第8話 姉の声
零は壁に寄りかかったまま、膝を抱えて震えていた。翔太の言葉を聞いても、瞳は虚ろで焦点が合わない。
「……私のせいだ……澪姉ちゃんがあんな姿になったのは……私が弱かったから……」
翔太は零の隣に座り、静かに言葉を続けた。
「零さん。俺は姉さんのこと知らないよ。でも、零さんが今ここにいるってことは、姉さんは零さんに生きてほしいって思ってたんじゃないかな。……それだけは、信じてもいいと思う」
零の肩が小さく震えた。彼女は唇を強く噛み、目を閉じた。
その時——
通路の奥から、焦げた毛皮の臭いと共に、低い唸り声が響いた。
生き残りのぬいぐるみだった。炎に焼かれ、体の一部が溶けたクマ型が二体と、狼型が一体。まだ完全に死にきれず、這うように三人に迫ってくる。
「まずい……!」
蓮が血まみれの体で立ち上がろうとしたが、深手を負った右腕が満足に動かない。
クマ型のぬいぐるみが、零に向かって大きく腕を振り上げた。鋭い爪が、零の頭部を狙って振り下ろされる。
「零さん!!」
翔太が叫んだが、零はまだ動けない。過呼吸のまま、ただぼんやりと爪を見つめているだけだった。
——その瞬間。
零の脳裏に、鮮明なフラッシュバックが蘇った。
——「零……愛してるよ。私の可愛い妹……絶対に、生きて……」
澪の最期の笑顔。血の涙を流しながら、それでも零に向かって微笑もうとした優しい顔。
爪が零の目前まで迫った刹那——
「…………っ!」
零の瞳に、光が戻った。
彼女の掌から、青い魔力が爆発的に溢れ出した。ぬいぐるみの巨大な爪を、間一髪で魔力の盾が弾き返す。衝撃でぬいぐるみが後ろに吹き飛ばされた。
零はフラフラと立ち上がり、息を荒げながらも前を見据えた。
「……私は、洗脳が解けてから……この施設に復讐がしたかった。施設を壊して、上層部を皆殺しにして……それで終わりだと思っていた」
彼女はよろめきながらも、掌に青い光を集中させる。
「でも……姉ちゃんは、そんな私を望んでいない。澪姉ちゃんは……ただ、私に『生きて』って言った。笑って、誰かを守って、普通の女の子として生きてほしいって……」
零の声が徐々に力強くなっていく。
焼け焦げたクマ型が再び襲いかかってきた。零は片手で魔力の刃を展開し、その腕を切り飛ばした。フラフラになりながらも、彼女は前へ、前へと足を進める。
「だから私は……生きる。姉ちゃんの想いに応えるために。この愚かな遊園地と、上層部を終わらせるために……ちゃんと生きてやる!」
最後の言葉と共に、零は両手を大きく広げた。青い魔力が渦を巻き、残った三体のぬいぐるみを一気に包み込んだ。
激しい光の爆発が起こり、ぬいぐるみたちは断末魔を上げて崩れ落ちた。
零は魔力を使い果たし、その場に膝をついた。息が荒く、汗と血で体中が濡れている。それでも彼女の瞳は、確かに前を向いていた。
翔太が駆け寄り、零を支えた。
「零さん……!」
「……ありがとう、翔太。君の言葉で……少し、目が覚めた」
零は弱々しく微笑んだ。それは、これまでに見せたことのない、柔らかで人間らしい笑みだった。
蓮は少し離れた場所から、その姿を黙って見つめていた。自分の無力さと、零の強さ、そして翔太の存在に、胸の奥がざわついていた。
三人は再び、ゆっくりと歩き始めた。
零の背中は、まだ少し頼りなく見えたが、確かに前へと進んでいた。
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