜日は土曜日。
それが自分のルールだ。
だから。
『いつも通りでいいよ』
送信した。
それなのに。
送った瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。
*
同じ頃。
ユウキはベッドに仰向けになっていた。
眠れない。
「……キスした」
思い出すだけで顔が熱くなる。
初めてだった。
相手は学年一の美少女。
そして。
来週も会う。
スマートフォンを見る。
最後にミヤビから届いたメッセージ。
『おやすみ、ユウキくん』
その後に、
『来週もキスしよっか?♡』
「……寝られるかよ」
ユウキは枕に顔を埋めた。
まだ知らなかった。
自分にとって一生忘れられない初めてのキスが。
ミヤビにとってもまた――。
**数え切れないほど経験したはずのキスの中で、なぜか忘れられない一つになり始めていることを。**
そして。
次の金曜日。
二人の関係は、とうとう「友達」という言葉では誤魔化せなくなる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
ユウキたちの物語を少しでも「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけましたら、評価をいただけると、とても励みになります。
また、
「このシーンが好き!」
「このキャラを応援したい!」
「ここからどうなるの!?」
「自分ならこうする!」
など、短い一言でも大歓迎です。
皆様の感想・コメント・レビュー、楽しく読ませていただきます。
特に推しキャラについて語っていただけるのも嬉しいです。
ユウキ、ミヤビ、アヤネ、イノリ、アグリ――。
物語が進むにつれて、それぞれの恋や選択も大きく動いていきます。
誰を好きになるか。
誰を応援するか。
ぜひ皆様自身の目で見届けてください。
そして、続きも読んでみたいと思っていただけましたら、作品のフォロー・ブックマークもしていただけると嬉しいです。
それでは、次のお話で。
次回もよろしくお願いします!




